堀江敏幸『戸惑う窓』

を、読みました。

のっけからこのタイトルに隠された一つの洒落──「とまどうまど」という言葉に「まど」が二つあることが明かされながらも、この「窓」をテーマとしてややこじつけな章もありながら、エッセイ風の散文が並んだ作品です。物理的な窓にも様々な種類があり、現実の窓をめぐる章もあれば、それを通じて何かを見る/見られるというまさにその二重性を巧みに比喩として扱った言ってみれば「窓性」をめぐる章もふんだんにあり、いつもながら読ませる文章が並びます。作者はかつてはやはりお家芸のフランス文学からの引用が多かったのですが今作はかなり日本の文学も引かれています。

それにしても窓という装置は、必ずなにかの風景を思い出させるものがあります。しかもそれは必ず本筋から外れた景色のはずです。なぜならぼくたち合理主義者は窓の外を眺めるという行為を必ずそれを目的的になすはずがないからです。たとえば大学の大教室で授業を受けていたときにふと見上げた秋の梢の葉がそよぐ教室の天窓であったり、あるいは出張の、しかも海辺を走る特急列車に乗ったときにふと手元の資料から目を上げて感じた海のきらめきであるとか、あるいはたぶんもう今はないのであろう喫煙車両の匂いも含めて──。そういうふとした瞬間の眺め、あるいはそれを眺めている自分の姿が、なにか物語の本筋から外れた踊場で思い出されることが多いように思います。だから窓の窓性というのが、すごく、時には胸を締め付けるくらい、この少し寒くなってきた外気も手伝って思い出を刺激するのだろうと思います。


東京モーターショー2019

に、行ってきました。いろいろ言われるモーターショーですが、ここでしか見られないものがあると思うとやはり行かねばなりません(半分仕事)。心なしか電動バイクの新興企業が目立っていたように思いました。

テスラの車は前にも荷物が乗るんだぜ!


マルティン・ブーバー『我と汝・対話』

を、読みました。

かつて十代の大昔、私はマックス・ウェーバーとマルティン・ブーバーの区別がつかないこともありましたが・・・。

正直言って宗教哲学的な観点からは勉強不足でほとんど読めていないのですが、この「対話」の必要性については全共闘以来、現代に至るまで課題意識としては脈々とあるはずでしょう。特に、本書が書かれたのは第一次世界大戦後、宗教というものがあるいは神というものが信じられなくなってきた一方で人間中心主義に対する不信感も同時に濃厚になってきた時期なのだと思います。神なき時代に何を寄り代にして人間たちは回復していかねばならいのか? それこそが対話であり、対話的な態度なのだろうと思います。


東洋文庫

家から近いのに行っていなかったので行ってきました。
写真はミュージアムの入り口なんですが、どちらかと言うと雰囲気重視でした・・・本にも触れてはだめなようでしたので。まあでも久しぶりに古い本の匂いを嗅げてなにより。

展覧会は北斎。江戸の版本を目にするのもこれまた久しぶりでなかなかおもしろかったです。


保坂和志『読書実録』

なんというか、映画の副音声のようなエッセイ。保坂が読み、書き写し、読者はそれを(活字になったものを)読みながら保坂の読書体験を追体験していく。これは引用、というものでは出来ない業だ。引用は必ず作者側にイイタイコトがあって、そこに寄り添うもの、そこに矛盾のないものだけが切り取られる。それでは効率主義の、権威主義の学術論文にしかならない。この本を保坂が手で書いたのか、パソコンで書いたのかわからないけれど、手で書いたとしたら、もう最後の最後は影印本として出版するしかないんじゃないか。あるいは、この本そのものをぼくたちはまた書き写して、読書という手作業ではない地平を排し、あくまで書くスピードで、自分の筆記を読み返していくことでしか保坂の意図は最後まで汲み取れないのではないか。そんな気さえしてくる、変な本です。帯には「アナキズム小説」て書いてあるけど、これ小説じゃないよね?


『熊とワルツを-リスクを愉しむプロジェクト管理』

ソフトウェア開発におけるリスク管理の重要性、また「リスク管理」とは何をすればよいのかを実務に即して解説された非常に有用な本です。熊=リスク、ということですね。

なにより本書で印象的なのは、前半部分でリスク管理をすることは仕事に対する大人の態度であることを諭している点です。みんななにか想定外のことが起きると他人のせいにして、あるいはトンズラこいてしまう。もうそんなことに時間を使うのはやめよう。やる気だけで締め切りが伸びるわけじゃないんだから気合頼みの「子供っぽい」態度で仕事をするのはやめよう。はっきり言ってそういうこと。

「仕事から逃げない」というのを一つの洗練された態度だとするのであれば、そのために人は何をすれば良いのか? あるいはそれは自分の私生活やメンタルを守るために。それがリスクを管理し、共有化していくということ。日本人的な情熱論も理解できなくはないけれど、それは後付けの、後世の伝記作者の単なる創作かもしれない。現場はいつもヒイヒイ言っていた──のであれば、答えはひとつなのだ。「大人になりなさい」


伊丹敬之『経営戦略の論理』第四版

再読。

現場に寄り添っているようで、やっぱり一介のサラリーマンとしては途方に暮れてしまうんだよなあ。誰もが経営企画やるわけではないし、そして社員の誰もが経営者としての自覚を持って・・・なんてのはやっぱり美談すぎるぜ。いまのぼくには「話し方講座」の方が随分としっくりときたりします。また将来そんな立場になれば・・・。中間管理職としてはこの「現場」の論理を「経営戦略」の論理といかにつなげるかに腐心するわけですが、それはやっぱりプロジェクトマネジメントとか、その手の実務ツールをもっと磨く必要あるんだろうなあ。そういう世界のほうがなんだかんだで好きだったりします。


『グリーンブック』

台風なので借りてきて見た。黒人差別の描き方はいろいろ注文がつくんでしょうし、史実との関係もよくわからないのですが、まあそれはこの映画の評価には関係ないように思います。ただ、バックグラウンドのあまりに違う二人の男が互いに打ち解けあっていくロードムービー。もう、本当に、ただそれだけ。清清しいくらいにそれだけのなんのひねりもないストレートな映画です。予告のとおりです。たまにはこういうのも良い。そしてやっぱりヤクザ風の男がスーツ着ていると北野武にしか見えない・・・。


村上春樹、再読

ここ数ヶ月、集中的に村上春樹の長編小説を読み返しました。
『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』

個人的にはねじまき鳥以降はすべてねじまき鳥の焼き直しでしかなく、それ以前の作品というのはある程度バラエティに富んでいたと思っていたのですが・・・実はそうでもないですね。スタイルはそれぞれ違うのですがやはりねじまき鳥にそれまでの作品のエッセンスがすべて集約されている。それを確認したといいますか、もう少しいろんなことを書いていると思っていたんですが意外とワンパターンだよなあ、と。

ノルウェイの森も、これだけはかなりリアリズムの文体で書かれているので異色な感じはしますが、人物関係やパラレルで語られる2つの世界の小説内構造は、そのまんま、あまりに似通ってねじまき鳥にも注ぎ込まれています。直子の姉も自殺しているんですよね、よく読むとちゃんと書いてある。セックスの位置づけも、現実にこんな簡単なわけないという話もよくありますが、ハルキ小説においてはもっと象徴的ななにかなんですよね。一方で、国境の南~は、あまりに通俗的なお膳立てで何度読んでも好きになれない。

一貫しているのは、神話的な世界を現実の人物を借りて、現実の人間関係を借りて具体化しているだけのこと。根底にあるのはもっと小説的ではないなにか。保坂和志的に言えば、なぜ小説というのが人間を登場させなければならないのか? という問いをアポリアにする地平と言うか。たぶん村上春樹は生身の人間を小説に描こうとか、人間のどす黒いなにかに社会的な信念を迫真のリアリズムで迫ろろうとか、そんなことはこれっぽっちも小説に期待していない。もっと根源的なにかなんでしょう。それが何かと言われるとあまりの「豊穣な不毛さ」にたじろいでしまうのですが。しかしそれが世界文学だろうか? その普遍性はたぶんノーベル文学賞的な「世界文学」とは真逆のとこにあると思う。良くも悪くも。いや、悪い意味で、かな。

ハルキ小説を嫌う人たちはおそらくその思わせぶりな粗筋のあまりの不毛さ=「結局何が言いたいの?」という問いに対峙できない、あるいは「何も言ってないじゃん、この小説」という忙しい人達なのだろうと思うのですが、それはそれで立派な人生の態度だと思います。だって本当に何も言っていないと感じるならその人にとってはそうなのだし、人生にはそんなに自由にできる時間はない。