波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』を読みました。

まあ、正直に言おう。かなり期待外れの本でした。

ソンタグを愛読してきた者としてはやはり、気軽に読めるソンタグ論といった新書はいまだ本邦には無く、本書でもその日本における受容の在り方は問題視されてはいるのですが、そうは言ってもみすず書房からも河出書房からも(この著者も訳者として参加しているわけだし)近年精力的に刊行・再販されているわけなので、もっと現代的な意味においてソンタグを今この時代に「読む」、ということにフォーカスしてほしかった。

もちろん「against interpretation」は「反解釈」ではなく「解釈に逆らって」だし、「On photography」は「写真論」ではなく「写真について」でしかない。それくらいのカジュアルさが、たとえば日本における浅田彰的な「カッコよさ」に引きずられてタイトル付けされたのであれば、不幸としか言いようがないでしょう。

でも、一読すればわかるじゃないですか、1ページでも読めばわかるじゃないですか、ソンタグのすばらしさは。そういうことにまでしっかり言及する新書であるべきなのではないか、少なくともタイトルを『スーザン・ソンタグ』と銘打つのであれば。あるいは「新書とは何か」と自ら問うているのであれば。

あまりに「よけいな話」が多すぎました。太宰、三島、大江もいいけど、ソンタグはもっとバルトやアルトーに、サルガドに言及しているわけなので、もっと彼女の書いた言葉を忠実に読解するその現場を(著者は「文学部」の教授なのだから)もっと見せてほしい。それによって読者が「ソンタグを読んでみたい」と思わせるものにしてほしかった。

「against interpretation」にこだわるあまりソンタグそのものについて言及することを著者は始終避けていて、その避けている「スタイル」があたかもソンタグを描出すること固有の困難さででもあるかのように言うのですが、それは「伝記」的なるものについては決して避けて通れないものでしょう。その葛藤の中から見えてくるものをもっと言葉にしないといけないでしょう。もちろん「対象に忠実」なんてことが幻想であることはアカデミズムに籍を置いていなくても、読者は承知していますよ。結果として、本書の太宗はソンタグ自身ではなく、ソンタグをを題材とした中途半端な現代批評に占められてしまっています。

あるいは、本書を読み終わったとき「やはりソンタグの原著を読むしかないのだな」と読者が本棚に手を伸ばすのであれば、そこまで裏をかいたトリックが裏打ちされていたのであれば、本書も成功とも言えるのかもしれないのですが。

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