鉛筆10本目

これで赤鉛筆はおしまい。かと思いきや、子供の余った紫色の色鉛筆を押し付けられたので、明日からは赤鉛筆の代わりに紫鉛筆をマーカーとして使います。

よしもとばなな『花のベッドでひるねして』を読みました。

この系統は本当に好きです。「王国」シリーズ、あるいは『ハゴロモ』からもきっちりと一本の糸でつながっている感じがじます。この小説に書かれている「ちがうことをしない」という哲学が、それこそその後に発売されたエッセイにも受け継がれているわけですが、これはやっぱり小説で読んだ方がいい。

「ちがうことをしない」というのは、いつもと同じ繰り返しをしてぬくぬく生きていくということではない。「ちがうことをしない」とわかっていても「ちがうこと」をしてしまうときはある。それは否定されない。そもそも「ちがう」かどうかは自分だけが決めるわけではない。神様、というしかないのかもしれないが、もっと大きな存在が自分という駒を悠久の時の中で動かしているとしたら、それにあらがわないということだ。その声がもしかしたら我々凡人にとってはたんなる虫の知らせだったり、直感的な判断だったりするのかもしれない。自分で自分はこうだと決めたものをただ守るということではない。決して。そこが、小説でなければ伝わらないんじゃないかという気がする。

たしかにエッセイが発売されたときにネット界隈で話題になったのだ。たぶんそれは、きわめて(インターネット上のサイレントマジョリティにとって親和性のある)保守的な生活感覚にどこか響いたのかもしれない。いつもと違うことはなるべくしない、昨日と同じ今日がおくれるようにしたい。そういう価値観。でも、実際よしもとばななが言っていることは全然違う。行きたくない飲み会に行かない自分を正当化してほしいだけの人はきっと読み過ごす。

「linguaskill business speaking」私の勉強法 その2

2021年末に受験してから約2年、ふたたび会社指令により受験をしまして、一応多少は前回より得点アップしたので(とはいえ胸張って人に言えるレベルではないですが)それなりに効果があったかもしれなかったことを踏まえ、今回の勉強方法を記録として残しておきます。

いずれにしても英会話の上達が目的ではなく、スピーキング試験の対策としてやっているという点は悪しからず。本当に上達したい人はオンライン英会話が最も効果的だそうですが、そういうのに金を払いたくもないしやる気もないし、独学が性に合っている人向けです。

1.スピーキングに対する心理的ハードルを減らす

今回は以下の書籍によりまず「なんでもいいから英語を口にする」ことに対する心理的ハードルを下げることを試みてみました。いずれも直接的にリンガスキル(特にビジネスの)対策にはなりませんが、試験に立ち向かう心構え、英語で発想する頭や、口をついて出てくる舌の動きのウォーミングアップになります。なんというか、斉藤孝的に言えば「英語的身体」をこれで目覚めさせる、という感じです。

まずは言わずと知れた「瞬間英作文」。

この元祖本と、最近新しく出たビジネス編も(モチベーション維持のために)取り組みました。

これらをそれぞれ最低でも3周やりました。1周目はかなり苦痛でしたが、コツをつかんでくるとそれなりにすいすい行きます。

瞬間英作文は、方法論としてこれで英会話ができるようになるのかどうかはいろいろ議論はあるようです。結局は日本語を発想してそれを英作文にして話すというのをどんなに素早くやっても、そもそもから英語で発想して会話する思考回路ははぐくまれないと。そういう勉強法としての反対意見は根強いようです(とっかかりとしてはいいけど、それで英会話が上達するわけではない、ということ)。

しかしながら、スピーキングテストのように相当な短時間で、無音よりはなんかしゃべっておくほうがましという環境下においてはまだ、なお、瞬間英作文で培った英語力でなんとかなるんじゃないかと思います。しょせんぼくたちはネイティブではないのであまり高度なことを初めて与えられたお題で話すのはもう最初から無理なので(もちろんできるにこしたことはないですが)、沈黙よりは簡単な英語でなにか吹き込んでおくほうが良い、その時にぱっと頭に浮かぶのはやはり中1レベルの英語なんですよね、良くも悪くも。

あとは、IELTS用のスピーキング対策本を一冊見て、回答例の参考にしました。この本はあくまで対人でやる、しかもお題が学生向けやgeneralの(ビジネスは一切出てこない)IELTS対策用なので、必ずしもlinguaskill business speakingに特化されていません(Part1の参考くらいにはなりますが、そこばっかりやってもしょうがないので)。なので人によっては時間の無駄です。この本を参照する目的はあくまで、だいたいこれくらいのレベルの内容を話せばC2レベルなのだろう、というレベル感の確認です。

したがって、正直に言えばこの本の回答例は非常に高度です。これを試験で話せと言われてもぼくには無理です。ただ、だいたいこれくらいの内容で回答すればオッケーであるという日本語の内容の参考になるのと、あとはそれをどの程度自分が使える英語の守備範囲で表現できるかを自分自身に逆に問うていく──そんな位置づけなんじゃないかと思います。

2.新たな武器:ChatGPT×PDF読み上げ×DeepL

前回から英語の学習環境として大きく変わったのがChatGPTの登場です。これにより(ホントか嘘かわかりませんが)無限に試験に出そうなお題と回答例を手にすることがぼくたちにはできるようになりました。

たとえば「give me some topics which I will encounter at the part.5 of liguaskill business speaking test.and also give me some sample answers of each queistions.」などと入れてあげればいくらでも回答例が出てきます。しかもかなり当たり障りのないものなのでちょうどいいんですよね。

こんな感じで、このあともずらずらとトピックを生成してくれます。リモートワークに関するものとかダイバーシティに関するものがよく出てきましたね。

ただ、忙しいサラリーマンとしてはこれを無限にやったところできりがないですから10個くらいこれだと思うものを決めたらあとはそれをひたすら聞いて覚えるということにしました。その際に役だったのがPDF読み上げ機能です。

これがけっこう重宝しました。本来は目が見えない方のための機能のようなのですが、リスニング教材か? と思えるほどの流暢な読み上げで、リスニングの勉強にも確実になります(読むスピードも変えられます)。スクリプトも目の前にあるので、わざわざ本屋で音声ダウンロード付きの教科書を探さなくても、自分に合った教材をもはや無料でいくらでも作成できるようになりました。本当にいい時代になりました。

さらにChatGPTで生成した英文をDeepLで翻訳かければスクリプト翻訳も一瞬で出来上がります。これはこれで、英文の回答例が口から出てこなくても、回答内容を日本語でも記憶していれば、自分なりの英語で表現する際の足掛かりにはなるわけです。

これらの自作教材をスマホに突っ込んで会社の行き帰りに聞いたりスクリプトを見たりするだけでずいぶん勉強になりました。

おそらくはスピーキングのテストというのは

 ①与えられたお題に、どんなにしょうも無くとも瞬時に回答例を日本語で発想できる力

 ②どんなに低レベルの英語表現でも①の内容を瞬間英作文できる力

がまずベースにあって、そこから得点を伸ばしていくには1つの文型だけではなくて5文型をそれなりに組み合わせる、それなりの文法表現(to不定詞、動名詞、仮定法など)を盛り込んでいくことである程度は行けるんじゃないかと思います。

あとしょうもないですが、まったく聞かれていることがわからないときの答えを用意しておくと心理的には安心です。「Actually, I have no idea,but that issue is very important…」とかそういう感じのです。

3.今後に向けて

英作文からスピーキングへのつながりについては我らが竹岡先生が相変わらずいいことを言っています。

結局のところ手持ちの表現を増やすために瞬間英作文を繰り返したうえで、このお題にはこう答えるというパターンを日本語でぼんやりと発想しておくことが大事なのかなと。対訳をすべて暗記しておこうとするとさすがにきついです。スピーキングテストはある程度は暗記大会ですが、ある程度以上はその場で発想していかなければならないので、2のChatGPTの回答例もそれを暗記するというのではなくて、まあだいたいこんな感じのことを言えばいいんだな、くらいの心構えで十分かと思います。

4技能というのでライティングとスピーキングはまた別の対策が必要なのではと思っていましたが、なんとなく今回、英作文が自分なりの糸口になるのではないかということがわかったのが一つの収穫でした。大学受験生のころはリスニングだけでもヒイコラでしたので英作文なんてほとんど対策しませんでしたが、瞬間英作文を何周かして心理的ハードルも下がった今では、もうちょっとやってみようかな、という気持ちにさえなっているのが不思議なものです。

なお、練習用教材として前回はSpeak & Improveというものを紹介しましたが、その後ビジネス用のスピーキングテストとしてPROGOSというものができ、そのスマホアプリ版ではテストが無料で(期間限定のようです)受けられます。ほとんど形式はリンガスキルと同じですのでこちらもよい練習になりました。

次があるかどうかわかりませんが、みなさんの参考になりますように。


なお、2年前前回の受験の時の記録はこちらから

よしもとばなな『なんくるない』を読みました。

を、読みました。

沖縄をテーマにした4つの短編が入っていますが、表題作の「なんくるない」がボリューム的にもメインの作品集です。その後のハワイ物、下北物、船橋物などに続く土地に根差した創作シリーズの嚆矢と言ってよいかもしれません。

しかしながら「なんくるない」に描かれるなかのもっとも「だからこそ吉本ばななは小説家だ!」とあらためてうならせていただいたのは、主人公のマイペースさの「世間ずれ」だけでなく、じっさいに本屋の書店員に悪口を投げつけられるその世の中からの「悪意」までしっかりと描いているところ。物語では序盤なので決してメインのエピソードではないのですが、この「マイペースさの傲慢」にしっかりメスを入れているところは読んでいてハラハラしました。

はっきり言うなら、読者のほとんどはマイペースに生きられず常に因果律の中であくせくしている社会人生活を送っている人ばかりのはず。そういう人にとっては昼食は一人で食べるとか、二次会は行かないとか、ささやかにマイペースを享受できる時間を捻出しているのが実際。でも、本当にマイペースな人はそういうことに気が付かない。自分であえて選び取ったのではなく、生来的にマイペースなのだ。そこに悲劇がある。傲慢に見えてしまう、それが人をイライラさせる──都会生活においては。

その後主人公は沖縄に渡って現地のよくわからん優男(件の本屋とは全く異なる「自由」を謳歌した家族経営の野外レストラン──もちろん見た目ほど楽しいものではないと作者は男のセリフを通してくぎを刺してくるのですが)とよろしくやっていくというこれ自体はあまり面白くもない展開なのですが、やはり序盤の本屋のエピソードは鬼気迫るものがあります。別にそれは文明論批判だとか、ちょっとしたライフハックではなくて、ただただ人間というのは悲しいものだと純粋に思わせてくれる挿話です。

よしもとばなな『ハゴロモ』を読みました。

を、読みました。

この本については当ブログでは2006年7月1日、この文庫本が発売されてすぐに読んで感想を書いています。たぶんそれ以来の再読になります。

でも、感動した場所はやっぱり同じでした。都会生活での出口のない失恋のひりひりとした感触もさることながら、やはり帰り着いた田舎で出会う「みつるくん」の生きざまというのが、ぼくがよくこのブログでも使う吉本ばななの小説に出てくる「倫理観」の最たるものではないかと思います。

決して目的的に人生を消費しないということ。境遇で自分を悲劇の主人公に仕立て上げないこと。ただ、いまある状況は嬉しいに越したことはないかもしれないけれど、「どん底」と人が言おうがそれは自分だけが引き受けなければならないオリジナルのもの。必要なことを必要だと感じるのであれば、当たり前のようにこなしていく。そこにどんな価値観も入り込むことはできない。価値観などというものを先におったてるまでもなく人生は続いていくし、自分の哲学とは相いれない出来事も次々と降りかかってくるものだ。それは選ぶこともできないし、似合う/似合わないで他人に任せることもできない。どんなに会社で偉い人でも、計算が得意な人でも、家に帰ったらしょうもない近所づきあいもあるしとってもささいなことに心を乱されることだってあるだろう。でも、別に仕事が偉くて日常の出来事が偉くないというわけではない。そういう順番はそもそも最初からないのだ。すべての時間は平等だし、すべての出来事は等価なのだ。

そういうことをあらためて認識させてくれる良い小説です。

吉本ばなな『白河夜船』を読みました。

「眠り」というか、「眠気」がモチーフになっている短編が三つ収められています。もちろん眠りは「死」に最も近い状態であることは十分に踏まえられていて、それぞれの登場人物の置かれている状況は全く違うのですが、結局のところ死も含めて別れてしまった人ともう一度交流したいという怨念のようなものが「眠気」として表現されているように読めました。

現実には「ある体験」のようなことは起こりません。でも、だれもが心の中に持っている、あの人にもう一度会いたい、もう会うことはできないけれどもう一度だけひとこと話をしたい、声を聞きたいというどうしようもない望みを、この小説は刺激してきます。

別に生きていることが素晴らしいわけじゃない。死んだ人の声も、もしかしたら単なる自分の願望を反映した自分の声でしかないのかもしれない。それでもなお、願ってしまう人間の弱さというのか、意気地なさというのか、寝ても死なない厚かましさというか、そういうのをしっかりととらえている筆致はさすが。

ほうせんか開花

子供が嫁さんの実家に帰っているあいだもせっせとお水を上げたのできれいな花が咲きました。連日の猛暑で葉っぱの周辺が枯れかかっているのが気になりますが。実をつけないと宿題完了ではないそうです。あとどうしたらいいんだろ?

吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』を読みました。

あとがきで作者は若気の至りであるかのごとく失敗作と評しているけれど、「サンクチュアリ」が良かった。

へんな例えだが、『ノルウェイの森』で直子が死んだあと主人公が傷心旅行した先でこんな出会いがもしあったら救われていただろうか? ということを考えてしまった。設定としては「サンクチュアリ」は、夫と子供を亡くした女性が海辺で毎日泣いているということで、男女は逆なのだけれど。

『ノルウェイの森』では食事や金銭をめぐんでくれる漁師が登場する。もちろんそれは主人公と対峙する登場人物とはならない。単に、そんな風に見られているくらいならそろそろ東京に戻らなくてはと決心するきっかけとして配置される名もなき人物だ。

吉本ばななの小説では、男と女が出てきても必ずしも付き合ったりなんだりというのがゴールに全然なっていない。そんなことよりもっと大事なことが世の中にはある。それが、結果としてたまたま付き合ったりなんだりというところに落ち着くものもあるけれど、もっともっと魂の物語なのだ。

切通理作『怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち』を読みました。

ぼくが子供のころの夏休みと言えば、だいたい午前中にウルトラマンか仮面ライダーの再放送をやっていたものだ。そうでなくとも、いまはもう閉館してしまった渋谷の「こどもの城」にたまに連れて行ってもらうと、ウルトラマンのビデオをひたすら見続けていたものだ。小学生だったし、レンタルビデオという存在も知らなかった頃だ。

ウルトラマンは単なる勧善懲悪ではない。それは小学生ながらに感じるところはあった。だからこそ、(相当にマニアックな回に登場するものも含めて)怪獣たちのソフビ人形が売られ、あるいはデフォルメされ、人気を博した。怪獣たちはそれぞれの物語をしっかり背負っていた。統一的な悪の組織がどこかにあって、そこからひたすらウルトラマンや地球人をやっつけるために怪獣が派遣されてくるのでは決してない。そこが、仮面ライダーや今のプリキュアに至るまでの子供向けの分かりやすい設定と一線を画すところだ。人間の愚かな水爆実験で誕生したとされるゴジラですらある時代(90年代前後にはよくゴジラの映画が作られていた)においては単なる「正義の味方」としてふるまうことさえあった。

ウルトラマンの怪獣たちは全く異なる。それぞれの出自は、悲しい物語が多い。決して彼らは最初から人間を恨んでいるわけではない。破壊活動をしたいわけではない。たまたま、それはぼくだったりあなただったりも同じように怪獣として舞い戻ってくる可能性があるかもしれない。そういう地平にいつもあの30分足らずの挿話は成り立っていた。

いまはyoutubeや画像検索があるので本書に登場する怪獣たちの形態やあるいはまるまる放送時の一話を確認することさえできるかもしれない。懐かしさと、本放送がなされていた時代の時代背景を丹念に追う作者の叙述も素晴らしい一冊です。

しかしゼットンは何回見ても、怖い。BGMが無いのがとにかく怖い。ウルトラマンの目の光が無くなる瞬間、負けるはずのないと思っていたウルトラマンが動きを停止するのが大人になって見てもとにかく怖い。