投稿者「l32314」のアーカイブ

水瀬いのり

水瀬いのりに今更ながらハマっています。もっぱら歌ですが。アルバムも全部借りてきました。声の魅力、というのがやっぱり声優さんならではでとても良い。変に技巧的なところが無くて、歌詞も分かりやすく聞き取りやすい。声優の歌って、こういうのでいいんだよ、こういうので、とオッサン世代のぼくなどはひとり悦に入ってしまいます。

でも昨日、CD屋に100年ぶりに行ったら「声優-み」の棚は水樹奈々が占領していました。おそるべし──。

勝手にいろいろ貼っておきます。

ペーパーバック版『腐臭の発火点』

自分で頼んだやつが来ました。ふつうにある本を注文するのとほぼ変わらないくらいの速さで来ましたね。いやはや本当に良い時代になりました。

いわゆる「四六判」の大きさで刷りましたので文庫本よりもやや大きい感じです。300ページを超えますのでそれなりに厚みもあります。

中身も(いやもちろん書いてある中身は別にして)、なんか普通にちゃんとした本になっています。すごいなあ。アマゾン、このサービスはすごいとしか言いようがない。

ガードハロー終売らしい

花王の歯磨き粉「ガードハロー」生産終了に 半世紀以上にわたる歴史に幕

ガードハローが終売らしい。

歯磨き粉にこだわりの無いぼくは、いやこだわりが無いからこそ余計な付加価値を追求せず、ひたすら実直にただ発泡し、ただ汚れを落としてくれるだけのシンプルなガードハローを愛用し続けてきました。

とにかく安くてどこでも売っていて昔からある安心感、というのが最大の特色でした。たしか、刑務所でも渡される歯磨き粉はガードハローだとネットの記事で読んだことがあります。

この物価高、原料高、拍車のかかる円安によりまたひとつの庶民の味方が歴史から消えていくのは本当に寂しい限りです。いったいぼくは明日以降、どの歯磨き粉を使っていけばよいのでしょうか。

薬局でよく安売りしているのは次点でアクアフレッシュ。でも増量キャンペーンの時しか手が出ません。

ライオンのホワイト&ホワイトというのもあります。

売っていれば買うのですが、今時自立しない細長いチューブなのでほとんど売り場に並ばないんですよね。あと100円ショップで塩っぽいのがたまに売っていますが味があまり好きではない。

ということでにわかに歯磨き粉難民になってしまったわけで、何かいい商品を知っている方は教えてください。いずれにしましても、ガードハローには年単位でお世話になりました。いままでどうもありがとう、メーカーの方。

折口信夫『橘曙覧評伝』を読みました。

を、読みました。

橘曙覧(たちばなのあけみ)は江戸末期の国学者です。没後、明治に入ってから正岡子規が絶賛に近い形で紹介して有名となり、近年はクリントン大統領がスピーチの中で「独楽吟」の「たのしみは~」シリーズに言及して再び注目されるようになったということです。

この独楽吟というのは確かに小林一茶風の、今に通ずる「庶民」的な一面を見せるものがあって、ぼく自身も興味を持ったのはここから。評伝にも巻末に掲載された歌集抜粋に採られています(本文では一切触れられていませんが)。

たのしみはあき米櫃こめびつに米いでき今一月はよしといふ時
たのしみはまれに魚児等こら皆がうましうましといひて食ふ時

橘暁覧『志濃夫廼舎歌集』

まあ、こんな感じの歌がいくつか並んでいます。貧乏ながらもつつましく暮らす家族のすがたが浮かぶようで、現代にも通ずるものがたしかにあります。子規も貧乏に対して文句も言わずに「楽しみ」を見出そうとする作者の姿勢に共感していたりするのです。

さてひるがえって、個人的興味から橘曙覧について知りたいと思って検索してみると比較的今でもすぐに読めるのが標記、折口信夫の評伝でした。ただ書誌を確認すると戦時中に今の文科省が編纂したシリーズ「日本精神叢書」の一冊として書かれています。国会図書館のデジタルアーカイブに原本がありましたが、扉には以下のような文言。

ということでページをめくっていくと、確かに江戸末期の尊王攘夷の機運に共鳴しての歌もかなりの数うたわれていることがわかります。独楽吟から想像していた作者像とはずいぶんと異なる、いま読むと結構物騒な歌もかなりあります。

天皇は 神にしますぞ。天皇の勅としいはゞ、畏みまつれ
太刀佩くは 何の為ぞも。天皇スメラギミコトのさきをカシコマむため
天下清くはらひて、上古の御まつりごとに復る よろこべ
物部モノヽフのおもておこしと 勇みたち、錦の旗をいたゞきて 行け

子規も、庶民的な面を評価しながらも国難の時にはますらおぶりを発揮するそのギャップにもどちらかといえば評価の軸を持っているようにも思えました。

「日本精神叢書」自体はおそらく隠れ蓑で、この評伝も冒頭に天皇や日本刀に関連する万葉風の歌をかなりの数紹介して(決して手放しでほめるわけでもない)評価を加えた後は評伝に移っていきますが、折口の書きぶりもどちらかといえば資料に乏しい橘の身辺を想像で補いながら書き進めているところもあって、鷗外の歴史ものを読んでいるような感じもありました。叢書の他の冊子を読んだわけではありませんが、実態は戦意高揚というよりは、時局下にあっても許された範囲での学問的探究がラインナップされていたのではないでしょうか。

いずれにしても「現代でも通じる」という評価軸は結構危ういものがあって、それだけで安心してしまう向きには気を付ける必要はあるでしょう。共感できるものだけをよしとすることは批評でもなんでもないですし、一茶も家族関係にはずいぶん苦労した、そういう多面的な人間に対する興味を失ってはいけないのだろうと思い直します。もちろん、それはそれでまた作品のみと対峙する文芸批評とは程遠かったりするのが面白いところだったりするわけですが。

お盆休みを総括する

一週間ゆっくり休むことができました。ほとんど本ばかり読んで暮らしていましたので、ブログも読書記録がはかどりました。

唯一出かけたイベントといえば、「タイムダイバー」という恐竜が動き回る舞台を子供と見に行きました。

こんなのです。

ぼくが子供のころだと、よくデパートの催し物だったりで首だけ動く恐竜の展示に連れて行ってもらったものです。子供心にそれすら泣くほど怖かった思い出がありますが。

一方でこの舞台はティラノサウルスが二足歩行で舞台をかけまわったり、上の写真のように前の方のVIP席まで舞台から降りてくるという、とんでもなく技術的に進歩したショーなわけです。

こんなもの高い金払って泣かれて途中で出てくるのももったいないので、子供にはあらかじめ映画の「ジュラシックパーク」を見せて(それでも人が食われるシーンで「もう見たくない」と言われてストップしたのですが。ちなみにこの、小さい子供に「ジュラシックパーク」を見せるか否かというのはYahoo!知恵袋でも結構ホットなトピックのようです)予習をしっかりしていきました。結果的には真ん中の席でしたので、写真くらいの距離感で特段問題はありませんでした。やれやれ。

ショー自体はなかなか面白かったです。勧善懲悪では全くなく、今の時代に合わせて「食べる/食べられるというのは生きていくうえで仕方のないことなんだ」ということを繰り返しの述べていました。お決まりのトリケラトプスとティラノサウルスが戦うシーンもあれば、ティラノサウルスの子供が、死んでいく親を看取るかなり長尺のシーンがあったり、見せ場も随所にありました。ただ、やや擬人化しすぎているきらいがあったので「ただの爬虫類がそんな仕草するかよ!」と大人から見るとつっこみたくなる部分もありましたが……子供が楽しめればそれでよいのです。

帰りはゆりかもめ。

そして夜は花火を公園でやりまして、ぼくの盆休みは終わりました。

半年に一回は一週間くらい休みが無いとサラリーマンはつらいですね。

『読むための理論』を読みました。

を、読みました。

これもまた小森陽一つながりですが、とにかく若い本。本自体は結構古くて、活字もたぶん写植ですらない? なんだか古き良き活版印刷を思わせる感じではあるのですが、素人なのでわかりません。しかし、巻末の著者一覧を見ていても年齢的には40手前で編んだ書物なんですよね。相互にやたらめったら著書を言及し合うノリも含めて、非常に勢いがあって、かつレポートの種本としても重宝した記憶があります(個人的には石原千秋の論説というのはその後も共感したことがあまりないので好きではないのですが)。

ここに紹介されているテクスト論的な「読み方」が今現在の近代日本文学研究の潮流でどう位置付けられているのかもはやわかりませんが、方法論として非常に期待されている部分はまだまだ現役ではないのかと思いたくもなってしまいます。ただぼく自身が卒業論文で物語構造分析を援用した際も教官からは「いらないんじゃない?」と言われた記憶も含め、オーソドックスなものには至らなかったのでしょう。たしかに職人技みたいなところはあるんですよね。でも作品論・作家論的な発想を異口同音に批難しつつもなかなか第三極が現れてこない。そうこうしているうちに「近代文学」なんてものをだれも読まなくなってしまうのでは? というのは杞憂か。

そういえば「この本、俺君が好きそうだよ」と教えてくれたあの子は元気にしているだろうか……。

小森陽一『小森陽一、ニホン語に出会う』を読みました。

を、読みました。

著者の経歴については最終講義を聴いていただいてもよく理解できますね。

ぼくも予備校時代に「構造主義」的な読み方にしっかりかぶれて進学し、小森さんの授業というのも何回か受けた記憶があります。「三四郎」と「山月記」だったか。とにかくあらゆる言説がお得意の天皇制批判に結び付けられる、ある意味でその手法の「鮮やかさ」にはびっくりしたものですが、その後の村上春樹批判などは読んでもけっこう「?」な感じでした。

いずれにしても言葉を通じて無意識に前提としてしまっている権力性であったり暴力性であったり、そういうある種の関係性の一方的な押し付けというのをしっかり言語によって前景化させ意識的に批判を加えていく、というのは教師だけでなくともサラリーマンをやっていたって常に気を配らなければならないことの一つなのだと思っています。会社社会こそいろいろな局面で「エライ/エラクナイ」というフィクションの中でしか成り立たないことの「ごっこ遊び」でしかなかったりするわけで、そしてそれに内向してしまうほど本来の利益追求という大目的がおろそかにされてしまう。気が付いた時にはたいてい遅かったりするわけですが。以下の引用に本書のすべてが詰まっているように感じました。

学校を拒んでいる不登校の子、教室を捨てた保健室の子が、学校のことば、教室のことばで自分を語るはずもないし、語れるはずもないのです。それと同じように、〔…〕この国の近代の歴史の中では、多くの「在日」の人々をめぐって、常にきわめて切実なるものとしてあったはずであるにもかかわらず、隠蔽されてきた問題です。〔…〕自らを語ることができず、また語ったとしても聴きとられることのないことばに、声と形を与える媒介に「日本語」がなっていけるのか。

平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』を読みました。

を、読みました。

実際に読んだのはPHP新書版なのですが、いまは「PHP文芸文庫」?なるものがあるんですかね、そこに採録されているようです。折に触れて読み返す山村修『遅読のすすめ』も言及されていますが、やはり本家の方がずっと面白いです。

本書も前半の「基礎編」「テクニック編」はけっこう面白く読めるのですが、そことてもいつもながらに筆者の「ビジネス書みたいな新書もお手の物ですよ、へへん」みたいな声が始終付きまとっていて、簡素な文体がなんとなく鼻につきます。

後半の「実践編」も別にゆっくり読んだから見えてくるような話でもなく、なんとなく教科書ガイド的というか受験現代文テクニック的な小話が「開陳」されるだけでいまいち「なるほど、それならゆっくり読んでみよう」と思えるような記述も見当たりませんでした。「伊豆の踊子」の主語の問題も、確かにそうなんですが、これもなんか大学一年生が「比較文学」なるものをちょっとかじって喜びそうな挿話ですよね。

平野啓一郎は、昔はずいぶん熱心に読んだものです。デビュー作からこれでもかと繰り出される「テクニック」にずいぶんぼくも若いころは興奮したものですが、それこそいま読み返したいかといわれるとなかなか……。これも時期が来ればまた違うもんなんでしょうかね。

村上春樹『螢・納屋を焼く・その他の短編』を読みました。

を、読みました。

「蛍」は言わずと知れたノル森の原型ですが、登場人物名以外の異同がどれほどあるのか毎回気になっていました。だれかまとめてくれていないかとネットを検索してみたのですが、誰もそんなことに興味が無いのか見つかりませんでした。ただ、ノル森には章をまたいで結構分断された形で挿入されていますね。

「めくらやなぎと眠る女」にも実はノル森の断片がすでに現れています。海辺の病院にキズキ君と二人で直子の手術のお見舞いに行くシーンですね。スクーターに二人乗りしてべとべとになったチョコレートを持って、というところまで同じです。あと気になるのは、主人公が「フォークナーの短編集」を読んでいるところでしょうか。ノル森では『八月の光』をワタナベは永沢さんから借りて読みます。あと、この男二人で女の子のお見舞いに行くというシチュエーションはどちらかというと『いちご同盟』の方が本家なんじゃないかと勝手に思い込んでいたけど村上の方が全然発表年が先だった……。

あと思い出すのはぼく自身が村上春樹に初めてふれたのが「ヘルWの空中庭園」で、予備校のテキストの後ろの方に付録でついていたのを読んだのが最初です。そのときはなんだかよくわからなかったのですが。

村上春樹『カンガルー日和』『ふしぎな図書館』を読みました。

を、読みました。

短編というよりは掌編集ですね。まあしかしよくもこれだけのタイトルを思いつけるもんだと感心してしまいます。いずれにしても読後、心に残るのは「本当はあり得たかもしれないたくさんの人生の可能性のかけら」みたいなもののきらめきとでも言うんでしょうか。人は必ず何らかの判断をしながら生きていきます。でももしかしたらあの時違う判断をしていたらその後の人生が思いがけずガラッと変わっていたかもしれない──そんなことは実際に起きたら全く当てが外れていたとしても、なお、そう思わせてくれる瞬間というのが誰の心の中にもあるはずで、たぶんそれが今でももしかしたら退屈な日常というものがあるとしても、ときどきその「退屈さ」の当り前さを揺さぶってくれる。「バート・バカラックはお好き?」「駄目になった王国」「スパゲティーの年に」あたりがそういうテーマが色濃くて好きです。

『カンガルー日和』の最後に収録されているのが「図書館奇譚」の連作。それを絵本版にリライトしたのが『ふしぎな図書館』です。続けて読むと、けっこう絵本用に書き直した異同のいちいちがわかってこれはこれでなかなか興味深いです。