投稿者「l32314」のアーカイブ

室生犀星『性に目覚める頃』を読みました。

昔から思うがタイトルが悪い、人前で読みにくい。結局のところ、犀星による「オレンジデイズ」であり「若葉のころ」であり「檸檬のころ」であると言ってくれればよいのに。

しかし中身はそんなに爽やかなものではない。懸想した女がさい銭をくすねるのを、自分でまた父親から盗んだ金で工面したり、その女の雪駄を盗んでみたり、盗みが連鎖する話が続く。

詩作仲間のモテ男も最後は死ぬ。けれど、肉体関係を持っていた茶屋の女にも病気がうつっているらしいようなことがわかると途端に嫌悪感を主人公は催す。

最後は遊廓。要は寺のぼんぼん息子が遊びをおぼえるまでの話。犀川の自然を背景とした地方都市での男の子の成長物語といえばそうなのだけど、多分に自伝的な要素も多いのだろうと想像されることも含めて、もはやあまりいま読まれることはないのだろうと思った。

今、ウィキペディアを確認したらタイトルは編集の滝田樗陰が勝手に書き換えたものだそうだ。やはりそうだったか…。

室生犀星『或る少女の死まで』を読みました。

もう、タイトルが『或る少女の死まで』で、小説が始まって早々に「少女」が登場するもんだから読む方はもう「ああ、この子か死ぬまでのお話なんだな」と、がっかりしてしまう。少女が死ぬ話は読んでいてあまり気持ちが良いものではないのだ。だいたいが悲惨で、救いようがない死だからだ、物語の中の少女の死というものは。

しかし、読み進めると別の少女が登場する。こちらも丁寧に主人公とのやりとりが、描写される。特に先に登場した少女が、決して出自の確かではなく、飲み屋の手伝いをする貧しさを背負っているのに対して、こちらは単身赴任の父親を待ちながら弟の世話もするかいがいしさがある。主人公はこちらには丁寧な言葉遣いで対応するが、だからといって前者を軽く扱っているわけでもない。子供でも相手によってちゃんと言葉の使い分けをする、そういう意味での公平感を技術としてちゃんと持っている主人公であることがわかる。

終盤で、もう一度飲み屋の少女が出てくる。出てくるというか、病床に伏せたという伝聞の形で。それもまた死を匂わせる。そして下宿先の少女も最後には死が伝聞される。人の死はいつでも伝聞だ。この小説は、最後に掲げられる詩の、長々しい前置きであり、あるいは犀星一流の長々しい散文詩とも読める。

「linguaskill business speaking」私の勉強法 その3

ようやく四回目の受験が終わりました。今回はだいぶテスト形式にも慣れてきたので、効率の良い対策を指向しました。つまり、AIをフル活用したわけです。

各社のどのサービスを使うかは好みなので別になにがどうというものでもないですが、とにかく『型』のネタをいろいろと準備しておくということに注力しました。

具体的には以下のようなプロンプト(というほどでもないですが)をGeminiに読ませて、回答をgoogle documentにひたすらエクスポート、模試をやるたびにひっかかったパターンを追加、電車の中などのスキマ時間にスマホで何回も読み直す……これを繰り返しました。

下記は切れちゃっていますが、基本構文は『〇〇なときに便利な英語表現』です。〇〇をいろいろなシチュエーションに置き換えるだけです。

以下は回答例。

自分で検索するよりよっぽど早い! これを使わない手はないですよ、ホント……。

もう一つ、今回もオンラインの模試を活用しました。speak&improveとPROGOSです。

前者はケンブリッジでも推奨のため問題形式は本番と同じですが、ビジネスに特化していないです。後者は、違うテストなんですがほぼ形式は同じで、かつ割とビジネス寄りの設問なので、この2つで練習しておくとレベル感はだいたい良さそうです。

プロゴスはスマホアプリのみ↓

AIも進化しているのか分かりませんが、パート2の音読は、以前はわざと噛んで含めるように喋らないと機械が認識してくれないような感じがしましたが、今回の練習では外人のマネしても割とちゃんと採点してくれている感じがします。真偽はわかりませんがあまりAI用にとりつくろう必要もなさそうです。

それからこれも、パート5のインタビューで、やりとり感をどう出すか。例えば反対意見を言うのにも「No way! I don’t agree with you!」とかつけるとなんとなくスコアが良いような…。

それで今回は以下のような『型』も準備しておきました。

これがどこまでスコアに結びついたかわかりませんが…引き続き、傾向と対策を研究していきたいと思っています。

↓過去の記録

対策その1の記事

対策その2の記事

宮地尚子『傷を愛せるか』を読みました。

ちくま文庫らしい五臓六腑に染み渡る文庫本。シリーズケアをひらくにも採られていてもおかしくないくらいの内容(たしかに初出が医学書院の新聞なのも偶然ではないのでしょう)。また、鷲田哲学も思わせる、弱さを肯定するというテーマ。

でも決して上からではない。医者の肩書を持つ著者だが、そこに対する居心地の悪さもしっこり自覚しながら言ってみれば等身大の「とほほ」な記録だ。しかしそれが心地よい。

人身事故のエピソードが心に響いた。たしかに誰かに怒りを感じるときは、その人が普段我慢していることを他の誰かが我慢せずにやっているのを目の当たりにした時だ。それは嫉妬とは違う。自分が気を遣って我慢していることを無にされているから怒りになってしまうのだ。まったくその通りたと思った。

夏目漱石『彼岸過迄』を読みました。

これは漱石としては失敗作だったのではないかとよく言われる作品です。たしかに題名もよくわからないし(前書きで大した意味はないと言ってはいますが)、前半と後半の構成や人称、語り手の様変わりはどこまで意図されたものなのか、正直読んでいて戸惑ってしまう。それをば、実験的と称するのかなんなのかよくわからないのですが…しかし、それでも他の漱石のオーセンティックな作品にはない魅力があるのは間違いないのです。

どこかこう、漱石はこれをとうしても描きたかったんだなというのが伝わってくる、その感じ。前にも書きましたが、特に宵子の死は書かなければならなかったのだろうと思います。何回読んでも葬式の経緯は胸がふさがる。ただ、もう単純に厳しい運命を受け入れなければならない弱さ、あるいは強さを感じる。

後の作品のモチーフになる三角関係の描写もまだまだ奥ゆかしいけれど、それもまた良い。千代子の造形は、時に鬼気迫ると言って良い場面もいくつかある。髪結いのくだりは一度読むともう忘れられない。須永の煮え切れなさは確かに卑怯だ。そして須永の出生の秘密はついに明かされる…。

後半の須永の独白の部分に友人に借りた「ゲダンケ」という小説が登場しますが、これは実在するアンドレーエフという作家の、上田敏の訳によれば「心」という小説で、これも三角関係に狂わされた内容。漱石の「こころ」はその5年後に書かれる。当時は結構読まれたロシアの作家のようですが、このあたりも先行研究があれば確認しておきたい。

小林秀雄全集第二巻を読みました。

中也、長谷川泰子との関係を示唆するといまでは定説になっている「Xへの手紙」「おふえりや遺文」を収める。手紙はとにかく「……とは思わない」、とか、「……と思ってみたい」とか、小林の私人としてみずからの真意をはぐらかしながらも、一方で批評家としての自分が言葉でつかまえようと必死に筆を進めるのろさが生々しい。なにしろこの文章だけは一人称が「俺」なのだ。

手紙も含めて、この巻ではまだまだ批評とは何なのかということにかなりこだわっている。批評は作品を追い抜けない、と何度も書いている。後年の、意を決したようなゴッホやドストエフスキー、ベルクソンへの挑戦のことを思うと、自分の筆致に対する自信と不安とがまだない混ぜになっている。爪を研いでいるというか、その爪の有用性を試し打ちしているというか。

小論の中でも繰り返し、レッテルを貼るのではなく、小説を小説だと思わずに読むことを指南するなど、みずからの批評のスタイルを固めている段階だ。時に強い口調が、文芸批評の世界で生きていけるかどうか、まだ若い小林の高らかな宣戦布告のようにも見え、同時にその裏にある、おそらくは当時の本流やオーセンティックなものへの抗争の孤独な楽屋も思わせる。

根岸康雄『だから、お酒をやめました。~「死に至る病」5つの家族の物語~』を読みました。

発売日に本屋で見て面白そうだなと思い、電子書籍で購入。ただ光文社なので文句は言わないが、新書で出す内容ではなく、よくある実録コンビニ本、あるいは中高年向けのダイヤモンドのネット記事のような感じです。新しい医学的見地が得られるわけでもなく、各章の前書きや最後の章のよくわからない楽屋落ちはさっさと読み飛ばしたくなる代物、ではある。

しかし、ここに紹介されるエピソードの登場人物たちの弱さ、生き様、そういうものには小説を読むような面白さがある。もちろん取材を元に再構成された一種の小説と言えなくもないが、鬼気迫るリアリティがある。それは是非本書を読んで感じてほしい(女性の事例だけなぜか独白体なのがこれまた意味不明なのだが…)。

酒というものにとりつかれると人間はここまで落ちゆくのかというのが、具体的な行動として描かれている。自分はここまでのことはしない、という安堵感もありつつ、いや下手すれば自分もこうなるのかという恐怖感もしっかり残る。

──しかし、いかんせん事例の登場人物の年齢が高い。紹介されているのがサバイバーだからこそ高齢者の事例しかないということなのだろうか(それはそれで恐ろしい話だが)。いまの、たとえばトー横キッズはアル中になったりしているのだろうか、あるいはもっとひどい依存症なのだろうか……。

アル中といえば下のマンガも以前、Kindleで買って読みました。これも当事者のなかなかえぐい事例です。

かどなしまる『人生が一度めちゃちゃになったアルコール依存症OLの話』

ボールペン2本目

3カ月とちょっとで2本目インク切れです。海外の金属製のリフィルは内容量があとどれくらいなのかわからないので面白みがないね。

ラミーのボールペンともこれでいったんオサラバです。

小林秀雄全集第一巻を読みました。

小林が繰り返しているのは結局のところ、〇〇主義といったレッテル貼りをして作品を色眼鏡でみるのをやめろ、ということでしかないんですよね。新人の作品たちも別に文壇で派閥争いのゲームをやっているわけでは決していないのです。デビュー作の「様々なる意匠」の「意匠」という語も、言っているのはレッテルということです。今のアカデミックな形式からしたらとても論文とは言えないものですが、小林の原動力となっている怒りのパワーはいつもどこかひょうきんでいて、大真面目。

どうでもいいけど、ランボオの詩はあまりに若々しいので(「老成した」という形容詞が似つかわしいくらいの若々しさ)日本語ラップ調で脳内再生するとめちゃくちゃカッコイイ(気がする)。

菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』を読みました。

大学卒業間際の自己の迷妄期にひたすらよく読んでいた本の一冊。ということで何回も読んでそのたびに違うところに線が引いてあったり、よくわからん書き込みやら図解やらがあって、当時の必死さがよく伝わってきたりします。

そういう本は当時何冊かあって、しかしその問題意識は全く解決されていないのですが、年を取ると全く振り返ることもなくなってしまう。自分なんてしょせん自分だろ、みたいな諦念に至ってしまう。ちょうど、「四月は君の嘘」の「君はどうせ君だよ」という老成したセリフのように。

いま、作者のwikipediaを覗いてみたら、2016年に病没されていました。一般読者に寄り添ったところがとても良い書き手だと思っていたので、今更のようですが非常に残念です。ご冥福をお祈りします。

本書は19世紀のユダヤ人思想家ジンメルの著作をベースにしながらも、作者の個人的な動機(それもふくめて本書ではかなり具体的に描かれているのがとても良い)を出発点にして、現代に生きる僕らの人間関係や自己実現に焦点を当てて論が展開されていきます。

平野某氏の分人主義(なんだ、主義って?)のような強者の割り切った人生態度も、人類補完計画の忘我の気持ちよさも、いずれも独りよがりのものだと批判しつつ(比喩です)僕らはどう生きていくべきか? 弱い自分を自覚しながら大人の距離感を他人と取り(他人も同じ人間であることを尊重し)、新しいテクノロジーに対しては目的を明確にして利用すべく変容を促していく(その強力な手段としてのお金)態度……みたいなのが、目指すべき現代人の生き様なんでしょうか。

社会はスタティックな「構造」なんかではなく、自分自身もまた結節点として機能していく動的なものと捉えることは、心がけ次第と言えばそうかも知れませんがすこしだけ生きる勇気が出てくる、そんな本です。