『五等分の花嫁』についてずっと考えていた。そもそもが水瀬いのりが好きで見始めたものだったのだけれど、五人の声優さんのキャラがいちいち合うようにキャスティングされているのかどうかわかりませんが、イベントの動画を見ていても声とキャラクターにこれほど違和感のない作品も稀有だなあと……まあ、それはそれとして。
結局、この作品の大きなテーマの一つは「選ぶことの残酷さ」なのでしょう。そもそも同級生の五つ子の家庭教師になって五つ子がみんなそいつを好きになってしまう……なんて設定自体のある種のいかがわしさは見る方からすればもう織り込み済みのフォーマットなんですよね。それは古典的な恋愛ゲームをなぞりつつも、見る方からすれば五つ子の中の誰かが最後は選ばれることはわかっている、しかし五つ子であるが故に顔だけ見ても誰なのかがわからない、という初期設定の在り方は、たとえばテレビアニメには恋愛ゲームを移植した傑作も数々あるわけですが、「複数のゲームシナリオ」を同時に成り立たせるための設定としては結果として非常に優れていると思えます。つまり、ゲームでは互いに排他的になるストーリーが、『五等分の花嫁』の場合は最後まで一つのシナリオをあらゆる角度から見た「見方の違い」で処理できてしまう、そこがとんでもなくすごい。「五つ子」という設定をこれでもかというくらいにうまく使っていると思います。
もちろん風太郎との出会いは小学校の修学旅行にまでさかのぼるわけですが、五つ子の物語も実は同じ起源を持っているということは少しずつ明かされていきます。これはむしろ五つ子の、なかんずく四葉の物語に最後は収れんされていくわけですね。五つ子からはみ出したいと思ってリボンをつけ始め、自分だけ落第してから姉妹も転校についてきてくれたところからの四葉の葛藤はそれそのものが彼女の人生、成長に重ね合わさってくるわけです。でもそれは高校生の風太郎は全く知らない。もしかしたら五つ子を見分けることのできなかった小学生の風太郎がようやく五つ子を見分けることができるようになった時に、彼女を最終的に選んだのもそのあたりに理由があるんでしょうね。そしてそれもまたお互いの「選択」を積み重ねた結果でもあるわけです。
四葉を選べば他の四人とのエンディングは無くなるわけですが、しかしこの映画の中ではある意味でそれぞれがきちんと落とし前をつけてくれています。夢落ちで見なく、単なる妄想落ちでもなく(東京大学物語のような……)、きちんと物語が無理なくリニアに進んでいるということに安心しますし、「謎解き」もこの物語を楽しむための大きな要素でもあります(最後に詰め込み過ぎている気もしますが…三期くらい使ってじっくりやってほしかったなあ)。ただいずれにしても設定のある種の「ありえなさ」よりも、五つ子それぞれを「推し」ながら王道ラブコメが展開する感情のジェットコースターに身を任せていると、ほんとうに忘れていたいろいろなことを思い出させてくれる、とても良い作品です。