『フランケンシュタイン』(青空文庫)を読みました。

この作品が単なるホラー映画の原作ではなく、文芸として生き延びていることは読まないとなかなかわからないものですね。叙述の展開がとにかく凝っていて面白かったです。

「フランケンシュタイン」というのは人造人間の方ではなくて、この怪物を生み出した若い研究者の名前です。なんか勝手に羊たちの沈黙みたいなイメージがありますが、大学に入りたての若き研究者(しかも錬金術に凝っていた過去を指導教官から揶揄されるという)が、不意に見出した生命の神秘に基づいて怪物を作り出す……というのが経緯です。

しかし面白いのはこの筋立てではなく、それが語られる叙述です。全編は語り手の冒険家が故郷イギリスにいる姉に向けて書いた手紙を読者が読む、という体になっています。

この若き冒険家は北極を目指して航行中なのですが、そこで怪物が雪そりに乗って遠くへ逃げていく様を目撃します。そしてそのすぐ後に怪物を追っていたフランケンがいかだに乗って現れ、さすがに冷たい海で死にそうになっていたところを冒険家が助け出します。そして看病をして少し元気になったフランケンが語る怪物の物語を冒険家が聞き書きし、それが姉に向けた手紙になっている、ということです。

このフランケンが語る物語の中には、フランケンが怪物と対話する場面もあります。怪物がラボから逃げ出していろいろな地方を経めぐった遍歴を怪物が語る物語を包含しているのです。怪物が語った内容をフランケンが聞き、フランケンがそれも含めて語った内容を冒険家が聞き、それを冒険家の姉に向けて書いた手紙を読者は読んでいる、というかなりおもしろい入れ子構造になっています。

さらに面白いのは、怪物はある農家の納屋を勝手に住まいとしてかなり長い時間を過ごすのですが、その窓から覗き見る農家の家族の語らいの中から「言葉」を覚えていくのです。中には主人の持っている本を読んで単語を覚えたりもします。怪物は最初、言葉を知らない存在だったところから言葉を習得し、そして習得していなかった時代のことも含めてフランケンに向かって語る(そのころは俺も何というものなのかわからなかったが今ではそれが〇〇だとわかるが……というような感じ)、というかなり凝った手順を踏んでいるのです。読めばわかりますが、怪物は相当口達者でよくしゃべります。

したがって、読者としては本当に怪物なんていたのだろうか? フランケンの妄想なのではないか? という疑問を最後の最後の最後のぎりぎりまで持たされます。そこが本当に魅力的な作品です。

ラストシーンはさすがに少しほろりとします。

おれはもう、太陽とか星を見たりしないし、頬をなぶる風も感じなくなるだろう。光も、感情も、意識もなくなってしまうだろう。そして、そういう状態のなかに幸福を求めなくてはならないのだ。

「フランケンシュタイン」

翻訳の問題はよくわかりませんが、青空文庫に入っているものでも全く問題なく読めます(底本がそうなのかもしれないけどけっこう濁点が抜けていたり漢字も間違っていますが)。おすすめ。

新作執筆進行中

三月末から書き始め、あともう1エピソードでラストシーンに突入できそう。原稿用紙で100枚ちょっとまで行くかな。これくらいのサイズが書くにも読むにもちょうどよいと感じ始めています。

すべての中間管理職は「店長」だと思う

いやなんというか、いきなり脇道から本道に入るようなのですが「恋雨」を見てからじわじわと、ファミレスの店長的なポジションって中間管理職の象徴だなと、なんだか大泉洋を思い出すたびにそう思えてならなくて。そう思い立ったが吉日でとりあえず三冊読んでみました。

メッセージはどの本を読んでも同じだった。だからこそかえって安心した。ユー〇ューブによく出てくるはげたおじさんの話も全部がそうだとは思わないけれど、「店長」的なポジションって、フロントの現場を持ちつつ本部のお偉いさんに対しても言うべきことは言っていかないといけない、学生のバイトからもむちゃくちゃ言われるかもしれない──そしてその店舗においては良くも悪くも一国一城の主なわけなので、その面白さもしんどさもひっくるめてのものなんだろうなあ。

決してカッコよくないけれど、カッコつけたってできるわけでもないし。まあたとえばホワイトカラーの意識高いビジネスバリバリ!みたいな、「マネージャー」「チーフ」みたいな横書きの肩書からにじみ出るようなコノテーションとはいったん距離を置く、いや置ける人間臭さというか。そういう愛すべきところがあるべきなんじゃないのか。

そして店舗やオペレーションという物理的なものがあるともちろんわかりやすいのだけれど、あらゆる組織において「長」を名乗る人は「店長」的なポジションであることを忘れてはいけないのでしょう。そしてもっと敷衍してしまえば、それは社長と新入社員以外のすべてのサラリーマンについても同じことが言えるのかもしれません。

勝手な妄想でした。

ユニット折り紙 その19

最後は「鶴の飾り玉」です。これで使い道がなくてひたすら在庫されていた小さい折り紙すべて使い切りました。大団円を飾るにふさわしい鶴のユニット折り紙です。本にはまだずいぶんと作れていない作品が残っていますが、それはまたいつか機会が(また親戚連からちっちゃ折り紙が送り付けられてこない限りは……)来たら、いや来ないことを祈りつつ。

なお、まったくもって紹介していませんでしたが参照していたのは以下の本です。大変お世話になりました。

ロジカルになりたい

そう思っていたことが私にもありました。いや、今でもそうですけど。野矢本の旧版の脚注にけっこう大学受験参考書の言及があり、その中に師匠の本もあったということで旧版は結構読み込んでいました。結局、よほどの悪問でないかぎり、大学受験の現代文というのはロジックを問うているだけなので、日常生活や会社生活で必要な論理的思考の大部分はそれでカバーできているわけだし、すべきなのです。ましてや小説を読んで心が豊かになるなんてことは万が一あったとしても学校で教えられるものではないのです。

──というのは、よく大学の教職の授業で教育学部国語専攻の人間と、文学部国語専攻の人で対立する場面らしいのですが、ぼく自身はどっちかというと学校教育の国語なんてロジカルに本が読めればそれでよい(なので今のTOEICみたいな共通テストの国語の方向性は基本的に良いことだと思っている)と思っていました。

文学教育という言葉そのものが自己矛盾しているし、国語便覧一冊渡して、興味ある生徒は勝手に小説くらい読むのでは? というのはあまりにも乱暴なんでしょうが、現代社会における優先順位はまずなによりもリテラシーなんだと十年来思い続けています。