惣領冬実『チェーザレ』12

コンクラーベは根比べ。史実は詳細はどうかわからないようですが、その内実を漫画で描くというのはなかなか大きな試みなんではないでしょうか。しかし単行本は4年ぶり。ぼくの記憶にあるコンクラーベは2005年のそれですが、それも10年以上前だと思うといやんなりますね。


藤子・F・不二雄『箱舟はいっぱい』

ドラえもんに至るという道というのか、そもそも藤子・F・不二雄の興味関心の核心がやっぱりこのあたりにあるとドラえもんというのはずいぶん大衆迎合的というか、商業的にあまりに成功した作品だったんだなあと感じ入ったりします。同時代の人たちはどうやってこの作者の作品を受け入れていったんでしょうね。そういうのも気になりはしますが、いやもう、ただ単純に「面白い」! という感想です。


ローザ・ルクセンブルク『経済学入門』

なにが「入門」なんだろうか・・・ヘーゲルの『哲学入門』ばりにいまいち読んでいてどこをさまよっているのかわからない本でした。ただ、貨幣の発生というのか発明というのか、それを「原始共産主義社会」を仮定しながら想像を膨らましていく辺りは面白い。おそらく当時のあらゆる文化人類学の実例を引用しながら、現代にまだ生き残っている部族社会の経済を参照して論を進めていきます。ここに出てくる、家畜が貨幣の代わりだった社会というのが本当に起源として正しいのかどうか・・・正直なところ、最後まで「ホントに?!」という感じでしたが、まあ講義録を書籍化したというものでもあり、最後まで結論めいたものは回避されて歯切れは悪いです。後半の余剰労働力に関する部分は割とマルクスの原著の解説としてはわかりやすくまとまっているようにも思えます。まあそれで『資本論』を読まない理由にはならないと思いますが・・・ローザ・ルクセンブルクは書簡のほうが有名のようですが、いま現代での評価というのはどんな感じなんでしょうか。よくわかりませんが、ぼく自身があまり良い読者になれなかったのは確かなようでした・・・。


チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

いわゆるフェミニズム小説と紹介されていますが、まあ個人的には○○小説と呼び習わされるものは得てして「小説」とは言い難いのですが、本書もどちらかと言えば文学というよりは一人の韓国の典型的な女性のケーススタディとでもいいましょうか。形式としても精神科医の口を借りた、「82年生まれ、キム・ジヨン」の半生が語られるという形式のもの。役者解説によればこの「キム・ジヨン」というのは82年出生の女性で一番多かった名前なんだとか。

しかし気持ち悪いくらいに日本にもそのまま当てはまるミソジニー的エピソードがこれでもかこれでもかと羅列されます。救いは、もしかするとジヨンの母親のパワフルさかもしれません。それもまた韓国の女性像の一つなのだとすれば、「そうそう、こういう財テクに長けた肝っ玉母さんってよくいるよね」という受け止めがあるとすればそれこそ「救い」になるのですが、これもまた一つのファンタジーなのだとしたら相当に韓国における女性の立ち位置というのはキツイな、と思わされます。

まさにぼく自身が82年生まれであるので、一つ一つのエピソードと社会的な背景はよくよくわかります。経済状況は多少は違うかもしれませんが、一応日本でも氷河期世代・ロスジェネ世代の最後の最後の年にぼくもまた就職活動をしていました。これに加えて女性であることでどれほどの差別がこの日本という国であったのかわかりませんが、ぼくがその時、かつてものした小説のようなものも、その当たりをテーマの一つにしていた・・・記憶があるのですが・・・しかし時代はよくも悪くも変わりました。少なくとも企業において入るときも、入ったあとも女性「である」ことで不利な扱いを受けることに関しては、例の入学試験に関してもだいぶ透明化というか、おかしいぞ、という事象は表に出るようになりましたし、変な発言をする政治家に対してもある意味行き過ぎるくらいの浄化作用は働いているようにも見えます。

つまりはこの十年で表に出てきた問題というのはそれまでは連綿と当たり前のようになされてきたということに、本当に背筋が寒くなる思いもあるのですが。

いま、82年生まれの人間は社会の中で次第に仕組みを変える権限を与えられる年齢に差し掛かっています。それはある意味で諸刃で、保身に走る可能性もある。ぼくのように大卒総合職で企業に入った人間は「頭の固い保守系中間管理職」にも簡単に転がってしまうかもしれない。若い頃よりも、自分の周囲の環境も変わって、社会のことよりも我が身可愛さに走ってしまう可能性がある。それは実に実によくよく気をつけなければならないと思う。現場で、日々の仕事の中で、簡単に「弱き者」に何かを押し付けてしまうかもしれない。自覚もなく!

日本でこういう作品が生まれてこなかったことがいい意味でありますように。あるいは太宰治の「男女同権」的な逆転の思想も味方につけながら、もう少し考えを深めていきたいなと考えさせる作品。


ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』

大学時代に生協に山と積まれていた人文書は、実際のところ学生の身にとっては買って読めるような値段設定のものはごく僅かで、やっぱり学生の読書というのは文庫・新書が中心になるわけですが、それでも「あの頃」はまだ四捨五入して500円にも満たない本は多かったように思いますが最近は文庫本でも700円位が普通の値段なのでびっくりしてしまいます。まあそれはどうでもいいとして、社会人になってお金が自由になり、「あの頃」読みたくても読めなかった本を買い漁っては満足するというのが社会人5年目くらいまで病のように続き、その後は結局その再読。けれど、再読だけが人生だと思う。自分のオリジナルって、結局若い頃にしか形成されないんじゃないか? 残念ながらそれは真実の一端だと思う。だって新しい小説や映画や音楽に感動する機会というのが年々減っているし、そんな時間がまずない。

村上春樹的に35歳を人生のターニングポイントとするのであれば、ぼくはもうその年齢を僅かではあるが過ぎているわけで、別に若い頃の感動を蘇らせたいわけではないけれど、先立つものの中に自分のオリジンを見出したいというのもこれまた。だって、本当に昔のことって忘れていってしまう。びっくりするくらいに。かつては忘れたいとばかり思っていたものでしたが、いまは忘れたくないと思うようになりました。どんなにかっこ悪かったことも。

本書は、題名がすべてを語っています。相も変わらぬ日本人というのが描かれています。平成の最後に、天皇制について考えるのにも結果として好適でした。


「ゆっくり」でいいんだろうか?

この年になると自分の中にもだんだん、どんなに頑張っても成れない自己像みたいのに執着する気持ちもだんだん萎えてきていて、かと言って社会人/会社人間である以上はすべてすべてをマイペースで進めるわけにも行かない(そういう人もいるんだけど、本当に羨ましかったりするのですが)。人生を一段降りて、なにかあくせくする人たちを遠目で見ているような人間にはなりたくない。祭りには参加したいし、やるからには自分を押し通したい。こういう気持ちを持ってしまうところが自分の弱いところなんだろうと思う。人より偉くなりたいとか、人よりいい車に乗りたいとか、人より頭が良くなりたいとか、ある部分で諦めているところもあるのだけれど、「それでもやっぱり」とどこかでまだ自分自身に期待してしまうのだろう。でも「テンション」を上げるだけでは仕事は進まないし、「やる気」みたいな超不安定なリソースを前提に会社に通うことはできない。であれば、テンションをあげようとする自分を警戒し、常に犀の角のように、ただひたすら手を動かすことを金科玉条にすることも、あるいはそれだけで人生はいいのかもしれない。それは味気ないのだろうか? パフォーマンスに酔いしれるということもまた、人生の喜びの一つだったりするんだろうか? しかしそう思っているところがまだまだ卑しいと言うか、人間として小物なんだろうなと思ってしまう今日このごろだったりするのです。