リチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』人物相関図

読み終えたとたん、人物相関図を描きたくなる欲がむくむくと湧いてきまして、何回か飛ばし読みで再読しながらエクセルで描いてみました。

人間というのはここまでのものを思いつくのだろうか・・・と舌を巻きます。しかもパワーズのデビュー作。

ここには三つの物語が順番に語られていきます。それぞれ、「私」「ペーター」「ピーター・メイズ」という三人の主人公がいるのですがそれぞれの物語がゆるく重なったり離れたりします。上記を見ていただいてもわかるとおり、最後に「そういうつながりだったのか!」という種明かしがあるわけではありません。最後まで、ギリギリ重ならないように巧みに設定が変わっています。年齢が合わなかったり、親族関係がおかしかったり、共通と思っていたアイテムにちょっとした違いがあったりと。そここそが作者の狙いであり、複製芸術の時代を一つのテーマとしたこの壮大な小説の一つのメッセージだったりもします。

物語はそれぞれにエキサイティングです。

「私」の物語は、稗田阿礼のようなシュレック掃除婦との饒舌な語らいがメインに展開されますが、最も衒学的なパートでもありおそらくは作者の文明論がもっとも赤裸々に開陳されています。ベンヤミン論や写真論などがとても面白い。

「ペーター」の物語はこの三兄弟と言っていいのか、写真に写った三人の男がそれぞれ女性と関係し、戦争に巻き込まれていく様を丹念に追っています。結局のところ戦争に殺されたフーベルトとアドルフを後に置いて、兵役を逃れて亡命したペーターの数奇な運命がおもしろい。

「ピーター」の物語は現代(といっても1980年代ですが)。業界紙の記者をするピーターが、歴史パレードをきっかけに、やや強引な展開はありつつも自分の曽祖父=ペーターの物語まで自らの歴史をさかのぼっていく謎解きもまたおもしろい。

そして、それぞれの物語が重なり合いつつ決してぴったりとは一致しない。あ、ここでつながるのか・・・と思いつつも読み進めていくと「やっぱりなんかおかしいな」と気が付く。その繰り返し。しかしページを読む手が止まらくなります。これこそ小説でしか表現できない世界。

もしかしたら上記の相関図も間違いがあるかもしれませんが、気が付いた人がいらっしゃればコメントください。一部、読み落としや実は重要なモチーフの連関を見落としている可能性もあるため。

『青い車―Film book』を読みました。

「青い車」は「ラブドガン」に引き続いて宮崎あおい主演の映画で、当時ファンだったぼくはいずれも劇場に見に行ったおぼえがあります。「青い車」は渋谷のシネアミューズという今はもうないとっても小さい映画館だけで当時公開されていて、公開日に確か渋谷にほど近い母校(というか当時は4年生でしたが)の学園祭があって、そこに顔を出してから映画館に行ったのをよく覚えています。いい時代であった・・・。

ずいぶん後になって原作を読んだのですが、原作は姉が死んだ後の話だけのものすごい短編で、実は映画は姉が亡くなる経緯をかなり綿密に創作して映画の主軸に据えているんですよね。そこが改めてすごいな、と思った。

音楽も曽我部恵一で、映画も阿佐ヶ谷とかたぶんそのあたりの城南予備校で、なんかすごく中央線沿線的な感じが自閉的でもあり、またそれが非常に心地よかった感じがします。

本当にもう何もかも、なつかしい。

Mr.Children詩集「優しい歌」を読みました。

ミスチルの数ある歌詞の中でいまだに意味が解らないものが一つだけある。

「テレビゲームに胸の内を明かせば」(「my life」1993年)

という一節だ。歌を聴いているときは、なんか休日に彼氏のうちに遊びに行って二人でマリオカートでもやりながら「好きだよ」とか言っちゃってんのかな、と思ったりもしたんだけどそれにしてもあまりストレートでない表現なのでいまだに引っかかっている。

シーマン説というのがある。むかし、シーマンという人面魚に話しかけて会話するというゲームがあったのだ。プレイヤーの音声をマイクを通してゲームが読み取るというのが画期的だった。シーマンにこっそり好きな子の話をしたりしているのか。しかしシーマンが登場したのは1999年だ。

では、ときメモ説か。画面の向こう側にいる二次元の美少女に恋をする。あるいは「君」が振り向いてくれない代わりに二次元の彼女を代わりに見立てて自分を慰める。そんな情けない「ぼく」のmy life。しかし残念ながらときメモもPCゲームとして発売されたのは1994年。

あとは、ロールプレイングゲームで仲間の名前を好きな子にしちゃう説。このあたりだろうか。。。考えてみるだけで黒歴史というか、なんか考えるこっちまで恥ずかしくなるシチュエーションだが。

だからいずれにしても一人の場面なのだろう。あの子をデートに誘ったけどつれなくて、仕方なく一人でゲームで時間をつぶしている。ゲームの中身はどうでもいい。ただ一人で自分ひとりの時間を過ごさなければならない。あの子はどうしているだろうか、こうしている今も別のだれかと楽しく過ごしているのだろうか・・・そんなつぶやきが口から漏れる。

そういう場面なのだろうか。

『tokyo.sora film book』を読みました。

この映画も本当に何度見返したかわからないくらいなのですが、20代のころはよくいろいろなものに自己投影をしては現実との摩擦をなんとか見えないものにしようと、そういう努力ばかり払っていました。今でもそうかもしれません。でもあるとき、こんなこと──つまりは、自分以外のなにかになろうとあがきつづけることを一生やり続けて死ぬというのは、いったい何なのだろうと思い始めたのが30代。でもやめられなかった。自分が好きになれなかった「あすなろ白書」の誰かみたいに、ひたすら軽々しく生きようとしてみたこともあった。けれど、空っぽな自分に最後は帰ってきてしまう。たとえば夜寝る前のひととき、あるいはひとりで長距離移動をしながら窓の外を見ているとき。そういうのは、けっこう苦しいものだ。自分を引き受けることができないまま大人になるというのは、それこそ自己矛盾で、大人というのはどんなに見にくくてカッコ悪くても自分を引き受けている。そこから逃げ続けるには人の一生は長すぎるし、あるいは短すぎる。

小川洋子『凍りついた香り』を読みました。

単純に、物語として面白く読めました。もちろん「香り」が記憶とつよく結びついていることをしっかりと前提とした物語。でも、ミステリー的な面白さを除いたときに、けっきょくルーキーはなぜ涼子と付き合ったのかがよくわからない(ほとんど結婚のようなもものだったはず)。盲学校を「みそぎ」だと思ったのか。調香師としての仕事を始めてからいこうが自分にとって自分の人生を生きるということに一人静かに決めたということなのか。それでも、嘘の履歴書の中にある隠し切れない過去が、本当は彼はもっとやりたかったことがあったんじゃないか、数学なんて捨てて演劇でもなんでもやって、あるいは数学よりも生物学の方が好きで獣医師かなにかになりたかったんじゃないかと思わせる。でも、すべてが母親のせいだとも言い切れない。もちろん母親の精神病が「罰」とも言い切れない。弟の彰だってずいぶんと世間からすればずれた生き方だろう(子供部屋オジサンでドールハウスを趣味にしている程度には)。そこに、切っても切れないが故の家族の悲しみがしみこんでいる。

「記憶をめぐる旅」と言えば聞こえがいいかもしれないが、その実は地獄めぐりだろう。ルーキーは「博士の愛した~」でルートに昇華したのだろうか? 二回目の人生を。そればかりが気になるくらい、とても悲しい物語だった。

小川洋子再読月間はこれにて終わりです。本棚にあった作品はすべて読み返しました。ぼくが小川洋子の作品にはまったのはもう何がきっかけだったか忘れてしまいましたが、ロシアびいきだったことから「貴婦人A」を最初に読んだのではなかったか。それに加えて、2007年~2010年くらいにかけてぼくは「記憶」ということについていろいろと考えている時期があって、当時、「薬指の標本」あたりから広げていった気がします。なので、2010年以降の作品はほとんど読んでいません。その期間に文庫で出ていたのを集中的に読んだので。その後も「名作」と誉れの高い作品もいくつか出ているので、またいつか機会があれば読んでみたいと思っています。

的川泰宣『月をめざした二人の科学者』を読みました。

中公新書。素晴らしいドラマ。奇しくも民間会社の月面着陸がニュースになっていますが、アポロ計画のその続きはまたいま時を経て主人公が変わって復活しているのかもしれません。

ややともすれば冷戦の文脈の中で政治的な面がフォーカスされがちな宇宙開発競争ですが、本書ではアメリカの、というかもともとはドイツの技術者であるフォン・ブラウンと、ソ連の技術者であるコロリョフの二人の人間性にまでしっかりと踏み込んだ詳細なドキュメンタリー。

ブラウンはナチスに利用されつつも、むしろ利用しつくした後で時代を見据えてアメリカ軍に早々に投降し、その後のアメリカの宇宙開発を先導したその視野の広さに驚かされます。組織の長としても一方的ではない人々を導く判断力にたけていた人物のようです。

コロリョフは、おそらく冷戦当時はソ連当局もひたすらにその存在を覆い隠していた人物なのですが、死後、あるいは冷戦後に情報がずいぶんととれるようになってからの取材に基づいてしっかりとその生涯を丹念に追いなおしています。彼もまた、特に有人宇宙飛行に際する失敗の許されない極限の状況の中でも冷静沈着に物事を判断できるとんでもない人物であったことがうかがえます。

宇宙開発にはロケットの技術開発に始まり、人工衛星の打ち上げ、有人飛行、船外活動、無人の月面着陸、そして最終的にはアポロ計画が競り勝った有人の月面着陸までが道標としていったんこれまでの歴史においては(あるいはこの二人の科学者が実際にしのぎをけずった冷戦の期間においては)刻まれてきました。しかしいずれにしても本を読んでいて感じるのは、どちらの国が先に成し遂げたかなんてことはいまとなってはどうでもよく見えてしまう。そこにどれほどの技術力の差があったかなんてことはどうでもよいように思えてきます。数日の差で競り勝ったとしても彼らのめざす目標は──例えば火星や金星探査に向けてはそれは単なるワンステップでしかない。国を越えて人々が技術の粋を集めて宇宙をめざした──それぞれの組織の中で、その純粋な思いというか、その目線の高さの方がよっぽど重要なのです。

そしてまた、一つ一つの判断は必ずリスクを評価したうえで為されていたはずで、判断結果には政治的な部分も否定できないところもあったでしょうが、そのオプションを並べるところまでは純粋に科学的な評価であったに違いない──そう思うと、軍隊にせよ、政治体制にせよ、あるいは今の企業、特に科学技術をベースにした製造業などはどのような組織の在り方がベストなのか、ということを思わざるを得ません。つまり、技術部門がベストなパフォーマンスを出すために、彼らの「宇宙を目指したい」という思いを共有しながらも政治や文民はなにができるのかということ。

もちろん一方でこうした二元論的な見方はもちろん即座に否定される面もあって、フォン・ブラウンやコロリョフのようなとんでもない人が組織にいてたとえば自分の上司だったらと思うとそれは誰にとっても最高のモチベーションにもなるのだろうと思ったりもします。組織にいるだれもが彼のような人類史的な視点を持って仕事ができるのか常に問われるわけなのですが。

二人の科学者の人生のドラマを追体験しつつも、大きなプロジェクトには始終ついて回る金の問題を無視できないことから、その組織に対する二人の対峙のスタイルもまたいろいろと考えさせられる本でした。

しかしスプートニクは美しい!

小川洋子『ホテル・アイリス』を読みました。

作者はこれを書く必要があったのだろうか? というのが、読んでいるあいだじゅう常に頭の片隅で疑問としてあった。幻冬舎っぽいと言えばぽいのだが、初刊はあくまで学習研究社、1996年刊行。一瞬福武と混同してしまうが、学研とは無関係だ。どういう経緯でこの本が生まれたのか気になるところ(ただ、学研はもともとサブカル的な本はかつてはけっこう出していた印象。文芸のイメージは皆無ですがそのへんもあるのかな)。

いずれにしても「老人と少女の性愛もの」はすでにこの世に(クラシックな名作も含めて)あふれかえっているわけで、小川洋子(ほどの作家が)がそこにもう一冊わざわざ付け加える必要もなかったとは思うのですが、キャリア初期としてはいろいろと試す価値があったのかもしれません。ただ、文体の静謐さはすでに健在。

2022年に映画になっていますね。作者としては故郷の瀬戸内海のイメージなのでしょうが、台湾を舞台に置き換えているようです。奥原監督って「青い車」の人ですよね。

小野雅裕『宇宙に命はあるのか』を読みました。

もうとにかくなんにせよH3ロケットの発射成功は久しぶりに日本に明るいニュースでした。ふだん経済原理・資本主義にからめとられて思考しているサラリーマンにとってはニュース記事の中の「打ち上げ一発にかかる費用は50億円」とかいうさらりとしたコメントにいろいろな意図を読み込んでしまい、またそういう自分にイラついてしまったりもするのですが何にせよ成功はよいことです。

前回の「失敗」の時の記者会見も、結局(昨今、小保方ショックの反動なのか東証もふくめこの手の記者会見では純技術的なことが批評のポイントになりつつありますが)純粋に技術的な探求というよりは「日の丸の技術力の凋落」だとか結局は金がもったいないというつまらない議論に行きがちだったのですが、まあ成功すれば成功したでコストも安くおさえ下町ロケット的な「日本アッパレ」なポエムに走ってしまうのも十分に、これは本当に十分に留意しなければならない危険な言説だと自らを戒めなければならないと思っています。結局のところ宇宙開発ってなんのためにやるのか、国民の大半はよくわかっていないんじゃないか。ぼくだってわかっていないんですが。

そういうなかでH3に先立ってホリエモンの駒場祭講演は非常におもしろかった。正直、宇宙開発というのが金持ちの道楽なのではないかという疑義もなくはなかったのだけれど、明確なビジネスとしての見通しがはっきりと語られていて、おもしろかった(動画で出てくるのは一番最後の方です)。同時に宇宙開発の歴史というのもドラマにあふれているのだなあと再認識させられました。もちろんこの講演が駒場という非常に特殊な場であること、またその特殊性を十分に意識した講演だとは思うのだけれど、普通に教養として知っておくべき内容だと感じました。

ということで今回の本を読んだわけですが、宇宙開発の歴史を手っ取り早く知るにはとてもよいハンディな本でした。その意味でタイトルがイマイチ内容と合致していないのと、ところどころさしはさまれる宇宙ポエムがかなり著者が自分に酔っぱらっちゃってるんじゃという感じがして、途中から恥ずかしくて読み飛ばしてしまいました。が、まあこれも宇宙に携わる上での必定なのかもしれません(著者は私と同い年なんですが。しかも航空宇宙かあ)。中高生にはいい刺激になるのではないでしょうか。

ただ、写真が一か所、決定的に間違えていて、SBクリエイティブは初版という言い訳はせずに猛省してほしいと思った(こんなミスが書籍を作るうえでまかり通るのかとびっくりするほどでした)。

小川洋子『博士の愛した数式』を読みました。

映画にもなった原作。正直に言うと苦手な部類の本である。なんと言うか「本が好き!」とわざわざ言い立てる人が好きそうな話であるなあ、という感じ(書店員が選ぶ文学賞もなんかそういう空気があって好きではない。書店員は金のために売れる本を売ればいいのであって、ベストセラーこそが賞に値する、だからこそその年一番売れた本こそ受賞すべきなのに、いつも直木賞を逃した小説みたいなのが出てくる。読者はもっとちゃんと自分の読むべき本を選ぶ力はあるっての。もちろん作者には何の罪はもない。まあそれはさておき)。

ときどき時系列が「過去語り」になるのもよくわからなかった。あとは母屋にいる老婦人との間の過去がにおわせられながらあまり具体的に描かれていない。博士の記憶喪失はいいんだけど、それが昔と比べてどうだったのか、その対比があまりなくて淡々と三人の生活が続くだけでドラマ性を求めてしまうとすこし物足りなさが残る。あくまでハンデを負った博士との日常のやり取りがストーリーのメインにしたかったということなのだろうか。そもそも数学を専攻する「博士」レベルの人が「完全数は美しい」とかいまさら言うんだろうか? その辺が少し漫画チックでもあり古典的でもあり、「数学的なもの」へのあくまで文系人間が思い描くイメージがやや出過ぎているような気もして読んでいると少し恥ずかしくなる。

しかしその後、「数学ガール」や東野圭吾の「ガリレオ」シリーズ(あれは物理学だけど……)の隆盛を見るにつけ、本書が小説の世界に新しい「ことば」を吹き込んだ功績はあまりにも大きいと言ってよいでしょう。

小川洋子『まぶた』を読みました。

とにかく一話一話すべてが怖い短編集。言葉に言い表せないような恐怖感や「あれってなんだったんだろう?」と思わせるような出来事が、それこそしっかりと言葉で表現されているのが小川洋子の短編の持ち味でしょう。

「まぶた」も途中までは女子中学生と(本当に冴えない)中年男性の心の交流を描いているようでいて、けっきょく外野からすればそれは単なるパパ活に見えてしまうその悲しさというか。「それはパパ活だ!」と言った者が、「王様は裸だ!」という真実を言い放ったのならともかくも、この場合はどちらが真実なのかわからない。その危うさ、健全な世界と不健全な世界とのあまりにも薄い境界が怖い。それは教会ですらなく、単に一つの出来事を別の角度から見ているだけだったりもする。 

「中国野菜の育て方」もとにかく怖い。登場人物が善人なのか悪人なのかもわからない、そしてここで語られる挿話が良い話なのか悪い話なのかもわからない。そのわからなさが、とにかく怖い。善人の何気なく発した一言が、ものすごく残酷なことを言っていることに、主人公は気が付かず、読者だけが気がついているような、そんな感じ。

「バックストローク」も怖い。冒頭で、強制収容所の看守の家族が楽しんだという空っぽのプールが提示される。それだけで怖い。しかし、そのあと語られる主人公の弟の身の上も意味づけの困難さにくらくらする。結局のところ、人間の残酷さと善良さは紙一重ということなのか、弟の栄光の陰にももしかしたら努力ではどうしようもなく散っていった選手がいるのだろうし、栄光と思っていた弟の業績もほんの少しの食い違いで、水泳以外なにもできないごくつぶしに成り下がってしまう、その簡単さが、またこれもものすごく怖い。