カポーティの短編集です。どれも題名のファンシーさとは裏腹にけっこうキツイ内容。そもそも表題作も、村上春樹による訳者あとがきにあるようにオードリー・ヘップバーンのイメージが強すぎるのですが、そして映画を見たわけでもないのですがただの恋愛物語では決してない。登場人物は皆、我が強すぎて、そういう自分が周りと軋轢を生んでしまうことにきつさを感じている。でも、そうすることしかできない。その痛み。けれど、物語が回想で書かれていることを見逃してはならない。もうぼくたちはつまらない大人になってしまった。そこから、ぼくたちは若かったころの、妄想することでしか生きられなかったその生きづらさを思い起こしている。もう失ってしまった痛みを、回想することの痛み。この二重性の中にこそカポーティは閉じ込められているんではないか。どの短編も同じ構造だ。
私はなおかつ自分のエゴをしっかり引き連れていたいわけ。いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。
『ティファニーで朝食を』
ところでティファニーで朝食を食べることができるのだろうか? 銀座の資生堂のように? ティファニーはゴライトリーにとって何の象徴だったのか? 実態の分からない大人たちが宝石を買いに行くところ……それは、イノセントな魂にとってはまるで自己否定を鼻先につきつけられるような、あるいはポイント・オブ・ノーリターンのような場所なのかもしれない。