小森陽一『レイシズム』

時節柄もあり再読。永井荷風のテクスト分析はさすがの小森流です。黒人差別の報道をもっと日本でもやれという声もありますが、日本人がどの立場でそれを報道し、ぼくたちがどの立場でそれらの報道を読み解くのかは、もっと自覚的に批判的にならないと結構怖いですよね。ニュースを読むというのは、決して純粋客観的な報道に接しているということでは全くなく、報道各社のフィルターがまずあり、そこに対してまた読者それぞれの文化的なフィルターがかかる。フィルター自体に自覚的であればいいのですが、自らを安全圏に囲い込んで「偏見」を振りかざすことだけはやめなければならない。ヤフーニュースのコメント欄なんて、良くも悪くも読む価値があるのか? この時代の一つの考証にはなるのかもしれませんが……。


『最新会計基準入門』

10年前の絶版本に最新もなにもないのですが、会計ビッグバン当初はこの手の本は重宝しました。改めて再読。世の中はもはやIFRSが当たり前になりましたね。経理的素養を思い出そうと(もとい、そんなものは最初からなかったはずだが)必死に悪あがきをしています。


横光利一『上海』(青空文庫)

を、読みました。

本作は新感覚派としての横光の一つの頂点ということなのですが、内容的には前半は租界の「トルコ風呂」の女達とのあれやこれやがドタバタと続き、後半になってようやく五三〇事件が緻密に描かれていきます。たしかに凝った文体。そして群像を描くのが本当にうまい。けれど、群像の描写がうまいと僕が以前に思ったのは他でもない『蟹工船』だったりするわけです。案外と新感覚派とプロレタリア派は文学史上は対立して捉えられていますが、五三〇事件をしっかりと描くあたり、横光も題材的にはそういうものを選んだりしているわけです。ただ表現手法と表現内容とを対立させても、それは厳密な意味で対立にはならないんでしょうね。横光が当時マルクシズムに対してどのようなスタンスだったのかはよくわかりませんが、ただきれいに、恋愛小説のようにこの事件を描ききってしまうあたりは、横光の感覚というのは抜群です、やっぱりそれはもう。もちろんある事件なり、景色なり、人々の動きなりある人物の目から見えた動向を描き出すのもうまいのですが、個人的には次の一節にしびれました。

〔……〕休んだ煽風器の羽の下で、これはまたあまりに長閑に、参木はミルクに溶ける砂糖の音を聞いていた。

横光利一『上海』

それはどんな音がするのだろうか……のどやかな雰囲気が、光景が目に浮かぶようです。


TOEIC勉強再開

公式サイトにも、7月実施についてコロナ感染予防策が発表されています。ということはIPテストの再開の日も一ヶ月を切っているのでは……? という勝手な予測に基づき、2月末に受けるはずだったための勉強も再開しています。新形式になってから二回目なので、もう少し特化した対策をしたいと思っています。

しかし公式のシリーズ5はちょっと簡単すぎやしないか……? 3000円以上もする本なんだからもう少し実益がほしいんだけどなあ。日々の対策は基本的に「千本ノック」シリーズを愛用してきましたが、「1駅1題」シリーズも少しかじってみたいと思います。このシリーズは種類が多すぎてどれやっていいかよくわからないのが難点。本屋でよく中身を見た上でないと怖くて買えないですね。

最大の課題は目下在宅勤務により通勤時間が無いため、リスニング練習の時間が全く取れないということなんですが、しかしそんな時節にテストはやらないのかな。まあ忘れない程度にぼちぼち勉強を開始したいと思っているこの頃です。


森鷗外『渋江抽斎』(青空文庫)

を、読みました。

ここで終わらないのか? という疑問を持ちながら読みすすめると、ここで終わるのか! という驚きで締めくくられる、「変な」作品ですね。鷗外作品後期の傑作群である史伝のひとつということですが、小説と呼んでいいのかわかりません。ただたしかに言えるのは鷗外の文字通り文の芸=文芸は堪能できます。

冒頭の、ミステリー小説を読み解いていくかのようなふと気になった渋江抽斎という人物へのアプローチからまず引き込まれます。ブッキッシュな調査と並行して、鷗外の人脈を駆使した各方面や墓地・寺院への聞き込みによって抽斎の子孫にたどり着くところは、鷗外の頭の中をそのまま追体験しているようで面白い。特に昔のことなので寺が移動していたりしていて聞いたことと実地見聞したこととの齟齬があり行き詰まってしまうところもなんというか、鷗外自身もそういうのを楽しんでいるような感じが伝わってきます。「ここまでは調べた、これ以降はちょっとわからない。知らない人がいたら教えてくれ」と素直に(これは新聞連載だったようです)表明し、その表明に読者から投稿があってまた糸口がつながっていく、そのいちいちが再現されていて読んでいて本当に楽しいです。

その後、抽斎のその生涯を追っていくのですが、抽斎が亡くなる記述がちょうど作品の半分くらいのところなんですね。そこで終わるのかと思えば、その後は妻の五百(いお)の強烈なキャラクターと、子どもたち、とくに陸(くが)の成り上がり人生の描写が引き続いて本当に面白い、読ませる。むしろ渋江抽斎の本編においては抽斎の生涯よりも五百の生涯のパートの方がずっと面白いです。「学がある人のところに嫁ぎたい」という五百の意図をまんまと叶えたところなど、鷗外はどうやってそんなこと調べたのだろう? 後半に行くに従って典拠の紹介が無くなり、小説的な語り口になるのもミソですね。

けっこう人物の多さとか、それぞれの年齢の考証部分などは退屈するかもしれないのですが、もっと気軽に手にとって楽しんでいい作品だなと改めて思いました。また史伝シリーズは読んでいってみたいと思います。


岩本ナオ『町でうわさの天狗の子』再読

あらためて全十二巻を再読しました。

いややはり岩本ナオは素晴らしい作家です、本当に。後半は主人公の秋姫が天狗になっていくプロセスの中で級友たちとの別れがたさや、瞬との関係の前景化が描かれていくわけですが、それもなにもかもやはりコミック前半での様々な人間模様──タケルとの最初の付き合いや、様々な同級生たちの恋愛模様、学園祭でのクラスの対立とか、生徒会役員選挙とか、そういうある意味で学園ものでは王道の道具立てがそれで終わらずら一気に花開くというか、前半のややだらっとした日常があるからこそ後半の急ピッチの展開にもしっかり人物像系の陰影がついていってるんだなあと(感心をはるかに通り越して)感動します。

特に岩本ナオは絵柄で変に美化しないところがいいですよね。クラスの中で隣に座っている人なんてきっとこんなもんですよね、実際。それでそれぞれが自分の持ち味をどうしようもできない限界としてしっかり認識したうえで自分なりの幸せをつかんでいくっていうのは、全然少女漫画的ではなくて、極めてリアリスティックな描写なのだと思います。あと意外と男同士の関係もしっかり描いていて、そこも面白いですよね。ホームセンターの場面はついに描かれませんでしたが、想像するに難くない……。


中尾隆一郎『最高の結果を出すKPIマネジメント』

を、読みました。

たまには仕事の読書です。KPIははっきり言って「はやり」ですが、ようやく単なるindicatorの観察とは違うということがよくわかりました。なんというかパソコンの画面にいろんな数字が並んでいてやばくなるとピコーンと赤く光るみたいなことかと思っていましたがぜんぜん違いました。もっと目的的に設定され、常にPDCAのサイクルの中でそれが意味アリかどうかを検証されるようなそんなものなんですね。具体的な設定の仕方とか、そういうのがけっこう書いてありましたので参考にしたいと思います。

さてしかしかそもそもKPIって誰が言い出した何のための手法なんでしょうね? 英語圏でも一般的なものなんでしょうか……。


村上春樹『1973年のピンボール』再読@kindle

鼠=キズキ、という説があるそうな。

昔、石原千秋の新書で村上春樹の初期の作品を読み解いているものがあったけれど、よく読むと単なる三角関係の話だったというオチで、当時はぼくはあんまりピンと来なかった(『風の歌を聴け』の方かもしれません)。「ピンボール」に関しては、「僕」に対して「直子」が、「鼠」に対しては別の「女」が配置されています。キズキは若くして自殺しそれが直子の自殺につながっていくわけですが、「ピンボール」においては直子の自死だけが「僕」の視線が語られ、「鼠」はあくまで町を出ていくだけです。

「ノルウェイ」が一つの頂点であり、初期三部作が登場人物を複数回登場させながらそこに至るトライアル&エラーなのだとしたら、「鼠=キズキ」というのも成り立つのかもしれません。「ピンボール」においては三角関係をいったん二つの「一対一」に分解してそれぞれを、他でもない作者が「書く」という営為で救済していく、いや、救済を求めていくというその現場が「ピンボール」という小説なのかもしれません。

それでは「ピンボール」において「鼠」はすでに死んでいる? 1970年の春に大学をやめたというところが死のメタファーなのか? 「僕」は1970年の冬までの半年を「草原のまん中に僕のサイズに合った穴を掘り、そこにすっぽりと身を埋め、そして全ての音に耳を塞いだ」。そんな状態にしたのが春先の「鼠」の死だったのか、そしてそんなときに「鼠」が夢中になっていたピンボールと再会する。

そのあと「鼠」は何度も年齢に対する言及をやめません。1973年時点で25歳を「引退」の時と定め、「女」の年齢を27歳と言い当てる。でも僕と直子は1969年時点では20歳だから「鼠」は一歳年上だったのか、それとも誕生日のタイミングの問題なのかわかりません。ただ「僕」は語りの時点で24歳か25歳だということ。引退だと自分に言い聞かせているのはほかでもない「僕」じゃないのか? なんども過去を忘れようとしている「僕」。そんな風にも読めてきます。「鼠」の物語を語っているのは「僕」であり、それは「鼠」を通じて僕の心象風景というか、思考実験をしているに過ぎない。「ハードボイルド~」と同じ構図です。

いずれにせよ1970年の春に「鼠」は死に、直子はそれを追うようにして1971年か1972年に自殺した。1973年の語り手の現時点に鼠も直子ももういない。「僕」とは少なくとも関係性を断っている。弔うように「僕」は直子の生まれた町へ行き、あるいはピンボールを探し始める。「僕」と「鼠」の距離が700キロと書かれていますが、渋谷の翻訳事務所で働いている「僕」から西へ700キロだとだいたい岡山のあたり。瀬戸内の海が「鼠」の故郷だ。しかもその霊園を訪れる描写すらある。

そういう物語なの? 本当に?


森鷗外『阿部一族』(青空文庫)

を、読みました。

短編なので一時間くらいで読み切ります。史実との相違はどこまで行ってもよくわかりませんが、やはり最後の最後でよくわからないのは、阿部一族の隣家であった柄本又七郎なんですが……討ち入り前夜に、妻に激励の差し入れを持って行かせるんですね。しかも男の自分が行くと後々ばれたときにまずいからって自分では行かないのです。又七郎の妻が差し入れから自邸に帰る時も、阿部一族の中の子供たちが普段よく遊んでくれた隣人ということで泣いて放さないとさらっと鷗外は一行だけ書くんですが、その部分とかもうなんか読んでいると涙を誘うわけです。

女たちは涙を流して、こうなり果てて死ぬるからは、世の中に誰一人菩提を弔うてくれるものもあるまい、どうぞ思い出したら、一遍の回向をしてもらいたいと頼んだ。子供たちは門外へ一足も出されぬので、ふだん優しくしてくれた柄本の女房を見て、右左から取りすがって、たやすく放して帰さなかった。

『阿部一族』森鷗外

ところが! 当の又七郎は結局、情けは情け、武士は武士だからと言ってしっかり槍を持って台所から討ち入るんですよね。隣家でしかもよく交流していたので家の隅々までよく知っているというアドバンテージを最大限生かして。しかも討ち入りが成功すると「討ち入りなんか朝飯前だ」とかなんとか豪語して、いわば城主である光尚から別荘とか褒美にもらうわけですよ。

物語の前半には切腹の前に下戸なのに酒を飲んで昼までぐうぐう寝てしまう若者なんかも出てきてます。鷗外の簡潔な筆致に相まって、大義名分だなんだと騒ぎまくっている裏で、本当にバカみたいな紙一重でバカがバカでなく見えてしまう人間群像の悲しさというか、バカがバカやったおかけで実態を知らない人々がクソ真面目に命を懸けてしまう悲しさというか、もう少しうがって見ると、おかしみというか、「人間って本当にバカだよなあ」というすこし笑ってしまう嘆息が、「歴史」という距離感の中からどうしても滲み出てしまう。

鷗外の歴史ものもしばらく読んでいないのでこれを機にまた再読してみたいです。「阿部一族」は本当に、サラリーマン的に読むとまた数倍面白いんじゃないかと思えてきます。


横光利一『旅愁』(青空文庫)

を、読みました。

いや、さすがに大作家の長編です。未完ではありながら最後まで読ませる力量はさすがとしか言いようがありません。もちろんこの『旅愁』を今の時代読むことにどれほどの意味があるのかは読者個々人によってまちまちだと思います。もはや過去の作品と言い切ってしまう方面もあるのは確かです。

横光といえばやはり新感覚派の旗手と言いますか、川端と並び称せられることが多いはずなのですが川端がノーベル賞を取って何かこう古き良き日本の体現者のような解釈を、文学史上当てはめられてしまって以降(その向きには『雪国』とかちゃんと読めてんのかって感じですが)、新感覚派としての川端はいつしか色あせてしまい、作品のボリューム的にも圧倒的であるはずの横光も、戦後に国策文学の大将として糾弾されると誰も横光の名前を敢えて出さなくなってしまった……というのが、今に至っているという感じでしょうか。もちろん『機械』だの『頭ならびに腹』の冒頭などは文学教育として引用されることは多いものの、『上海』以降『旅愁』までの作品群が今どこまで訴求力を持っているかは残念ながら、文学部を出たぼくですら自信を持って言えない。

加えて『旅愁』の難しさは、その本文の成立にあって、今ぼくたちが本屋に行って手に取れるのは講談社文芸文庫か岩波文庫。前者は戦後出版の際にGHQから検閲を受けた後の、いわば当時の読者が広く読んだバージョン。岩波文庫が画期的だったのは、検閲前のテクストを文庫化し広く頒布したことによります。そして青空文庫は講談社文芸文庫版を底本としています。

登場人物はそれぞれ何かを象徴しています。東洋精神だったり西洋精神だったり、そしてその間に矢代と千鶴子を中心とした主人公たちがあっちに行ったりこっちに行ったりします。長編の前半は洋行先パリでの生活や男女の切った張ったが中心に描かれ、そりゃまあ戦前の話ですから金持ちの坊ちゃん嬢ちゃん同士の他愛もないくんずほぐれつと冷ややかに見る向きもあるようですけど、横光が実際に特派員として目にしたのであろう事物が見事に小説世界として結実しています。

後半はかなり物語スピードが落ちて、帰国した者たちの日本での話がメインになり、中でも祖先をカトリックに滅ぼされた矢代が、カトリックの千鶴子と結婚に踏み切れず煩悶する(最後の最後は結納まで行きますが)様が描かれます。矢代の煩悶はすごくて、雪山に本を携えてこもってみたり(そこに千鶴子もノコノコ行きます)、木に話しかけたり、父の納骨のために帰郷して山に話しかけたり、相当切羽詰まっています。その間にもさまざな帰朝者と議論を戦わせるわけですが(古神道と数学の関係とか??)、イメージ的にはドスエフスキーの日本版なのかもしれません。

繰り返しになりますが、議論を戦わせる場面がけっこう多く、物語の筋としてはそんなに波乱万丈というわけではないのです。それでも横光の、良くも悪くも大真面目に「東西精神の対立」というこれまた大きなテーマとがっぷりつよつに組んで、土俵際までじりじりと執筆期間十年ものあいだ戦い続け、未完というところで力尽きたのか、まだまだ戦うつもりだったのかわかりませんが、そこまで描き続けたというのはすごいし、読んでみればわかりますがちゃんとした小説になっています。人物は自然に、上野の界隈を歩いてそうな奴らだなと思えます。

横光の落としどころがどこにあったのかはよくわかりません。ちょっとヒントになったのは、上野の博物館で、西洋式の建築物の中に仏像などが並んでいる様子について会話する場面があります。それを「融合」とは言えないのでしょうが、一つの妥協点なのかと。それが同時に矢代が、千鶴子との結婚に踏み切る一つの象徴なのでしょうが、矢代自身、あるいは横光がそれを腹に落ちて納得していたかといえば程遠いような気もします。物語は最終局面で日中戦争に突入していくわけですが、その先はそれまでの二項対立のいわば止揚の可否/是非がもはやアポリアになり、戦争が、物語から推進力を奪ってしまったが故の未完なのかもしれません。