本を読むスピードは心のバロメータだ。焦っているときはただ、文字を追うだけで頭にはなにも残らない。それはいったいなんのための時間なのか。一冊読み終わりました、と言いたいがためだけの自己目的的な円環なのか。読書は、読むことの中にしかない。読むとは、なんなのか。
宙ぶらりんな状況で、結論の出ない世界で、ストレスがたまると今日の夕ご飯をいくらでも食べてしまう。どか食い、というやつだ。これを防ごうと思うとアルコールに走ってしまう。アルコールに走らないために炭酸水を飲んでいる時もあったが、正解が見つからない。
金曜日はビールを飲む。辛いものは苦手だが、食べたくなる時もある。おなかが弱いぼくは、翌日になにも予定がないときだけの楽しみだ。でも明日は髪を切りに行くから、ビールを1本だけ飲むことにする。好きな作家の新しい本が出る。それだけを頼りに、明日に向かって生きていく。
吉野家はもはや殺伐としていない。タッチパネルで好きなときに好きなだけ注文ができる。外国人アルバイトには、リーダー格のアルバイトが優しさと厳しさをいいバランスにして業務を教えている。まるで劇場に来たみたいだ。レジに並ぶと、いまは子ども割引まである。吉野家はもはや殺伐としていない。
すべてをオプションにして選ぶ人基準にお金を支払うシステムは、究極の自己責任だしトランザクションがその場で完結する「金の切れ目は…」的な世界観だ。そこには「情けは人のためならず」のような巡り巡る交通の余裕、余白、余韻は一切ない。それをぼくたちは望んできたのだ。
保坂和志『鉄の胡蝶は』を買った。ソフトカバーで2400円だが装丁はかなりしゃれている。奥付を見ると連載の最初の1年分だけを収録している。もっと3段組でギチギチの浩瀚な書物を期待していたが拍子抜けした。断続的でもいいので続巻がこれから出ていくことを期待したい。今日からじっくり読み進める。
百人一首の歌人で、男だと思っていたら実は女だったという勘違いはかなりある。昔は夫や父の官職をそのまま呼び名にあてはめていたり、女房の位の名前も知識がないとなかなかわからない。さて、問題。赤染衛門は男でしょうか、女でしょうか?
無炭酸のサイダー味というものが時々あるが、飲料だけでなく菓子類にも多い。ぼくらは、サイダーというものの本質を見失っている。一体何をあじわえば、ぼくらはそれをサイダーだと思うのだろう。もはや語源にあるリンゴも真っ青だ。けれど、ぼくらは常に既に、そうやって概念を消費する時代にある。
いつも通りを心掛けたいと思いながら、あわただしく過ごす。自分で勝手に決めた締切に追われているのは、追われることでなにかを忘れようとしている時だ。現実に向き合うほど僕たちは世慣れていない。酒も、甘いものも、仕事も、本も、なにかから逃げるためのものだ。
粉コーヒーがあまりに高いので、飲むのをやめた。水筒にドリップして会社に持っていっていたが、2円/㌘を超えると日常性が無くなる。最初の3日くらいは頭痛がしたが、いまはもう烏龍茶とルイボスティーのコンボで1日を終えられる体になった。ついでに整腸剤もやめた。なにも不便はない。健康とは?
急に暑い。花粉もそろそろ鳴りを潜めてきているのだろうか。散歩しているとみんな春の装いだ。アイスコーヒーを飲みながら木陰にいる外国人トラベラー、ヘッドギアをつけた息子をなんとかまっすぐ歩かせようとする家族、びっくりするような高級マンションから出て来る年若いカップル。それぞれの人生。
自閉した世界に大の大人が没入するのをよしとする表象は苦手だ。『孤独のグルメ』は一見そう見えて違う。あれは開かれている。あるいは、開閉のバランスがきちんとある。問題は、安月給サラリーマンの千べろテクニック「だけ」に淫する一部の風潮。最近は広告にも侵出。だまってやっとけ!
アンジャッシュのコントみたい、という形容は、あのコントをテレビで見たことのない世代も使うのだろうか? あと十年もしたら訓詁学の領域だ。たぶん漢文由来の四字熟語(臥薪嘗胆とか)と同じだ。アンジャッシュが忘れ去られてもなお「アンジャッシュのコントみたい」と言われたとき、完成する。
口内炎が痛い。しかし口内炎を治そうと栄養のあるものを食べたいが、痛くて食べることが苦痛すぎる。どうしたら早く治るのだろう。 あと何故か左目だけ瞬きするたびに異物感がある。もう花粉も収まっているだろうに、なんなのだろう。単なる寝不足か。黄砂に吹かれてなのか。 春はいろいろ油断ならん。
雨が振って急に寒い。今日は朝からバタバタして、家を出てから腕時計をしていないことに気がついた。使っているのはごく普通のアナログ腕時計だ。なくても大きな不便はない。しかし不便な瞬間もあって。一日過ごしてみて気がついたのは、ぼくは腕時計を、日付を確認するためにしか見ていなかった!













