【11冊目】Kindle Direct Publishingをやってみた

椎名要『バイバイ蛇女again』

年度内に間に合わせるとか言っていたのが結局は年内に間に合いました。11冊目まで来ました。

今回は短編集です。お蔵入りになっていた作品もずいぶんと書き直しをしまして、冒頭の「ヤコブソンの部屋」だけは新作として書きおろしていますが(当初はこれが長くなれば単独で、と思っていたのですが意外と小規模にまとまってしまったので)、全部で9つの作品が入っています。

あまり自分としては意図していなかったのですが、集めてみれば結構男女にまつわる話がほとんどだったので、そういうくくりでの短編集と銘打ちました。若いころよく書いていた「饒舌体」は、今ではもうあまり復元できないような雰囲気もありますが、それもふくめて楽しんでいただければと思います。

ライトアップ

近隣というほど近隣でもない、さる有名な庭園のライトアップを妻に引っ張られて見に行ってきた。あと何年この場所に住めるのかわからないけれど、ぱっと思いついてぱっと行けるときに行っておくのはいいことだと思う。

ダイソーの恐竜

ダイナソーではない。一体百円也。あまりに暇だったのでたくさん作ってしまった。けどこれ、あなどれない。緑色のティラノサウルスは、説明書が分かりにくいというのもあるけど、けっこう難しかった。一回作ったけど間違っていて、作り直した。このシリーズはステゴサウルスとトリケラトプスもあるはずなのだけれど、大きいダイソーに行ってももう在庫が無かった。残念。また探したい。

10年ぶりに電動ひげ剃り買い替え

ひげそりは基本的には電動シェーバーを使っていたのですが、やっぱりそり残しが伸びてくるのが気になるのと、一時期営業にいた時にカミソリ派に鞍替えしてからはあまり毎日電動を使うという感じではなくなっていたのですが、それにしても10年も使い続けて電池の挙動もおかしくなってきたので(交流で動かない時が頻発)買い替えることにしました。

しかし10年も経つ間にだいぶ世界は変わってしまっておりまして、ぼくは伝統的に日立を愛用してきたのですが、もうこれがほとんどラインナップが縮小してしまい替え刃もめったやたらに高い。しょうがないので大手家電メーカーをいろいろと見たのですが、なんか機能もお値段も高いのばっかりなのね今は……。

さんざん口コミを読み漁って検討した結果、ブラウンの3シリーズにしようと落ち着きました。これはエントリーモデルのシリーズなのですが、そのなかでも交流も使えるタイプにしました。今日ようやく物が届いて剃ってみましたが、モーターは静かだし、ぐいぐい肌に押し当てなくてもちゃんとそれるしでさっそく買ってよかったなあと思いました。ブラウンは手入れが日本メーカーとだいぶ違くて、刃を取り出さなくても水で洗えばいいようなのですがこの辺りはまたおいおい確認してみたいと思います。

迷う時間は長かったのですが、久々にいい買い物をしました。

掛居保とはなんだったのか(「あすなろ白書」異聞)

ドラマ『あすなろ白書』を見て、始終気になったのは掛居保の「内面」だった。

掛居はドラマの序盤でとにかく人からもてまくる。ヒロインのなるみ、予備校時代からの同級生の星香、序盤では恋人の位置を占めていた地元仲間のトキエ、さらには男である松岡からも。掛居の立ち居振る舞いは、ドラマの中ではとにかくその場面や状況に応じて最も相手が喜びそうなことをもうほとんど反射的ともいえるくらいの軽さでやってのけていく。

特に最初のなるみをホストクラブに連れて行ったのを「いい男いて喜んでもらえると思ったんだけどな」となんの裏表もなく言っている(口では冗談だと言っているが、冗談で連れて行っているとは思えないところがある)のが、今でいえばサイコパスとでもいうのか、そのあたりでようやく「あ、こいつはそういうやつなんだ」というのが分かってくる(しかし、その際になるみを「ダボハゼ」と形容しているのはあまりにひどいような……)。そのあと言い訳のように「なるみの怒った顔が見たかったんだ」と言うが、どっちが本心で最初からどこまで意識していたのかまったく読めない。そういう「読めなさ」が1話ですでにふんだんに提示される。

本当に序盤はつかみどころがない人物に見えて、まるで源氏物語でも読んでいるような気分だ。人物の一貫性はどうでもよくて、場面が映えればそれでいいという、そういうドラマなのか? と一瞬疑ってしまう。それは近代的自我とは全く無縁の世界で、まあ連続ドラマの一つの「型」と言えばそういうのもあり得るのだろうと、誤解してしまう。

けれど、掛居の「内面」の存在が告白される場面が話を追っていくと登場する。

ひとつは、望まれずに生まれたという自らの出生の負い目という、たぶんに大時代的な道具立てを、まさに掛居がしっかりと受け止めてきた過去が京子との一夜の後のシークエンスでようやく明かされるところだ。寒い外でなるみが出てきてくれるのを待った後で、掛居の告白がなされる。ここで視聴者はようやく安心するのだ。掛居は、場面に応じた歌舞伎的な役割ではなくて、「奥行」を持った人物であることに。平面的に見えていたのはちゃんと意図があったのだという文法の存在に。

手首に傷のある女性に会った。
俺は彼女の話を聞きながら、昔の自分を思い出した。
手首の傷が、自分の傷のような気がしてきた。
彼女を抱いた。
彼女のことは好きなわけでも愛しているわけでもない。
だけど抱いた。
後悔している。なるみを傷つけたことを後悔している。
今までなんだってあきらめてきた。
世の中に執着するべきことなんて何もない。
心を殺して、目を閉じて、なんだってわけのわかったふりをしていればやがて時は過ぎる。それが、親に期待されないで、望まれないで生まれてきた自分の処世術だと思って来た。

しかし実際のところここですでに5話まで来ている。もちろん後から考えればトキエとの別れ(3話)の時点で、掛居の状況迎合的な、相手にすべてをゆだねるスタイルの自覚は暗示されているようにも読めるのだが、それはいったんはトキエからなるみへ、ある意味では陰から陽へと物語が動き始めた変化点として期待された。結局その後もなるみとくっついては離れするさまは、掛居の本質が何一つ変わっていないことの証左でしかない。上記に引用したせりふも、そのすぐあとに「だけどなるみはあきらめられない」と続くのだが、このモードに入るともうすでに「なるみの求めている自分」に入って行ってしまっているのではないかと、疑義が生じる。

もちろんなるみ自身もそれはわかっていて、7話の最後に挟まれるモノローグの「少なくとも私はあの一件からすっかりダメになった」は彼女のするどい正直さだろう。画面ではカップルの仲良さげな絵を見せながら、別れに向かっていくモノローグを載せていくこの演出は秀逸だ。

決定的なのは、7話で松岡に「おまえ、自分のことが好きか?」と問う場面。掛居の行動原理はようやくはっきりと明文化される。11話のドラマで7話までかけるには長すぎる「ミステリー」じゃないかとも思うが、あたかも源氏の君のように、あるいは村上春樹の主人公のように女性と関係してきた掛居の秘密が、無いと思っていた内面の葛藤というものがドラマとして立ち上がってくる。掛居よ、お前はそんなことをずっと悩んで生きてきたのか、と見ているものも7話のこの場面だけは手に汗を握る。

松岡、おまえ、自分のことが好きか?
俺は自分で自分のことがあまり好きになれないんだ。
だからそんな俺を好きだって言ってくれるやつがいると
無条件にありがたい。
出来ればその気持ちにこたえたいと思う。
それができなければ、せめてその人を喜ばせたいと思う。

この直前で松岡は「人の気持ちにこたえられないのは申し訳なくないんだよ、そんなのあたりまえなんだよ。この世がみんな相思相愛なわけないだろ。おまえのそういう優しさが鈍いナイフみたいに人の心を切るんだぞ」と(掛居のことを想っているという状況はあるとはいえ)偶然にも掛居の本質を言い当てている。それに対する答えとしては本当によく練られたセリフだ。特に二行目の「あまり好きになれないんだ」は泣かせる。「好きじゃないんだ」ではなく、「好きになれないんだ」。そこには自分を好きになろうとしてもなれない、まだあきらめられない「ため」のようなものが見え隠れする。

8話以降の社会人編は、原作にも引っ張られているのかかなりご都合主義的な展開で(新宿近辺に勤めているだけであんなに偶然会うわけがないじゃないか……)もうあまりよくわからないが、結局、京大を出て社会人になっても掛居は偶然再会した京子と好きでもないのに結婚直前まで行き、そしてまた偶然再会したなるみにもう一度戻っていく。これはハッピーエンドでもなんでもなく、掛居の魂の彷徨がまったく終わりの見えないどうどうめぐりを繰り返しているにすぎない。掛居は自分のことを好きになれたのだろうか? 否、その出自があまりに彼の性格形成において重い烙印なのだとしたら、なるみの「明るさ」もそれは救いきれず同じことを繰り返すだけではないのか。それとも物語の最後に今まで違う、掛居を救うものがなにかあったのだろうか?

ぼくはに見つけられなかった。

鉛筆11本目

小さくなると手動の鉛筆削り(手回しではなくて、色鉛筆のおまけについいるみたいなやつ)を使うのですが、木が古いからなのか刃の切れ味が悪いからなのかわからないのですが、カビカビの断面になります。なにかよい削り器はないものだろうか。カッターで削るのが一番確実なんですけどね。

波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』を読みました。

まあ、正直に言おう。かなり期待外れの本でした。

ソンタグを愛読してきた者としてはやはり、気軽に読めるソンタグ論といった新書はいまだ本邦には無く、本書でもその日本における受容の在り方は問題視されてはいるのですが、そうは言ってもみすず書房からも河出書房からも(この著者も訳者として参加しているわけだし)近年精力的に刊行・再販されているわけなので、もっと現代的な意味においてソンタグを今この時代に「読む」、ということにフォーカスしてほしかった。

もちろん「against interpretation」は「反解釈」ではなく「解釈に逆らって」だし、「On photography」は「写真論」ではなく「写真について」でしかない。それくらいのカジュアルさが、たとえば日本における浅田彰的な「カッコよさ」に引きずられてタイトル付けされたのであれば、不幸としか言いようがないでしょう。

でも、一読すればわかるじゃないですか、1ページでも読めばわかるじゃないですか、ソンタグのすばらしさは。そういうことにまでしっかり言及する新書であるべきなのではないか、少なくともタイトルを『スーザン・ソンタグ』と銘打つのであれば。あるいは「新書とは何か」と自ら問うているのであれば。

あまりに「よけいな話」が多すぎました。太宰、三島、大江もいいけど、ソンタグはもっとバルトやアルトーに、サルガドに言及しているわけなので、もっと彼女の書いた言葉を忠実に読解するその現場を(著者は「文学部」の教授なのだから)もっと見せてほしい。それによって読者が「ソンタグを読んでみたい」と思わせるものにしてほしかった。

「against interpretation」にこだわるあまりソンタグそのものについて言及することを著者は始終避けていて、その避けている「スタイル」があたかもソンタグを描出すること固有の困難さででもあるかのように言うのですが、それは「伝記」的なるものについては決して避けて通れないものでしょう。その葛藤の中から見えてくるものをもっと言葉にしないといけないでしょう。もちろん「対象に忠実」なんてことが幻想であることはアカデミズムに籍を置いていなくても、読者は承知していますよ。結果として、本書の太宗はソンタグ自身ではなく、ソンタグをを題材とした中途半端な現代批評に占められてしまっています。

あるいは、本書を読み終わったとき「やはりソンタグの原著を読むしかないのだな」と読者が本棚に手を伸ばすのであれば、そこまで裏をかいたトリックが裏打ちされていたのであれば、本書も成功とも言えるのかもしれないのですが。

鉛筆10本目

これで赤鉛筆はおしまい。かと思いきや、子供の余った紫色の色鉛筆を押し付けられたので、明日からは赤鉛筆の代わりに紫鉛筆をマーカーとして使います。

よしもとばなな『花のベッドでひるねして』を読みました。

この系統は本当に好きです。「王国」シリーズ、あるいは『ハゴロモ』からもきっちりと一本の糸でつながっている感じがじます。この小説に書かれている「ちがうことをしない」という哲学が、それこそその後に発売されたエッセイにも受け継がれているわけですが、これはやっぱり小説で読んだ方がいい。

「ちがうことをしない」というのは、いつもと同じ繰り返しをしてぬくぬく生きていくということではない。「ちがうことをしない」とわかっていても「ちがうこと」をしてしまうときはある。それは否定されない。そもそも「ちがう」かどうかは自分だけが決めるわけではない。神様、というしかないのかもしれないが、もっと大きな存在が自分という駒を悠久の時の中で動かしているとしたら、それにあらがわないということだ。その声がもしかしたら我々凡人にとってはたんなる虫の知らせだったり、直感的な判断だったりするのかもしれない。自分で自分はこうだと決めたものをただ守るということではない。決して。そこが、小説でなければ伝わらないんじゃないかという気がする。

たしかにエッセイが発売されたときにネット界隈で話題になったのだ。たぶんそれは、きわめて(インターネット上のサイレントマジョリティにとって親和性のある)保守的な生活感覚にどこか響いたのかもしれない。いつもと違うことはなるべくしない、昨日と同じ今日がおくれるようにしたい。そういう価値観。でも、実際よしもとばななが言っていることは全然違う。行きたくない飲み会に行かない自分を正当化してほしいだけの人はきっと読み過ごす。