トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』を読みました。

カポーティの短編集です。どれも題名のファンシーさとは裏腹にけっこうキツイ内容。そもそも表題作も、村上春樹による訳者あとがきにあるようにオードリー・ヘップバーンのイメージが強すぎるのですが、そして映画を見たわけでもないのですがただの恋愛物語では決してない。登場人物は皆、我が強すぎて、そういう自分が周りと軋轢を生んでしまうことにきつさを感じている。でも、そうすることしかできない。その痛み。けれど、物語が回想で書かれていることを見逃してはならない。もうぼくたちはつまらない大人になってしまった。そこから、ぼくたちは若かったころの、妄想することでしか生きられなかったその生きづらさを思い起こしている。もう失ってしまった痛みを、回想することの痛み。この二重性の中にこそカポーティは閉じ込められているんではないか。どの短編も同じ構造だ。

私はなおかつ自分のエゴをしっかり引き連れていたいわけ。いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。

『ティファニーで朝食を』

ところでティファニーで朝食を食べることができるのだろうか? 銀座の資生堂のように? ティファニーはゴライトリーにとって何の象徴だったのか? 実態の分からない大人たちが宝石を買いに行くところ……それは、イノセントな魂にとってはまるで自己否定を鼻先につきつけられるような、あるいはポイント・オブ・ノーリターンのような場所なのかもしれない。

上乃久子『純ジャパニーズの迷わない英語勉強法』増補版を読みました。

ときどき新刊で英語勉強法の新書が出ると見てしまうのですが、結局はみんな言っていることは最終的には同じなんですよね。とにかく王道しかない、ということでしょうか。

アウトプットを意識するのであれば、やはり自分の仕事とか生活を起点に単語帳や短文集を自分で作っていくしかない。どんなに「会議で使う英会話」みたいな本を買ってきても、やはり現場はそれぞれ違うものだし、自分の環境に合った表現は自分で英作文するしかない、と腹をくくるということですね。こればかりは払ったお金に比例しない領域なので、いやだからこそ自分で楽しんでやるしかないのでしょう。自分の必要性や切迫したなにかを起点にしない限りただの趣味・教養になってしまうし、今の自分にプラクティカルにしか役に立たないことこそが一番の近道なんでしょう。

村上春樹訳レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』を読みました。

分厚さなりに大変面白く読みました。訳者あとがきにもあるように、やはり「金持ちの孤独」みたいなものがテーマアップされているのは『グレート・ギャッツビィ』にも通ずるものがあるのは、そしてまたそれがゆえに役者がこの小説を愛しているというのもうなづけます(ただ、個人的には「金持ちの孤独」なんてものには1ミリも共感しないし、金持ちなんだから孤独に決まってんだろ、同情するなら金をくれ、と言いたい)。

とはいえ、寄り道の多さの魅力というのは本当にその通りで、魅力的な登場人物も多く出てきます。メキシコ人と毎回マーロウから勘違いされるキャンディーは、その迫力もさながらですが、どこか憎めない。この当時にあって移民の「召使」というのがどのような家庭内地位を、社会的地位を持っていたのか不勉強でよくわからないのですが、それを差し引いてもなお、いやむしろかえって、ここまで小説の中で動き回る人物として描かれているのは非常に面白い位置を占めていると思います。勧善懲悪ではなく、マフィアや警察もそれぞれの組織の中で事情を抱えながら互いにけん制し合っているのも、おもしろい。そして「私立探偵」だからこそ、その組織の間を自由に出入りできるのは小説の道具立てとしてはやはりほかの選択肢はないのでしょう。『吾輩は猫である』の「吾輩」並みの「人称」なのだと思います。

そしていやはや、読んでいるとカクテルやらタバコを吸いたくなってしまうのがなんとも……。

池内紀訳カフカ小説全集『失踪者』を読みました。

友人マックス・ブロートが編集する以前のカフカ自身の手稿をベースとした全集。かつては「アメリカ」というタイトルで親しまれた作品です。

その名の通り、女中をはらませてしまった17歳の主人公がアメリカに渡って、「仲間」にだまされたり時には大人たちの優しさや厳しさ、身勝手さに翻弄されながらなんとか糊口をしのいでいく一部始終が描かれています。

あんまり通り一遍のことを言ってもしょうが無いのですが、やはり「全体感」が見通せないカフカらしさは健在。特に冒頭の船の内部事情の描写や、エレベーターボーイとして就職したホテルのヒエラルキー、そして最終場面で就職するサーカス団の面接手続きなど、どこまで行ってもよくわからないまま突き進む主人公の視線から決して描写がぶれない。種明かしは決してない。わからないものはわからないまま突き進む。そこが読んでいて非常にスリリング。それぞれがそれぞれに「城」になっています。

リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』人物相関図

読み終えたとたん、人物相関図を描きたくなる欲がむくむくと湧いてきまして、何回か飛ばし読みで再読しながらエクセルで描いてみました。

人間というのはここまでのものを思いつくのだろうか・・・と舌を巻きます。しかもパワーズのデビュー作。

ここには三つの物語が順番に語られていきます。それぞれ、「私」「ペーター」「ピーター・メイズ」という三人の主人公がいるのですがそれぞれの物語がゆるく重なったり離れたりします。上記を見ていただいてもわかるとおり、最後に「そういうつながりだったのか!」という種明かしがあるわけではありません。最後まで、ギリギリ重ならないように巧みに設定が変わっています。年齢が合わなかったり、親族関係がおかしかったり、共通と思っていたアイテムにちょっとした違いがあったりと。そここそが作者の狙いであり、複製芸術の時代を一つのテーマとしたこの壮大な小説の一つのメッセージだったりもします。

物語はそれぞれにエキサイティングです。

「私」の物語は、稗田阿礼のようなシュレック掃除婦との饒舌な語らいがメインに展開されますが、最も衒学的なパートでもありおそらくは作者の文明論がもっとも赤裸々に開陳されています。ベンヤミン論や写真論などがとても面白い。

「ペーター」の物語はこの三兄弟と言っていいのか、写真に写った三人の男がそれぞれ女性と関係し、戦争に巻き込まれていく様を丹念に追っています。結局のところ戦争に殺されたフーベルトとアドルフを後に置いて、兵役を逃れて亡命したペーターの数奇な運命がおもしろい。

「ピーター」の物語は現代(といっても1980年代ですが)。業界紙の記者をするピーターが、歴史パレードをきっかけに、やや強引な展開はありつつも自分の曽祖父=ペーターの物語まで自らの歴史をさかのぼっていく謎解きもまたおもしろい。

そして、それぞれの物語が重なり合いつつ決してぴったりとは一致しない。あ、ここでつながるのか・・・と思いつつも読み進めていくと「やっぱりなんかおかしいな」と気が付く。その繰り返し。しかしページを読む手が止まらくなります。これこそ小説でしか表現できない世界。

もしかしたら上記の相関図も間違いがあるかもしれませんが、気が付いた人がいらっしゃればコメントください。一部、読み落としや実は重要なモチーフの連関を見落としている可能性もあるため。

『青い車―Film book』を読みました。

「青い車」は「ラブドガン」に引き続いて宮崎あおい主演の映画で、当時ファンだったぼくはいずれも劇場に見に行ったおぼえがあります。「青い車」は渋谷のシネアミューズという今はもうないとっても小さい映画館だけで当時公開されていて、公開日に確か渋谷にほど近い母校(というか当時は4年生でしたが)の学園祭があって、そこに顔を出してから映画館に行ったのをよく覚えています。いい時代であった・・・。

ずいぶん後になって原作を読んだのですが、原作は姉が死んだ後の話だけのものすごい短編で、実は映画は姉が亡くなる経緯をかなり綿密に創作して映画の主軸に据えているんですよね。そこが改めてすごいな、と思った。

音楽も曽我部恵一で、映画も阿佐ヶ谷とかたぶんそのあたりの城南予備校で、なんかすごく中央線沿線的な感じが自閉的でもあり、またそれが非常に心地よかった感じがします。

本当にもう何もかも、なつかしい。

Mr.Children詩集「優しい歌」を読みました。

ミスチルの数ある歌詞の中でいまだに意味が解らないものが一つだけある。

「テレビゲームに胸の内を明かせば」(「my life」1993年)

という一節だ。歌を聴いているときは、なんか休日に彼氏のうちに遊びに行って二人でマリオカートでもやりながら「好きだよ」とか言っちゃってんのかな、と思ったりもしたんだけどそれにしてもあまりストレートでない表現なのでいまだに引っかかっている。

シーマン説というのがある。むかし、シーマンという人面魚に話しかけて会話するというゲームがあったのだ。プレイヤーの音声をマイクを通してゲームが読み取るというのが画期的だった。シーマンにこっそり好きな子の話をしたりしているのか。しかしシーマンが登場したのは1999年だ。

では、ときメモ説か。画面の向こう側にいる二次元の美少女に恋をする。あるいは「君」が振り向いてくれない代わりに二次元の彼女を代わりに見立てて自分を慰める。そんな情けない「ぼく」のmy life。しかし残念ながらときメモもPCゲームとして発売されたのは1994年。

あとは、ロールプレイングゲームで仲間の名前を好きな子にしちゃう説。このあたりだろうか。。。考えてみるだけで黒歴史というか、なんか考えるこっちまで恥ずかしくなるシチュエーションだが。

だからいずれにしても一人の場面なのだろう。あの子をデートに誘ったけどつれなくて、仕方なく一人でゲームで時間をつぶしている。ゲームの中身はどうでもいい。ただ一人で自分ひとりの時間を過ごさなければならない。あの子はどうしているだろうか、こうしている今も別のだれかと楽しく過ごしているのだろうか・・・そんなつぶやきが口から漏れる。

そういう場面なのだろうか。

『tokyo.sora film book』を読みました。

この映画も本当に何度見返したかわからないくらいなのですが、20代のころはよくいろいろなものに自己投影をしては現実との摩擦をなんとか見えないものにしようと、そういう努力ばかり払っていました。今でもそうかもしれません。でもあるとき、こんなこと──つまりは、自分以外のなにかになろうとあがきつづけることを一生やり続けて死ぬというのは、いったい何なのだろうと思い始めたのが30代。でもやめられなかった。自分が好きになれなかった「あすなろ白書」の誰かみたいに、ひたすら軽々しく生きようとしてみたこともあった。けれど、空っぽな自分に最後は帰ってきてしまう。たとえば夜寝る前のひととき、あるいはひとりで長距離移動をしながら窓の外を見ているとき。そういうのは、けっこう苦しいものだ。自分を引き受けることができないまま大人になるというのは、それこそ自己矛盾で、大人というのはどんなに見にくくてカッコ悪くても自分を引き受けている。そこから逃げ続けるには人の一生は長すぎるし、あるいは短すぎる。