もうこれで三回目か四回目の再読になりますが、毎回わかったようなわからないようなはぐらかされたような感じで読了します。この小説の難所は二つあって、入れ子構造と自己言及なんですよね。で、入れ子構造の方は、よくよく神経を張り詰めて注意深く読めば、いま自分は主人公が読んでいるものを順番に読んでいるのだということを忘れずになんとか読み進められるのですが、自己言及についてはまるで合わせ鏡のように永遠に自己言及が終わらなくて、いったい自分は結局何を読んだのだろう? と、置いてきぼりにされます。
青空文庫から引用しますが、ここの解釈ですね。
その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。
一番最初の第一行が……ブウウ――ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ――ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。
「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……」
若林博士は今までになく気軽そうに、私の背後からうなずいた。
「ハイ。それは、やはり精神病者の心理状態の不可思議さを表現した珍奇な、面白い製作の一つです。当科の主任の正木先生が亡くなられますと間もなく、やはりこの附属病室に収容されております一人の若い大学生の患者が、一気呵成に書上げて、私の手許に提出したものですが……」
「若い大学生が……」
「そうです」
「……ハア……やはり退院さしてくれといったような意味で、自分の頭の確かな事を証明するために書いたものですか」
「イヤ。そこのところが、まだハッキリ致しませぬので、実は判断に苦しんでいるのですが、要するにこの内容と申しますのは、正木先生と、かく申す私とをモデルにして、書いた一種の超常識的な科学物語とでも申しましょうか」
こういう文章が作中に出てくるこの書物自体が、夢野久作による『ドグラ・マグラ』という小説なので、結局いま読んでいるこの文章も主人公の自己弁護のために仕組まれた長大な創作ということになる。仮にこの若い大学生が主人公と同一人物だったとして、彼は自分がキチガイでないことを証明するために書いたという縁起を、作中に語らせているわけです。では、正木博士や若林博士は現実に存在したのだろうか? 作中の出来事は実際に起きたのだろうか? その、作者=呉一郎=若い大学生、だったとして、その彼の周囲には実際にこの『ドグラ・マグラ』の世界と縁起とが成立する要素があったのだろうか? それは永遠にわからない。それが、巻を措いたときに「いったいこの長編小説を読んでいたこの時間はなんだったのだろう?」と、置いてきぼりにされる。
本書は、学生時代に大学で『ドグラ・マグラ』を解説する講義があって(百川敬仁先生。いま、調べると最近亡くなったようです)、その時に買って必死に読んだのをまだ持っていたものになります。ぼくの持っている下巻のページがデコボコしているのはたしか雪が降っている中、歩きながら読んだためだったような記憶がありますが、そういうのも懐かしいですね。次週の講義のためにサークルに行ってもひとりでこれを読んでいた時に、当時の友人が表紙イラストの「角川文庫」の位置に大笑いして(彼にとってはとんどもなく面白い図像だったようなのですが)、結局彼もまた『ドグラ・マグラ』にはまり込んでいました。会社に入ってからも、ある探偵小説好きの先輩と「スカラカチャカポコ」について語り合う奇遇もあり、ドグマグフリークは社会の随所に潜んでいるので、一読しては頭が狂いそうになるのを味わうと良いでしょう。


