ドラマ『あすなろ白書』を見て、始終気になったのは掛居保の「内面」だった。
掛居はドラマの序盤でとにかく人からもてまくる。ヒロインのなるみ、予備校時代からの同級生の星香、序盤では恋人の位置を占めていた地元仲間のトキエ、さらには男である松岡からも。掛居の立ち居振る舞いは、ドラマの中ではとにかくその場面や状況に応じて最も相手が喜びそうなことをもうほとんど反射的ともいえるくらいの軽さでやってのけていく。
特に最初のなるみをホストクラブに連れて行ったのを「いい男いて喜んでもらえると思ったんだけどな」となんの裏表もなく言っている(口では冗談だと言っているが、冗談で連れて行っているとは思えないところがある)のが、今でいえばサイコパスとでもいうのか、そのあたりでようやく「あ、こいつはそういうやつなんだ」というのが分かってくる(しかし、その際になるみを「ダボハゼ」と形容しているのはあまりにひどいような……)。そのあと言い訳のように「なるみの怒った顔が見たかったんだ」と言うが、どっちが本心で最初からどこまで意識していたのかまったく読めない。そういう「読めなさ」が1話ですでにふんだんに提示される。
本当に序盤はつかみどころがない人物に見えて、まるで源氏物語でも読んでいるような気分だ。人物の一貫性はどうでもよくて、場面が映えればそれでいいという、そういうドラマなのか? と一瞬疑ってしまう。それは近代的自我とは全く無縁の世界で、まあ連続ドラマの一つの「型」と言えばそういうのもあり得るのだろうと、誤解してしまう。
けれど、掛居の「内面」の存在が告白される場面が話を追っていくと登場する。
ひとつは、望まれずに生まれたという自らの出生の負い目という、たぶんに大時代的な道具立てを、まさに掛居がしっかりと受け止めてきた過去が京子との一夜の後のシークエンスでようやく明かされるところだ。寒い外でなるみが出てきてくれるのを待った後で、掛居の告白がなされる。ここで視聴者はようやく安心するのだ。掛居は、場面に応じた歌舞伎的な役割ではなくて、「奥行」を持った人物であることに。平面的に見えていたのはちゃんと意図があったのだという文法の存在に。
手首に傷のある女性に会った。
俺は彼女の話を聞きながら、昔の自分を思い出した。
手首の傷が、自分の傷のような気がしてきた。
彼女を抱いた。
彼女のことは好きなわけでも愛しているわけでもない。
だけど抱いた。
後悔している。なるみを傷つけたことを後悔している。
今までなんだってあきらめてきた。
世の中に執着するべきことなんて何もない。
心を殺して、目を閉じて、なんだってわけのわかったふりをしていればやがて時は過ぎる。それが、親に期待されないで、望まれないで生まれてきた自分の処世術だと思って来た。
しかし実際のところここですでに5話まで来ている。もちろん後から考えればトキエとの別れ(3話)の時点で、掛居の状況迎合的な、相手にすべてをゆだねるスタイルの自覚は暗示されているようにも読めるのだが、それはいったんはトキエからなるみへ、ある意味では陰から陽へと物語が動き始めた変化点として期待された。結局その後もなるみとくっついては離れするさまは、掛居の本質が何一つ変わっていないことの証左でしかない。上記に引用したせりふも、そのすぐあとに「だけどなるみはあきらめられない」と続くのだが、このモードに入るともうすでに「なるみの求めている自分」に入って行ってしまっているのではないかと、疑義が生じる。
もちろんなるみ自身もそれはわかっていて、7話の最後に挟まれるモノローグの「少なくとも私はあの一件からすっかりダメになった」は彼女のするどい正直さだろう。画面ではカップルの仲良さげな絵を見せながら、別れに向かっていくモノローグを載せていくこの演出は秀逸だ。
決定的なのは、7話で松岡に「おまえ、自分のことが好きか?」と問う場面。掛居の行動原理はようやくはっきりと明文化される。11話のドラマで7話までかけるには長すぎる「ミステリー」じゃないかとも思うが、あたかも源氏の君のように、あるいは村上春樹の主人公のように女性と関係してきた掛居の秘密が、無いと思っていた内面の葛藤というものがドラマとして立ち上がってくる。掛居よ、お前はそんなことをずっと悩んで生きてきたのか、と見ているものも7話のこの場面だけは手に汗を握る。
松岡、おまえ、自分のことが好きか?
俺は自分で自分のことがあまり好きになれないんだ。
だからそんな俺を好きだって言ってくれるやつがいると
無条件にありがたい。
出来ればその気持ちにこたえたいと思う。
それができなければ、せめてその人を喜ばせたいと思う。
この直前で松岡は「人の気持ちにこたえられないのは申し訳なくないんだよ、そんなのあたりまえなんだよ。この世がみんな相思相愛なわけないだろ。おまえのそういう優しさが鈍いナイフみたいに人の心を切るんだぞ」と(掛居のことを想っているという状況はあるとはいえ)偶然にも掛居の本質を言い当てている。それに対する答えとしては本当によく練られたセリフだ。特に二行目の「あまり好きになれないんだ」は泣かせる。「好きじゃないんだ」ではなく、「好きになれないんだ」。そこには自分を好きになろうとしてもなれない、まだあきらめられない「ため」のようなものが見え隠れする。
8話以降の社会人編は、原作にも引っ張られているのかかなりご都合主義的な展開で(新宿近辺に勤めているだけであんなに偶然会うわけがないじゃないか……)もうあまりよくわからないが、結局、京大を出て社会人になっても掛居は偶然再会した京子と好きでもないのに結婚直前まで行き、そしてまた偶然再会したなるみにもう一度戻っていく。これはハッピーエンドでもなんでもなく、掛居の魂の彷徨がまったく終わりの見えないどうどうめぐりを繰り返しているにすぎない。掛居は自分のことを好きになれたのだろうか? 否、その出自があまりに彼の性格形成において重い烙印なのだとしたら、なるみの「明るさ」もそれは救いきれず同じことを繰り返すだけではないのか。それとも物語の最後に今まで違う、掛居を救うものがなにかあったのだろうか?
ぼくはに見つけられなかった。