そして明日から新年度

桜も咲きましたが、今この瞬間も全国の新入社員がドキドキしながら明日を迎えようとしているのかと思うと、感慨深いものがあります。実はぼく自身も明日から新しい部署での仕事になります。みんなが「ワクワク」しながら、誰かに急かされて萎縮してしまうのではなく、のびのびと仕事ができる新しい年度にしたいなあ。

このブログも、場所は変えながらですが14年目に入ろうとしています。本当に、学生時代の後半から書き始めたものなので、最初の頃の恥ずかしい記述などもたくさん残っていますが、変わらざるをえないものは変わっいくのだし、変えられないものはどんなに頑張っても変わらないのだろうから、いい意味での諦めや達観も強みにしながら、けれど、新しい自分があるはずだという期待も捨てずに、相変わらず、扉を叩いていこう。


筑摩全集類聚『太宰治全集』12

「太宰治」以前の習作編。本当に、作家というのは、いつから作家になるか? この習作自体に収められたのは、自らの出自や非合法運動などに取材した作品が多いものの、それらはその後の、プロの作家となった後に同じモチーフが描かれるかと言えばそんなことはないし、こんな三人称の小説を「太宰治」以前の津島修治が書いていたということがやはり驚き。そこには明確な断絶があるように思えます。幾つかの作品はもちろん、「葉」などで引用されますが、それもおそらくは太宰治の「思い出」的なフィルターをくぐり抜けられたもののみ。だって、太宰がプロレタリア作家であったならば、まだ納得がいくもののみここにはあるのです。「太宰治」がいかにして生まれたのか? 頭の悪いぼくには、この習作集を読んでも、なかなか水脈を見つけることができなかった。


佐々木閑『大乗仏教』(NHK100分de名著)

を、読みました。

講師と青年の対話による形式はどこか『嫌われる勇気』風ではありますが、非常にわかりやすい本でした。大乗仏教のタイトルが付いていますが、基本的に「釈迦の仏教」からの派生についての解説をしてくれている本ですので、日本の仏教の来歴をコンパクトに知ることができ、仏教の概観もざっくりと把握できるなかなか素晴らしい本です。もちろん「お勉強」を一方踏み出すためにはここから経典という原点へ入り込んで行くことが必要なのでしょうが、ひとまずはこのくらいにしておきましょう。なんといっても、巻末の以下の言を読むと、筆者への信頼感がぐっと増しました。盲信への継承。

心の底では信じていないことを仏教の教えだからと言って信じているふりをしたり、あるいは自分の世界観に合わせるために、たとえば「釈迦は本当は業も輪廻も説かなかったのだ」というように歴史の方をねじ曲げようとする人を見かけますが、私にはそんな器用なことはできません。やはり、自分が持っている世界観に沿って正直に仏教と向き合うのが一番納得のいく生き方だと思います。


玄侑宗久『現代語訳 般若心経』

を、読みました。

般若心経に入門するにあたっていきなり岩波文庫から入ろうかどうか悩んだのですが、ここは素人たることを自覚して……。結果として、非常に分かりやすかったです。そしてその「わかりやすさ」に溺れないようにすることをも、本書は警告してくれるところが素晴らしい。玄侑宗久は、芥川賞作家であることしか知らず、作品は一つも読んだことはないのですが仏教的な検知から小説を書いているのでしょうか。本書は、単なる般若心経の私訳にとどまらず、現代科学の知見も取り入れながら、そのものの見方・考え方が奇しくも仏教的な世界観と通ずることを教えてくれます。もちろん、本書を読んだからといって、悟りを開けるとか胸のつっかえが降りるとか、そういう安易な自己啓発の効能はないのですが、もしそういうことへの期待に答えるものがあるとすれば、意味を超えて般若心経を暗証するところから始めよ、という著者の一つのこだわりがそれに当たるのでしょう。きっと齋藤孝も同じことを言っているはず……。


松尾剛次『葬式仏教の誕生』

を、読みました。

習俗を説明する時に「昔からこう」と言われれば、やはりその「昔」というのがいつからなのかというのは基本的に確認すべきことなんでしょう。高々、と言ってしまえばそうなのかもしれませんが、仏式の葬儀が火葬を伴ってなされるようになったのは中世からであり、ましてや檀家制度というのは、いわば江戸幕府の戸籍的な政策としっかり癒着していたということであれば、現在の葬儀のあり方はもっと自由であっていいということの一つの証左になるのだと、よく理解できる内容でした。まあ、「革命」というほどのものなのかはよくわかりませんが。ぼく自身は、仏教の各宗派の細かな内容についてはまだまだ無知なので、この部分はこれから学んでいきたいと思っています。

平凡社新書って初めて買いましたが、葬儀関係のラインナップもいくつかあるようです。


井上理津子『葬送の仕事師たち』

を、読みました。

おそらくは、人の死後に関わる職業の人達のルポとしては唯一であり、かつまた無二のものではないかと思った。面白い、という感想が不適切であるとしたら、奥深い、と言ってもいいでしょう。知る、というのは大事なことだと思いました。もちろん世の中には悪徳業者もいるのでしょうし、志の低い人達も中にはいるのかもしれません。でも、それはどこだって同じなんでしょう。葬儀社や火葬場で働く人を一段下に見る必要はないし、かと言って特別高貴な仕事として「祭壇」に祀ることもまた別の誤解を生むのでしょう。職業に貴賎はありません。どんな仕事でも、そこに向かう真摯な動機がある限りその仕事は尊いのだし、一つ一つがやはり、自分の日常に跳ね返ってくる感じがしました。


青木新門『納棺夫日記』

先週、祖母が亡くなり、納棺にも立ち合いました。祖父のときも、実家での納棺に立ち合って、その時に「ああ、この人達が映画でも見た『おくりびと』なのか」と妙に感動した覚えがありました。祖母は、葬儀場での納棺でしたが、明るい空間で、妙にこざっぱりとした印象もあり、納棺一つとっても色々なんだなと、おそらくは一生にそう何回も経験することではないのでしょうが、葬儀も終わってから何となく葬儀業界のこととか、お経のこととか、仏教のこととか、最低限知っておくべきことは知っておきたいなと思い、いくつか本を買って読んでいます。特に、斎場の方のプロとしての仕事ぶりに感じ入るところも多々あり、自分の悲しみもそっちのけでビジネスとしての「葬式」についてベーシックなところから知ろうと思っています。

ひるがえって本書は不思議な本です。もちろん納棺師をなりわいとしている著者の半分小説、半分死生観の講釈、という感じで、全篇何か物語が開陳されるわけではありません。ただ、様々な光景を通じて、「光」というキーワードをもとに親鸞に近づこうとする著者の仏教観(?)が、まさに著者自らの言葉で語られていくのは、日本海側の白い景色の中で黙々と生を営んでいく強さを感じさせます。本書でも引用されていますが、何があっても平気で生きていける態度を悟りと言うというのは、確かに一つの考え方だな。


福井紳一『戦後日本史』

を、読みました。

会社の某研修の時に、日本の歴史、特に近現代史について一つでもこれは人には負けないというテーマを持ってほしいと言われ、長らく日本史にはあまり興味がなかったのですが手頃な本はないかと探して見つけました。

そもそもが、この作者、駿台の先生。学生運動の動向にもかなりページを割いており、非常に興味深く読めました。やっぱり、ぼく自身も、あの駿台の教室で植え付けられたナンチャッテ左翼思想からなかなか離れることができません。でも今はもう、それを所与の前提として、自分の知の枠組みとしてすっかり受け入れているので、逆に駿台の先生の日本史講義録だからこそすっと入ってくるものも多くあるのです。

特に、アマゾンのレビューは左翼に対して非常に辛い点数を付ける人がたくさんいるので、いい本、というか自分にあった本を探すのになかなか骨が折れます。

いままで、歴史を学ぶことは、人の偏見や主観にまみれることだと思いこんでいて、なかなか手が出ませんでした。でも、大切なのは、いろいろな人の記述をまずは読み込んで、そこに身を預けて、そうして今自分が息をしているこの今という空間や時間を捉える物語を自分なりに作り上げていくということなんだと思いました。そういう歴史感覚って、やっぱりまずは知ることからしか始まらないのでしょう。だって、もう目の前に無いんだから。

戦後史については引き続き、勉強していきたいです。


村上春樹『騎士団長殺し』

なにこれ…ほんとに、みんな、これは…ひどいんじゃないか。
何度も言いますが、『ねじまき鳥』以降の作品をまたごった混ぜにした感じ。相変わらず井戸があり、壁抜けがあります。もういいって、そのネタは。
途中で宗教団体ネタも入ってくるので1Q84的なものも期待したのですが、大して触れられなかった。全体として、カフカとトニー滝谷を足して2で割った登場人物をねじまき鳥の世界観に走らせただけって感じ。なんの小説的工夫も、楽しみも、得られなかった。途中からは、ただもう、ただ、もう早く終われと字面を追っただけだった。
しかしちょっとこれは本当にひどいんじゃないか?? いよいよ読み終わったのでネットの世界での世論も探ってみたいと思います。


2017/03/06

もう、本屋なんて行かなくてもいいんじゃないか。

答えはもう既にお前の中にあるはずだし

これまでさんざっぱら考えてきた、あるいは若い頃に影響を受けたものが

刷り込みのように効いているのなら、それを武器とするしか無いじゃないか。

再読だけが読書だ。

それをもし情報と呼ぶのであれば、

新しい情報などというものは

まったく必要ないのだ。