歯の詰め物を取り替えました

昨日の夜ご飯を食べていたら、ガリっと固いものを嚙んだ感じがしてなんだろうと思ったら小学生の時に虫歯を詰めた詰め物が、30年の時を経て取れていました。取れた跡を鏡で見てみると真っ黒。詰め物の下で何年もに渡って虫歯が成長したのだろうか? しかしなんにも痛みは感じない。

それで今日は近所の歯医者を予約して見てもらいに行ってきましたが、やはり虫歯になっているということで、これを新たに削って詰めなおしてもらいました。いまはレジンの詰め物で、光を当てると固くなるやつですね。しかも色が白いので跡がまったくわからない。さすがにぼくが小学生の時はこういうものはなかったわけですね。1時間くらいで施術は終わり、もうこれで帰ってよろしいということになりました。即時、まったく問題なく生活が再開できていて歯医者ってすごいな・・・と思った三連休初日でした。

「本日の、吉本ばなな。」を読みました。

おそらくは新潮社から当時刊行されてた自選選集のプロモーションの一環として編まれたムック。インタビューと、「ちんぬくじゅうしい」という短編(これはなんかの作品集に再録されていたはず)、加藤典洋による解説と、あとこれがものすごく平成っぽいのだが波照間島に新潮社の企画で旅行して書かれた旅行記というか日記が収録されています。なんとなく会社の金で南の島に行って雑誌一丁上がりっという楽天的な感じが時代がかっていてすごくいい。いま同じことをさすがの有名人がやっても誰も読まないでしょう。

巻頭インタビューが改めて良い。世の中に暗い話は現実にいくらでもあるのにそれをわざわざ小説に書く意味はない、疲れて家に帰ってきた勤め人が明日ももう少しだけがんばろうと思えるような物語──それを敢えて「癒し」というマーケティング的なレッテル張りをするのは本屋だけにしておいてほしいが──それを目指すのだという宣言は素晴らしい。加藤典洋の解説もなんかちゃんと読める。難しくない。素直に読める。

表紙は懐かしの初代iMacですね。あの頃はまだモノというか、プロダクトの斬新さがもてはやされ得る最後の時代or時代の最後だったように思います。今やスマホの新機種が出ても、目に見える新機能はアプリの方であって、モノそのものにはあまり新規性はないので。そういうのも含めてなんだか懐かしい一冊。

ボールペン1本目

ラミーサファリ。金属なのでどこまでインクが減ったのかわからないのが使っていて怖い。が、無くなった。金属の方が板厚が薄くてインクがたくさん入るんだよね。スペアがあと一本あるのでまた半年くらいは同じボールペン(外側)で仕事アンド創作!

「椎名麟三集」筑摩日本文学全集56を読みました。

そのむかし、「深夜の酒宴」を読まなければならないことがあってさすがに講談社学芸文庫には手が出なかったため古本屋で買い求めた500円の端本。むかしはこういう文学全集の〇〇集みたいなのが安くたくさん売っていて、学生の身分には助かった覚えがあります。もちろん長編作家は読めないのですが。

さて、あらためてこの作品集を読み返すと、むしろ「深夜の酒宴」一つがあまりにも暗すぎて、文学史的には「第一次戦後派」(そもそも第一次というからには第二次がいるのですが、これっていつだれが命名したんですかね)とレッテル張りをするのにちょうどよい作品ではあるし、別にこれが優れていないと言うつもりもぜんぜんないのですが、やはり椎名の作品で面白いのは「美しい女」「神の道化師」のようなそこはかとないユーモアを根底にひそめながらも貧困という悲惨な状況下でも(単にもうかるから仕事を選ぶのではなくて)自分のやりたいことを大切にしていく主人公たちの生きざまなんですよね。

それを「実存」なんて言葉であえていうのだろうか? むしろ初期村上春樹的な健康的な軽さ、明るさもそこにはあるんですよね。「美しい女」の主人公はとにかく電車を運転するのが好きなんですよね。そこにべつに理由もないし、結婚したからと言ってそれが変わるわけではないし、共産主義者になったからと言ってそれが変わるわけでもない。思想が胃痙攣に無力であったように、もっとなにか自分という肉体にぴったりと寄り添った「嗜好」のようなものを押し通していくありさまがある意味では潔いし、ある意味ではその理由の無さからあくまで文章の中では異様な行動様式に映るのかもしれません。それとカミュの主人公との間にどれほどの懸隔があるのかわかりませんが、個人的には全然違うんじゃないの? という気もしますね。

椎名麟三はまだまだ現代的なテーマを持った作家として生き続けていると思います。

『五等分の花嫁』について

『五等分の花嫁』についてずっと考えていた。そもそもが水瀬いのりが好きで見始めたものだったのだけれど、五人の声優さんのキャラがいちいち合うようにキャスティングされているのかどうかわかりませんが、イベントの動画を見ていても声とキャラクターにこれほど違和感のない作品も稀有だなあと……まあ、それはそれとして。

結局、この作品の大きなテーマの一つは「選ぶことの残酷さ」なのでしょう。そもそも同級生の五つ子の家庭教師になって五つ子がみんなそいつを好きになってしまう……なんて設定自体のある種のいかがわしさは見る方からすればもう織り込み済みのフォーマットなんですよね。それは古典的な恋愛ゲームをなぞりつつも、見る方からすれば五つ子の中の誰かが最後は選ばれることはわかっている、しかし五つ子であるが故に顔だけ見ても誰なのかがわからない、という初期設定の在り方は、たとえばテレビアニメには恋愛ゲームを移植した傑作も数々あるわけですが、「複数のゲームシナリオ」を同時に成り立たせるための設定としては結果として非常に優れていると思えます。つまり、ゲームでは互いに排他的になるストーリーが、『五等分の花嫁』の場合は最後まで一つのシナリオをあらゆる角度から見た「見方の違い」で処理できてしまう、そこがとんでもなくすごい。「五つ子」という設定をこれでもかというくらいにうまく使っていると思います。

もちろん風太郎との出会いは小学校の修学旅行にまでさかのぼるわけですが、五つ子の物語も実は同じ起源を持っているということは少しずつ明かされていきます。これはむしろ五つ子の、なかんずく四葉の物語に最後は収れんされていくわけですね。五つ子からはみ出したいと思ってリボンをつけ始め、自分だけ落第してから姉妹も転校についてきてくれたところからの四葉の葛藤はそれそのものが彼女の人生、成長に重ね合わさってくるわけです。でもそれは高校生の風太郎は全く知らない。もしかしたら五つ子を見分けることのできなかった小学生の風太郎がようやく五つ子を見分けることができるようになった時に、彼女を最終的に選んだのもそのあたりに理由があるんでしょうね。そしてそれもまたお互いの「選択」を積み重ねた結果でもあるわけです。

四葉を選べば他の四人とのエンディングは無くなるわけですが、しかしこの映画の中ではある意味でそれぞれがきちんと落とし前をつけてくれています。夢落ちで見なく、単なる妄想落ちでもなく(東京大学物語のような……)、きちんと物語が無理なくリニアに進んでいるということに安心しますし、「謎解き」もこの物語を楽しむための大きな要素でもあります(最後に詰め込み過ぎている気もしますが…三期くらい使ってじっくりやってほしかったなあ)。ただいずれにしても設定のある種の「ありえなさ」よりも、五つ子それぞれを「推し」ながら王道ラブコメが展開する感情のジェットコースターに身を任せていると、ほんとうに忘れていたいろいろなことを思い出させてくれる、とても良い作品です。

鉛筆16本目

これにていったん鉛筆生活は終わりにします。学生時代からの使いさしが残り一本になりましたのでこの一本は普通に使っていきたいと思います。仕事で使うメインは今度は使いさしのボールペンの消費に移りますので、次の更新は「ボールペン1本目」になるはずです。お疲れさまでした!

『予備校文化(人文系)を「哲学」する』を視聴しました。

いやもう・・・めちゃくちゃ面白い4時間でした。アーカイブされたものを購入して見ましたが、そもそもからして『大学デビューのための哲学』は、ぼく自身は大学に入ってから読んだので20年以上前になるわけですが、折に触れて読み返す貴重な一冊です。

なんとなく、自分には人生の原点のようなものが二つあって、それは駿台で霜さんの授業を受けていた受験生のころと、就職活動をしていた頃なのですが、つまりは自分の人生の岐路にあってめちゃくちゃ悩んだり傷ついたりしていた頃なわけです。特に霜さんの授業には本当に影響を受けて、今でも本の読み方とかものの考え方はだいたいそのころに身につけた方法論をなぞっていますし、いまでも会社でも部下についつい「イイタイコトは?」などとわざとカタカナで問いかけてみたりしてしまいます。

それはともかくとしても、まあやはり20年も経つとみなさん(入不二さんも大島さんも駿台文庫の写真でしか接しなかったわけですが)年取っておられてそこがまたいい味を出していますね。自分としては霜さんの声がまた聞けて何よりでした。こんなにゆっくりしゃべっていたかな? というくらいのスピードですが、たぶん当時もこれくらいだったかもしれません。

話題は最初から最後の一秒まで面白い。伊藤和夫がやはり端々に出てきますし、河合塾との比較や特に最後のB社・R社のところは、予備校講師からはそういう風に世の中が見えているのかと、目からうろこでした。確かにディストピアはすぐそこにまで迫っています。それに対抗するための「予備校文化」ですし、そもそもが神田カルチェラタンに端を発するカウンターカルチャーなわけですからね(その意味で駿台文化というのはほとんど東京の御茶ノ水の本当に限られた地域の熱狂なのかもしれない。そういう視点は抜けていたと思うけど、入不二さんなんかは山口大にいたころどう感じられていたのだろうか)。最首さんなど学生運動世代はこの三方よりもさらにひと世代上になるわけですが、だんだんとそういう「気概」のようなものが世の中に散って行って希薄化しているのは事実。でも、消えてはいないし、消えることはないんだと思う。

鉛筆15本目

前回から二か月。小説を書き始めると消費もやや早い。消しゴム付きの事務鉛筆。

いったんあと二本で途中まで削ってしまった鉛筆の消費は完結するので(新品の鉛筆はまだクソほどある)そこまでで鉛筆生活はいったんおしまいにしようかと思っています。次はたまっているボールペン消費生活に移ろうかなどと考えています。あとシャープペンも使っていないのに芯だけたくさん余っているので、これも断捨離したい。

大人になると、消しゴムで消す、みたいなことがTOEICの試験くらいしかなくて、それも今やオンライン受験なので、鉛筆やシャープペンを「使わなければならない」場面というのは限りなくゼロに近い。でも、嫌いではない、鉛筆。翼を授けてくれるのはレッドブルではなくて、いつでも鉛筆だ。永遠の下書き。だからこそ、はかどったりすることもあるのだ。

ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』を読みました。

ほんと15年ぶりに読み返しましたが、おもしろかった! もうジブリの世界ですね、セリフが一つ一つ渋い声優さんの声で聞こえてきそうなくらいです。

ぼくの世代(40代)だと本作はまず群像社ライブラリーなんですよ。今でも覚えていますが、もうなくなった渋谷のBOOK1stのロシア文学の棚に行くといつも、上下2巻本の分厚くて小さい本が並んでいて、面白そうだなあ~、でも高いなあ~、と思いながらぱらぱらとめくっていたものでした。大学の同級生が、たしか授業で読んでいるというのも聞いて、なおうらやましかったのも記憶しています。

時は流れ、かの池澤夏樹による瀟洒な世界文学全集に入ることになったと聞いた時、いの一番に買って読みたいと思わせた本作。いまでは岩波文庫にまで取られています。本当にすばらしい世の中になりました。

・・・という思い出話はさておき、当時のソ連の社会を風刺しているのかどうかはぼくには正直、まったくと言っていいほどわかりませんが、黒魔術師が劇場でニセ札をばら撒き、ほうきにまたがった全裸のマルガリータが空を飛び、黒猫がスーパーマーケットでオレンジを食らう──もうそれだけでワクワクするじゃないですか。これだけの長編でページをめくる指が止まりません。ゴールデンウィークに通読するのにまさにうってつけの一冊でした。

カート・ヴォネガット『国のない男』を読みました。

2007年に亡くなったヴォネガットの最後のエッセイ集。ここで語られていることは残念ながら今でも有効だ、特にアメリカの大統領については。ヴォネガットは地球レベルで人類を突き放しながらなんとかユーモアで手を差し伸べ続けた作家。タイトルに偽りがあるならば、むしろ「星のない男」とした方がよかったのではないかと思ってしまうほどだ。