ボールペン4本目

インクはまだあるのですが、いかんせん何年も前のボールペンのためかすれて使い物にならなくなりました。油性インクは時間が経つと変質して硬くなっちゃうんですかね。

『ロイヤル英文法』を読みました。

読んだのです、頭からお尻まで。

いま、Xを見ている限りにおいて英文法教授の方法論は本当に議論がかまびすしいのです。しかも健全な議論とはとても言えない状態。現役予備校講師諸君は、しがらみから自由なように見えて結局「御恵投」された新刊については互いに褒めちぎるのみでまともな意見はどこにも出てこない。新しい本にも見るべきものはあるのでしょうが、伝統的な保守派は新しいというだけで毛嫌いしてまともに読んだのか怪しい意見も跋扈。でも自称若手講師陣もお互い様なのではないか。

だから、いま目の前にある本を、まずは謙虚に謙虚に読むしか無いのだ。読んでないやつの勝手な憶測がネットには多すぎる。なぜ、虚心坦懐に読まないのだろう。読めないのだろうか? つまり読む能力が無いことを隠しているのだろうか。あるいほ読む時間が無いのだろうか。それなら何も言わずに通り過ぎれば良いものを。

それとも権威に対してたてつくポーズだけで例えば受験生の人気を獲得すると小銭が懐に入ってくるのだろうか? とにかく害悪でしかない。

参考書に限らず、あらゆる本は、役に立つかどうかすぐに分からないことも多い。あまり高度で、受験には役に立たなかったけれど、その後に読み直して例えば洋書を読むきっかけになったり、仕事でやむなく英語を使うことになったときにその真価が初めてわかることも有るのだ。

本はそこにいつでも静かにいる。変わっていくのは読者の方だ。読者は自分の成長に合わせて本から内容を汲み取っていく。だこら、本をくだらないと言っているやつは己のくだらなさを言っているにすぎないことを早く気がつくべきなのだ。

宍戸里佳『基礎からレッスンはじめてのドイツ語』を読みました。

今書いている小説にドイツ語専攻の人物が様々登場するためさすがにちょっとかじっておこうと購入。この独特の「枠構造」というのがよくわからないのですが、意外と英語と違って動詞が文尾に来るんですよね…日本語のように。本書に姉妹編として文法編もあったのに後で気がついたので、そっちを買えばよかった……本書はどちらかといえば旅行先で困らない文例集的な感じの本です。

室生犀星『性に目覚める頃』を読みました。

昔から思うがタイトルが悪い、人前で読みにくい。結局のところ、犀星による「オレンジデイズ」であり「若葉のころ」であり「檸檬のころ」であると言ってくれればよいのに。

しかし中身はそんなに爽やかなものではない。懸想した女がさい銭をくすねるのを、自分でまた父親から盗んだ金で工面したり、その女の雪駄を盗んでみたり、盗みが連鎖する話が続く。

詩作仲間のモテ男も最後は死ぬ。けれど、肉体関係を持っていた茶屋の女にも病気がうつっているらしいようなことがわかると途端に嫌悪感を主人公は催す。

最後は遊廓。要は寺のぼんぼん息子が遊びをおぼえるまでの話。犀川の自然を背景とした地方都市での男の子の成長物語といえばそうなのだけど、多分に自伝的な要素も多いのだろうと想像されることも含めて、もはやあまりいま読まれることはないのだろうと思った。

今、ウィキペディアを確認したらタイトルは編集の滝田樗陰が勝手に書き換えたものだそうだ。やはりそうだったか…。

室生犀星『或る少女の死まで』を読みました。

もう、タイトルが『或る少女の死まで』で、小説が始まって早々に「少女」が登場するもんだから読む方はもう「ああ、この子か死ぬまでのお話なんだな」と、がっかりしてしまう。少女が死ぬ話は読んでいてあまり気持ちが良いものではないのだ。だいたいが悲惨で、救いようがない死だからだ、物語の中の少女の死というものは。

しかし、読み進めると別の少女が登場する。こちらも丁寧に主人公とのやりとりが、描写される。特に先に登場した少女が、決して出自の確かではなく、飲み屋の手伝いをする貧しさを背負っているのに対して、こちらは単身赴任の父親を待ちながら弟の世話もするかいがいしさがある。主人公はこちらには丁寧な言葉遣いで対応するが、だからといって前者を軽く扱っているわけでもない。子供でも相手によってちゃんと言葉の使い分けをする、そういう意味での公平感を技術としてちゃんと持っている主人公であることがわかる。

終盤で、もう一度飲み屋の少女が出てくる。出てくるというか、病床に伏せたという伝聞の形で。それもまた死を匂わせる。そして下宿先の少女も最後には死が伝聞される。人の死はいつでも伝聞だ。この小説は、最後に掲げられる詩の、長々しい前置きであり、あるいは犀星一流の長々しい散文詩とも読める。

「linguaskill business speaking」私の勉強法 その3

ようやく四回目の受験が終わりました。今回はだいぶテスト形式にも慣れてきたので、効率の良い対策を指向しました。つまり、AIをフル活用したわけです。

各社のどのサービスを使うかは好みなので別になにがどうというものでもないですが、とにかく『型』のネタをいろいろと準備しておくということに注力しました。

具体的には以下のようなプロンプト(というほどでもないですが)をGeminiに読ませて、回答をgoogle documentにひたすらエクスポート、模試をやるたびにひっかかったパターンを追加、電車の中などのスキマ時間にスマホで何回も読み直す……これを繰り返しました。

下記は切れちゃっていますが、基本構文は『〇〇なときに便利な英語表現』です。〇〇をいろいろなシチュエーションに置き換えるだけです。

以下は回答例。

自分で検索するよりよっぽど早い! これを使わない手はないですよ、ホント……。

もう一つ、今回もオンラインの模試を活用しました。speak&improveとPROGOSです。

前者はケンブリッジでも推奨のため問題形式は本番と同じですが、ビジネスに特化していないです。後者は、違うテストなんですがほぼ形式は同じで、かつ割とビジネス寄りの設問なので、この2つで練習しておくとレベル感はだいたい良さそうです。

プロゴスはスマホアプリのみ↓

AIも進化しているのか分かりませんが、パート2の音読は、以前はわざと噛んで含めるように喋らないと機械が認識してくれないような感じがしましたが、今回の練習では外人のマネしても割とちゃんと採点してくれている感じがします。真偽はわかりませんがあまりAI用にとりつくろう必要もなさそうです。

それからこれも、パート5のインタビューで、やりとり感をどう出すか。例えば反対意見を言うのにも「No way! I don’t agree with you!」とかつけるとなんとなくスコアが良いような…。

それで今回は以下のような『型』も準備しておきました。

これがどこまでスコアに結びついたかわかりませんが…引き続き、傾向と対策を研究していきたいと思っています。

↓過去の記録

対策その1の記事

対策その2の記事

宮地尚子『傷を愛せるか』を読みました。

ちくま文庫らしい五臓六腑に染み渡る文庫本。シリーズケアをひらくにも採られていてもおかしくないくらいの内容(たしかに初出が医学書院の新聞なのも偶然ではないのでしょう)。また、鷲田哲学も思わせる、弱さを肯定するというテーマ。

でも決して上からではない。医者の肩書を持つ著者だが、そこに対する居心地の悪さもしっこり自覚しながら言ってみれば等身大の「とほほ」な記録だ。しかしそれが心地よい。

人身事故のエピソードが心に響いた。たしかに誰かに怒りを感じるときは、その人が普段我慢していることを他の誰かが我慢せずにやっているのを目の当たりにした時だ。それは嫉妬とは違う。自分が気を遣って我慢していることを無にされているから怒りになってしまうのだ。まったくその通りたと思った。

夏目漱石『彼岸過迄』を読みました。

これは漱石としては失敗作だったのではないかとよく言われる作品です。たしかに題名もよくわからないし(前書きで大した意味はないと言ってはいますが)、前半と後半の構成や人称、語り手の様変わりはどこまで意図されたものなのか、正直読んでいて戸惑ってしまう。それをば、実験的と称するのかなんなのかよくわからないのですが…しかし、それでも他の漱石のオーセンティックな作品にはない魅力があるのは間違いないのです。

どこかこう、漱石はこれをとうしても描きたかったんだなというのが伝わってくる、その感じ。前にも書きましたが、特に宵子の死は書かなければならなかったのだろうと思います。何回読んでも葬式の経緯は胸がふさがる。ただ、もう単純に厳しい運命を受け入れなければならない弱さ、あるいは強さを感じる。

後の作品のモチーフになる三角関係の描写もまだまだ奥ゆかしいけれど、それもまた良い。千代子の造形は、時に鬼気迫ると言って良い場面もいくつかある。髪結いのくだりは一度読むともう忘れられない。須永の煮え切れなさは確かに卑怯だ。そして須永の出生の秘密はついに明かされる…。

後半の須永の独白の部分に友人に借りた「ゲダンケ」という小説が登場しますが、これは実在するアンドレーエフという作家の、上田敏の訳によれば「心」という小説で、これも三角関係に狂わされた内容。漱石の「こころ」はその5年後に書かれる。当時は結構読まれたロシアの作家のようですが、このあたりも先行研究があれば確認しておきたい。