鉛筆19本目

ひさしぶりに2Bを使いましたが、濃い鉛筆は使いやすいですね。

とりあえず、実家鉛筆セカンドシーズンの一本目消化です。

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また小説を書き始めた

去年の8月以来、もう何も書きたくない状態が続いていたのですが、無聊に負けてなのか、やっぱり小説を書く人生を選びたいともう一度思うようになってしまいました。

ほんとうにもう、自分は金にもならない、誰にも読まれることのない文字の羅列を、このAI全盛のなかで紡ぎ続けることになんの意味があるのかと(今こうして書いている文章ですら)、もうそれは意味などないのではないかと、結論づけたい欲望と闘っていたというか、二人で部屋の中でずっとおしゃべりしていたような半年でした。

誰にも読まれなくても、自己満足でいい。むしろ自己を満足させるためにのみ、書くことを選びなおさなければならないのではないか。

あるいはただ単純に英語を勉強したり、本を読んだりという「放課後」もいいのですが、やっぱり毎日ノートに何か書きたい。

書かない人生より、書く人生を選びたい。

でも、もう無理はしない。義務感から書くのはもうオシマイにする。パッとノートを開いて、1ページだけ、その日、その時に書きたいシーンを書いていこう。

今はそんなふうに感じています。

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中村桃子『女ことばと日本語』を読みました。

「ゆる言語学ラジオ」で紹介されていたので一読してみたのですが、これはややトンデモ本か? 小森陽一的なポストコロニアル批判がもうその結論ありきになっていて、国文学を専修した身としては、そこへのプロセスが雑すぎるように読めました。

明治大正に女性がどのような話し方をしていたのかは、録音がない以上(本当にないのかな?)稗史小説に依らなければならないのは分かるのですか、もっと依って欲しかった。小栗風葉も小杉天外も、もはや研究者でないと読んだこともないでしょうし、一般人からしたら誰それ? って感じだと思います。なぜ、よりによって小栗のポルノ小説に論旨の太宗を依拠しなければならないのか、そこがさっぱりわからなかった。

純粋に、近代文学の表象に論点を絞って論じたほうがよっぽど面白いのになあ、二葉亭四迷の翻訳文体とか、もっと掘ればいいのに表面的に論旨に合う部分だけさらっと振れて、国家イデオロギーの話しに飛び移るのはやや階段を飛ばしすぎている感じがします。良質な研究に触れたときのゾクゾクするような感覚は、残念ながらないです。

結局、いくら教科書や国家制度が「女ことば」を強制したとして、それが実際に日常のなかで話されていたかどうかは最後までわからないわけですよね。再び小森陽一的に言うなら、女性が自己植民地化して「だわ」なんて語尾で実際に会話していたのかどうか。それは、本やドラマのなかにしか存在しない制度的な女性性であって、本当は太宰の「男女同権」的な日常しか、なかったのではないか。──かどうかは分からないですが、そこに対するもう一歩踏み込んだ疑義が出てこないのが、やや論の運びとして素朴すぎるように思います。

おそらく筆者の言う「女ことば」が表象空間での出来事なのか、実際に日常のなかで話されていた考古学的・民俗学的な視点からのものなのかが、論の途中からかなりコンタミしていてそこがかなり読者に混乱を強いてきます。たぶん筆者としては前者のつもりで書いているのでしょうが、前半がかなり話語を起点にした論が続くので、ちょっと勘違いしてしまいますね。学術的に証明できなければ、わからないという結論でもよいように思います。

それはそうとして、いまだに教科書の副読本などで「ぼくたち・わたしたちのナントカ」っていうタイトル形式が存在しているのもおかしいですし、家庭科の教科書の挿絵が女性ばかりなのもひところ問題になっていまはだいぶ改善はされてはいると思います。ただ、そういう話と、実際にぼくたちが日常に会話している会話のやりとりが、どこまで裏側に権力構造が張り付いているのかはもう少し慎重な判断が必要でしょう。

本書は男言葉を標準的としてそれを大前提に論を進めてきますが、男言葉もよっぽどマッチョイズムに彩られた差別的なものだと思いますが…。2項対立ではなくて、色のついていない標準語なるものがそもそもフィクションなのではないか、という立論もありうるんじゃないかと。

とはいえ、ぼく自身が、男性の東京方言話者なので、自らの権力性に気がついていないだけとも言えるわけで、耳の痛い話もいったんは受け止めなければならないとは思っています。

個人的には、現代の「ボク女」の諸相(あのちゃんとか、なんで自分のこと「ボク」って言うの?)とか、樋口一葉の日本語とか、谷崎の書く「女ことば」のフィクショナリティーとか、機械音声がなぜ女声ばかりなのかとか、おもしろい切り口はまだまだあるような気もするのですが。まあ、論旨はともかくとして、引用されるいくつかの事実確認自体はどれも興味深いものなので、ツッコミを入れながら読むとなかなか面白い一冊です。

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レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』を読みました。

文化人類学のあまりにも有名な著作ですが、読めばほとんど紀行文と言ってよいかもしれません。黎明期の文化人類学の持つ、サイエンスとしてのみ語ってしまったらあまりにも味気ないが故に、そのスルメイカ的な部分も余すところなく描き込んでくれているストロースの筆致は、しかし同時に「悲しい」と言って余りあるものでした。

有名なナンビクワラの記述は後半の方なので、そこまでは不潔な旅に対する不平不満だったりも続きますがなんとかそこは乗り越えていくと、1930年代に撮影されたあまりに素朴な彼らの日常の姿に出会います。フランス語の原著にはもう少し豊富に写真が載っているようなのですが、この中公クラシックスに載せられているものだけを見ても、ナンビクワラの人々の愛情表現やレンズに向けられた笑顔が愛おしく感じます。

しかしこれは、ストロースが記述しているこの現在にはもう消えてなくなったもの。そこが「悲しい」。文化人類学の全てがそうだとは言わないものの、現地の人々と交流するにはやはり西洋文化の無用な刺激を与えてしまうし、病気もうつしてしまう。そのリスクをとりながら、彼らの生活の内側へ入りこまないとわからないものがある。それは1回こっきりなのかもしれません。記述してしまえば、もはやそれを知らなかった世界には戻れない。同じように、西洋人とある交換をしながら自分たちの唯一と思っていた文化を売り渡すことで、もはやナンビクワラの人々も、それをせずに狩猟採取だけをしてきた自分たちだけの暮らす世界には戻れなくなります。

それが、あまりにも「悲しい」。

ノスタルジーとは違う。学者の罪の意識と言っていいかもしれない。

その同じ厳しさを「文明」に対しても向けます。ストロースは文字の存在を重視しません。なぜなら、人類にとっての歴史的な大進歩は新石器時代の農耕牧畜生活の発明にあり、そこには文字による技術の蓄積はなかったのだから。あるいは、無文字社会の建築物がピラミッドに劣るとは言えない、と断言します。お前たちの思い上がりはなんなのだと、たたみかけてきます。

末尾のあまりに有名なフレーズにまでたどり着いたとき、人間の営みを宇宙の歴史的な視点で俯瞰するのが文化人類学を通して、宗教や肌の色の違いに拘泥することの愚かさをあらためて感じます。それは、もしかしたら、今この地球上を騒がしているさまざまな課題についてもまた、人類はあまりにも愚かで悲しい存在であったと、次の世代の生命体によって分析されるのと同じ視点なのだろうと思います。

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新たなる使い差し鉛筆

実家に帰ると発掘される、小学生の時に使っていた鉛筆の使い差し。もうないと思っていたら、まだあった…。

さらに、The昭和の鉛筆削りも発見。こいつも持って帰って、もう一度使うことにしよう…。

という正月でした。

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竹岡広信『よくばり英作文』が素晴らしい

たまーに、受験生をやり直したくなります。文系に進んだがゆえに取りこぼした、理系的な常識の数々をもう一度勉強し直したい。これは趣味的ではありますが、今からでも遅くはないと思っています。ぼちぼち化学、物理をもう一度ちゃんと勉強したいなあと思ったりします。

一方で受験科目も全てを完璧に仕上げて大学に受かったわけでもないので(誰でもそうでしょう。予備校の授業には終わりがありますが、いつでも参考書はやりかけのままで試験会場に向かうわけです)、やり残し感がある分野もところどころります。

英作文は、その最たるものです。

英会話のための、自分の性にあった勉強方法というのを長らく探してきたが、英作文に最近たどり着きまして、あまりビジネス寄りでもない参考書を使って勉強を続けています。

英作文は、比較的原文に忠実な対訳さえあれば、英作文専用の教材でなくとも役に立つのが良いですね。その意味で、世の中にあるほとんどの英語の参考書は英作文の教材になり得ます。

あらためて、受験参考書の英作文対策の本をあさってみると、京大の自由英作文対策を別にすれば、ほとんどが英文法の確認のための英作文という感じのものばかりのなか、この竹岡広信による『よくばり英作文』は受験科目を超えて非常に面白い本です。

英作文をやっていて「キモチイイ」のは、「あっ、このよく使う日本語の表現って英語でこう言えばいいのか〜!」というエウレーカですね。

英作文の醍醐味はこの気持ちよさをどれくらい楽しめるか。2つの言語の世界をどれくらい飛び回れるか、でしょう。本書はその意味において正しく「よくばり」に出来上がっています。うえの例文を見ればなんとなくわかってもらえるのではないでしょうか。

ぼく自身は母校は駿台と思っていますが、竹岡さんに習ったことはありませんし、変な信者でもありませんが、動画など拝見すると特に英作文へのこだわりの強さは信頼できるなあと常々思っています。その中で、本書はよく日本語では言うんだけどよく考えると英語でななんていうのだろう? と思えるような問題にあふれていて、受験英作文の射程をはるかに超えた見通しのよさが素晴らしいです。

このことは本書の「はじめに」でもしっかり明言されているのですが、ぼちぼち1周目も終わりそうな中で、「たしかに!」と思える一冊であることが確信できましたので、オススメする次第。

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子供のころの景色

ときどき、子供のころに住んでいた場所にわざわざ行くことがあります。大抵は、仕事が思わず午前中で終わってしまって、午後の広大な時間を持て余した時です。

もう、両親も別の場所に引っ越していて、ぼくが子供の頃に住んでいた家そのものはもうありません。同じ場所には、見たこともないデザインの家が建っていて、まったく知らない家族が住んでいます。

でも、家の前のアスファルトのデコボコは、まがうことなく、子どものころのぼくがボール遊びをし、ラジコンを走らせ、蝋石で落書きをしたあのときのままなのです。

ただ、それを見たいだけなのかもしれません。

もしたら次の異動で、遠くに行ってしまうかもしれない。あるいは、次にここに戻ってきたいと思ったときには、もう足腰も不自由な年齢になってしまっているかもしれない。そんな恐怖が、四十を過ぎるとふとよぎることがあります。

全ては捨ててきた。過去に捨ててきた。もう振り返ることはないだろう。あれほど、そう思っていた場所が、今さらいとおしく、心ひかれるものになっています。理由は、本当にわかりません。

夕方になると、温かい夕食のある家に自転車を走らせた。都会と違って、道は真っ暗だ。上水路の、黒黒とした流れが、吸い込まれそうな闇を湛えていた。あの時の、子供のころの、帰っていける安全な場所があるという感覚がうらやましいのかもしれません。

でも、全てがあの頃のままではありません。団地はさびれて取り壊されているし、そのなかにあったスーパーマーケットも閉店。子供が集まっていた駄菓子屋はシャッターが降ろされ、好きな女の子の家も建て替えられている。

でも、目を凝らせば変わっていないものもあります。通っていた文房具屋はまだ看板を降ろさず、いまは野菜も売っている。学校の校舎は古びたまま、今の新しい子どもたちを迎えている。よく登っていた木はもう切られ、二宮尊徳の像も場所を移している。製麺所は、栗林は、卵の自動販売機は、…まだ、形を変えずに残っていたりもします。

そんなものを確認して、どうしようというのでしょう。わかりません。人生は、後半戦に入っています。いつまでも、誰にも読まれない小説を書いたり、Xのタイムラインを漫然と眺めていたり、酒を飲んで気炎を吐いたりしているたけでいいのかと、思ったりもします。

2025年は、なにかそういうことの答えを出さなければならなかった年なのかもしれません。あきらめるべきことはあきらめる。でも、まだまだやれることはある。それを、残酷な現実の中からもう一度掬い上げ、確かめなければなりません。

もう時間はありません、本当に。

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TOEIC SPEAKING対策は「三穂先生」一択だよ。

テスト結果も帰ってきたので、初めてのTOEIC SPEAKINGの振り返りをしてみたいと思います。

とにかく、タイトルの通りで、冨田三穂『改訂版TOEIC(R)スピーキングテスト究極のゼミ』これ一冊やれば十分な対策になります。というかですね、本屋に行ってもアマゾンを検索してもこの試験のまともな対策本ってこれくらいしかないです。TOEICって結局は試験ビジネスなので普通は公式本だけやれば点数が取れるようにできているんですが、スピーキングに関して言うと公式本もライティングと抱き合わせの薄っぺらい本しかなくて、結局この試験に関しては内容というよりも形式を制した者の勝ちなんだろうな、と思います。スピーキング技能の場合、内容を埋めるのは受験者なので、新しい試験を考える必要がTOEIC側もあんまりないのかもしれないです。

で、その形式ですが、詳しくはこの本にも書いてある通りですが、L&Rの逆をやればいいだけなんですね。

写真描写なんて、L&Rの対策で嫌というほどやってきたわけです。その逆をやればいいんですよ。マンションで配管工を呼ぶとか、道を横切っている自転車とか、パーティー中のレーストランとか、オフィスでの会議の光景とか、死ぬほど見てきたじゃないですか。それを英語でやればいいだけの話なのです。

音読も一緒です。長いようですが結局はPar4の問題文を読んでいるだけなんですよ。そう思うと、ああ、ああいう感じでしゃべれば点が付くのね、と対策が取れるわけです。三穂先生の言う通りで、スーパーマーケットの安売りアナウンスだとか、セレモニーのスピーチとか、これも死ぬほど聞かされてきたじゃないですか。いつもの「ああ~、ほんとTOEICの世界観だよなあ」と思いながらお付き合いすればいいだけなんです。

情報提示問題も、Part7を読み聞かせてくれているようなもんで、マジでスピーキングの試験なのかこれは? と思えてしまうくらいです。設問も完全にパターン化していますので、しつこいですが三穂先生の言うとおーりに対策すればなんの心配もありません。びっくりするくらい「進研ゼミでやったところだ!」バリに同じことしか聞かれません。

しかし! ここまではいいとしてやはり差がつくのは最後の意見を述べる問題でしょうね。こればっかりは正直、直接的な対策というのは難しいので回答の黄金パターンを自分なりに形式化しておくのが良いと思います。Geminiと相談してぼくが編み出したのは以下のようなパターンです。

・コストで判断するもの⇒金がかかるor手間がかかる
 1.経済性・効率性
 2.便利さ・アクセス

・成長性で判断するもの⇒メンタルの成長or知識が得られる
 3.精神的成長
 4.知識・スキル向上

・社会性で判断するもの⇒社会性が身につくか
 5.社会的交流

無理やりでも上の5パターンの中からメリット、あるいは逆張りでデメリットを見つけ出してあまり深く考えずに思いついたことをパパっと説明してしまうのが良いと思います。

すべてに言えることですが、音読まではのんびり行けるのですが写真描写以降は思った以上に時間が短いです。ぼくは、パソコン画面を拡大して受験していたので最初のうち、タイマーが画面の外に切れてしまっていて存在に気が付かないという失態を……。気が付いてからはけっこう早口でしゃべりまくったらあっという間に試験時間が終わってしまった、という印象でした。

個人的にはあんな程度の回答でこの点数か……という感じで、もう少し対策をレベルアップしていけばさらに点数化できそうな手ごたえがありましたので、引き続きこの場で報告していければいいなと思っています。

皆様も素晴らしいTOEICライフを!

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鉛筆18本目

進研ゼミかなんかの宣伝に同封されていたが、子どもがミニオンに興味がなくお父さんが使うことになった鉛筆。難点は、なぜか標準的な丸型鉛筆よりも直径が微妙に小さく(そんなのでコストダウンになるのか?)あらゆる鉛筆ホルダーが使えなかったこと。

そんな中で、サクラクレパスから出ていた新商品はばっちり使えた(ちょっとテープを巻いて太さをかさ増ししたけど)! このホルダー、グリグリと刺すだけなのでなかなか使いやすい。ねじ式はなんだかんだで緩んで行っちゃうのよね。グッドな鉛筆ホルダーです。オススメ。

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ボールペン9本目

今回使い切ったボールペンは、ただモノではない。たぶん15年くらい使い続けた赤ボールペンだ! ついになくなった……。亡くなった、と言ってもいいくらいだ。

赤ペンというのは、スタッフのころは使わない。管理職になると、部下の資料を修正するのにたくさん使うようになるのだ……。つまり、オレも歳をとったというわけさ。

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