保坂和志『読書実録』

なんというか、映画の副音声のようなエッセイ。保坂が読み、書き写し、読者はそれを(活字になったものを)読みながら保坂の読書体験を追体験していく。これは引用、というものでは出来ない業だ。引用は必ず作者側にイイタイコトがあって、そこに寄り添うもの、そこに矛盾のないものだけが切り取られる。それでは効率主義の、権威主義の学術論文にしかならない。この本を保坂が手で書いたのか、パソコンで書いたのかわからないけれど、手で書いたとしたら、もう最後の最後は影印本として出版するしかないんじゃないか。あるいは、この本そのものをぼくたちはまた書き写して、読書という手作業ではない地平を排し、あくまで書くスピードで、自分の筆記を読み返していくことでしか保坂の意図は最後まで汲み取れないのではないか。そんな気さえしてくる、変な本です。帯には「アナキズム小説」て書いてあるけど、これ小説じゃないよね?


『熊とワルツを-リスクを愉しむプロジェクト管理』

ソフトウェア開発におけるリスク管理の重要性、また「リスク管理」とは何をすればよいのかを実務に即して解説された非常に有用な本です。熊=リスク、ということですね。

なにより本書で印象的なのは、前半部分でリスク管理をすることは仕事に対する大人の態度であることを諭している点です。みんななにか想定外のことが起きると他人のせいにして、あるいはトンズラこいてしまう。もうそんなことに時間を使うのはやめよう。やる気だけで締め切りが伸びるわけじゃないんだから気合頼みの「子供っぽい」態度で仕事をするのはやめよう。はっきり言ってそういうこと。

「仕事から逃げない」というのを一つの洗練された態度だとするのであれば、そのために人は何をすれば良いのか? あるいはそれは自分の私生活やメンタルを守るために。それがリスクを管理し、共有化していくということ。日本人的な情熱論も理解できなくはないけれど、それは後付けの、後世の伝記作者の単なる創作かもしれない。現場はいつもヒイヒイ言っていた──のであれば、答えはひとつなのだ。「大人になりなさい」


伊丹敬之『経営戦略の論理』第四版

再読。

現場に寄り添っているようで、やっぱり一介のサラリーマンとしては途方に暮れてしまうんだよなあ。誰もが経営企画やるわけではないし、そして社員の誰もが経営者としての自覚を持って・・・なんてのはやっぱり美談すぎるぜ。いまのぼくには「話し方講座」の方が随分としっくりときたりします。また将来そんな立場になれば・・・。中間管理職としてはこの「現場」の論理を「経営戦略」の論理といかにつなげるかに腐心するわけですが、それはやっぱりプロジェクトマネジメントとか、その手の実務ツールをもっと磨く必要あるんだろうなあ。そういう世界のほうがなんだかんだで好きだったりします。


『グリーンブック』

台風なので借りてきて見た。黒人差別の描き方はいろいろ注文がつくんでしょうし、史実との関係もよくわからないのですが、まあそれはこの映画の評価には関係ないように思います。ただ、バックグラウンドのあまりに違う二人の男が互いに打ち解けあっていくロードムービー。もう、本当に、ただそれだけ。清清しいくらいにそれだけのなんのひねりもないストレートな映画です。予告のとおりです。たまにはこういうのも良い。そしてやっぱりヤクザ風の男がスーツ着ていると北野武にしか見えない・・・。


村上春樹、再読

ここ数ヶ月、集中的に村上春樹の長編小説を読み返しました。
『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』

個人的にはねじまき鳥以降はすべてねじまき鳥の焼き直しでしかなく、それ以前の作品というのはある程度バラエティに富んでいたと思っていたのですが・・・実はそうでもないですね。スタイルはそれぞれ違うのですがやはりねじまき鳥にそれまでの作品のエッセンスがすべて集約されている。それを確認したといいますか、もう少しいろんなことを書いていると思っていたんですが意外とワンパターンだよなあ、と。

ノルウェイの森も、これだけはかなりリアリズムの文体で書かれているので異色な感じはしますが、人物関係やパラレルで語られる2つの世界の小説内構造は、そのまんま、あまりに似通ってねじまき鳥にも注ぎ込まれています。直子の姉も自殺しているんですよね、よく読むとちゃんと書いてある。セックスの位置づけも、現実にこんな簡単なわけないという話もよくありますが、ハルキ小説においてはもっと象徴的ななにかなんですよね。一方で、国境の南~は、あまりに通俗的なお膳立てで何度読んでも好きになれない。

一貫しているのは、神話的な世界を現実の人物を借りて、現実の人間関係を借りて具体化しているだけのこと。根底にあるのはもっと小説的ではないなにか。保坂和志的に言えば、なぜ小説というのが人間を登場させなければならないのか? という問いをアポリアにする地平と言うか。たぶん村上春樹は生身の人間を小説に描こうとか、人間のどす黒いなにかに社会的な信念を迫真のリアリズムで迫ろろうとか、そんなことはこれっぽっちも小説に期待していない。もっと根源的なにかなんでしょう。それが何かと言われるとあまりの「豊穣な不毛さ」にたじろいでしまうのですが。しかしそれが世界文学だろうか? その普遍性はたぶんノーベル文学賞的な「世界文学」とは真逆のとこにあると思う。良くも悪くも。いや、悪い意味で、かな。

ハルキ小説を嫌う人たちはおそらくその思わせぶりな粗筋のあまりの不毛さ=「結局何が言いたいの?」という問いに対峙できない、あるいは「何も言ってないじゃん、この小説」という忙しい人達なのだろうと思うのですが、それはそれで立派な人生の態度だと思います。だって本当に何も言っていないと感じるならその人にとってはそうなのだし、人生にはそんなに自由にできる時間はない。


佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない』

ミニマリスト界隈の本は、例のアップル信者的なメンタリティが嫌で食わず嫌いでしたが、この本はさほど上から目線じゃないところがそこそこ読めた気がします。ある日いきなりすべてを捨てるのではなくて、少しずつ減らしていくというのも(たしかコンマリはだめと言っていたような気がしますが)ありだと思います。ミニマリズムという「イズム」になるとそれはイデオロギーであって、思考停止の一歩手前です。もう少しなんか良い言い方がないものか。ミニマリズムという言葉から受け取れるのはひたすら少なければ善という強迫観念でしかないので。もちろん筆者はそれを否定していますが、否定しきれていないよね、具体的なあれこれを見ていると。高度資本主義に踊らされるな、というか、広告に騙されるな、ということのほうが大きいのかもしれません、実際は。さりとて、たぶんモ○・マガジンとかソトコ○あたりはミニマリストの選ぶ珠玉の逸品! なんて特集をやって購買意欲を掻き立てていたりしそうで、そういうのとごちゃごちゃになっている猥雑さが、やはりミニマリズムの怪しいところだったりするような気がします。ロハス商法と似てるよね。とにかく本質を見失わないように気をつけなければいけないのだと思います。


吉原珠央『自分のことは話すな』

なんとなく編集者が一方的につけそうなタイトルですが・・・新書ではありますが、ひたすら具体例に次ぐ具体例。理論を学ぶというよりは、書かれているケーススタディの中で自分だったらどう振る舞うかを頭の中で考えるための本かもしれません。ここに書かれていることがすべて正解だとは思わないですし、著者も同じスタンスなんだと思います。「自分のことは話すな」というのは一面的な見方で、本質は「他者へ関心を持て、そいつが一人の人間であることを想像力を持って把握せよ」ということの方に重点が有るのだと思います。

内容は悪くないので、だらだらと聞き書きをしたような構成のするのではなく、もう少し脇を締めた構成にできなかったもんか・・・。中身をもう少しパターン分けして整理して、もう少し抽象論で各章立てごとにまとめてくれれば「新書」としても成立していたのにもったいない感じがします。このページ数で「私って自分のことは話さないほうがいいと思うのよねー、ダラダラダラ以下同文」で終わっているのがもったいない。個々の事例は非常に面白いし、考える切っ掛けになります。


西任暁子『本音に気づく会話術』

再読。西任さん著書は三冊出ていますが、新刊になるほどに純粋理論にバージョンアップしていくのでけっこうついていけなかった感じもあったのですが、改めて三冊読み返してみると、この本が一番読み応えがあるというか、実践編としてもう少し自分にひきつけて自分だとしたら、という観点で咀嚼する時間が必要だなと感じました。平易な言葉ですが自分の発言が本当に自分のなんの「ニーズ」に端を発しているのかって結構、自分の深淵を覗き込む恐ろしい作業だと思います。そこには自分のとてもつまらない石ころしかないのかもしれない、自分の価値観なんて、なんとも自己中心的でどうしようもないと絶望するかもしれない。でもまずはそれを直視することからしか始まらない。「ニーズ」は、齋藤孝的にいえば「沿いつつずらせる」ものだと思うから。もちろん自分がどう感じるかを丁寧に相手へ伝えるという手間も必要だろう。でも例えばビジネスの現場ですべての会話でそれができるかというと無理だろう。だから、自分のスタイルや話し方を変えたいのであれば、自分のニーズを、相手と共有できるニーズにずらしていくこと、解釈し直すこと、あるいはリクエストすることで逆にニーズを共有できる可能性に賭けてみること、そういう勇気が必要になってくる。ここには、相手への関心という第二のテーマが出てくる。

二冊目の『聞く会話術』はどちらかといえばインタビューのハウツーのようにも思えたけれど、底流に有るのはあくまで相手への関心をいかに持つか。だから、この『本音に気づく会話術』はぜんぜん逆のことを言っているようにも最初感じられたのだけれど、実は同じことだ。相手に関心を持つ主体は自分だ。相手に関心を持っている自分をまずは愛するということ。そこに価値を置くということ。それくらい回りくどいことをしないと、会話術は本当にただの文例集というか、ハウツーで終わってしまう。そうではない。実は、会話術というのは自分の価値観を冷酷に見据えた上で、相手と共通の財産を築いていく冒険のためのとんでもなく心強い技術なのではないか。それがなければぼくたちはお互いに言いたいことを言い合って終わり、というツイッターのような世界でただそれを「会話」と勘違いしただけで終わってしまうのかもしれない。