椎名要『グレンツェ〈境界〉』リリース(KDP12冊目)

起筆は2024年4月。実に、16か月を費やした。一方で原稿用紙で800枚近くを一年半程度で書き上げたというのは我ながらすごいことだと思っている。なぜなら、これを書くまでの一番長い作品は「腐臭の発火点」で、あの程度の長さでも(あれは半分以上私小説だという事情もあるが)10年はかかったので、完全にオリジナルの物語に没入して二年かからなかったというのは筆力がこの年齢になって上がってきたような気もしてきて嬉しかったりもする。

1.内容について

初めては言い過ぎかもしれないが、人が死ぬ話を書いた。これは、書いている方も、読み返して推敲をする方としても、かなり心理的負荷が高いことを感じた。物語の装置として人に死んでもらうのが小説という虚構の世界のお約束ではあるのだけれど、登場人物というのは作者にとって分身以上のなにかだ。

最初はコアとなりそうな登場人物が勝手に点在していた。ただ、冒頭にも引用した『舞踏会へ向かう三人の農夫』のように、三つ巴の形式にしたいとぼんやり構想していた。村上春樹で言えば、『世界の終わりと~』は二つの物語が最後につながるが、やっぱり三つが面白いんじゃないかと思って、最終的にはそうなるように書き進めた。

ただ内容としては自分としてこれまで何度も描いてきた自分の中の「ノルウェイの森」的なものをそろそろ最終的に総決算しなければならないだろうと思っていた。長編というのはそういう場にふさわしいのではないか、とも。

ラストシーンはかなり早い段階から浮かんでいたので、そこに至るまでの道筋をつけるのがひたすらにつらかった。教訓めいたものを醸し出すつもりはないが、単に「奇妙な話」として片づけられるわけにもいかない。意味のある偶然、こそが小説の異名だろう。そういうものとして仕上がったと思う。

2.執筆について

いつも通り、ノートに手書きしたがその原稿だけで6冊を費やした。

手書き原稿をワードに打ち込みながら推敲を重ね、最後は紙に打ち出して今回は二回読みなおしをした。通読するのにまる一日かかる。時間を測ったが、細部をよく把握している筆者ですら11時間かかった。それだけの長さのものを破綻させずに組み立てるのはかなりきついが、ここがこの小説の一番の見せ場だとは思う。

破綻はないように細心の注意は払っている。ちゃんと登場人物を全て並べた年表をエクセルで整理して執筆したので、途中で「そういえば去年こんなことが…」となっていたりいきなり一行で5年くらい時間がぶっ飛んだりするのは、それなりの苦労の痕跡ではある。しかし、最後まで難しかったのは「臨場感」。時系列を追うだけの展開になると、単なる「…した」という記述が、延々と続くことになる。それは小説ではなく単なるプロットだ。そうならないように記述を現在形にひたすら変更するのが、今回の推敲で一番苦労したところ。

3.新しい試み

広告として挿入しているA+の素材についてはGeminiを使って生成した。これは簡単なようでかなり実は難しかった。何回も没になりながらうまくAIに正しく伝えるのは至難の業だ。変えなくちゃいけないところが変わっていなかったり、指示通りの服装や画角になかなかならなかったりとコツがなかなかつかめなかったけど、たくさんの没の中から比較的まともなものを選んだつもり。正確に作中の一場面というわけではない。実は細かい設定が作中通りではなかったりもする。が、そこは雰囲気が伝わる「イメージ」として見てほしい。ただ、荒矢典子についてはかなり自分のイメージにぴったりの姿で生成されたと思う。

これはもとの画像。

もうしばらく何も書きたくない気持ちもあるが、またしばらくインプットをふらふらとして書きたい気持ちが出てきたらまたなにか書くかもしれません。

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小林秀雄全集第四巻を読みました。

横光の唱えた「純粋小説」がかまびすしい。小林もたぶん一枚噛んだのであろう「純粋小説全集」の刊行がたびたび言及されるが(このあたりの文学史的な事実確認は、けっこうちゃんと研究された方がいいんじゃないかという気がする。〇〇派とすぐにくくってしまいがちだけど、そこには世代や同人仲間の人間関係の機微が作用していたはずだし、グレーゾーンもあっただろう)、いったいどんなラインナップだったのだろうと思えばちゃんと調べてくれている人がいるのがネットのいいところだ。

古本夜話676 有光社と『純粋小説全集』

しかし小林の「現代詩について」は小林による純粋詩論みたいなもので、さんざんバカにした純粋小説論となにが違うのかやや危うい…。

あとはこの巻はアランの翻訳が全文入っています。

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ボールペン8本目

ビクーニャ瞬く間に使い切ってしまった。

ボールペン生活もこれでいったん終わりです。次からはまたさらの鉛筆、超巨大在庫消化に本格的に移ります。たぶん定年までかかると思いますが、気長に付き合ってください。

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ボールペン7本目

これはむかしむかし浜松に出張に行ったときになぜか新幹線でもらったボールペン。今回も使い切るのは早かった…。

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加齢すら飲み込んでエネルギーに変えていくMr.Children『miss you』

三十代は、正直なところ音楽自体をあまり聞かなかった。仕事が忙しかったというのもあるし、子供も産まれて、イヤホンを耳に突っ込んで一人の世界に浸っていられるような状況が許されないというのもあった。会社の行き帰りも、なんか英語のリスニングだったりやらないとTOEICの規定の点数も気になって音楽どころではなかった。平凡なサラリーマンの三十代というのは大抵そんなもんだろう。

少し風向きが変わったのがコロナの時で、25周年のライブがまるまるYouTubeで公開されていて、自由に外に出られない中で数少ないエンタメとして楽しませてもらった。同じ時期にB’zもスタジオライブのようなものを公開していて、これも良かった。もっというと桜井アンド稲葉の対談も良かった。

今だから言えるが、コロナというのは(演劇の人も大変だったと思うけど)不要不急の産業に身を置く人にとって、自分の存在意義を問い直すのに、結構シビアな経緯だったとは言えかなりの時間とチャンスを与えた。そもそも、人と人が直接コミュニケーションすることが、人が死ぬことのきっかけになるなんて、人類規模に対する、大した挑戦だったと思う。たとえるなら、性欲によって種の存続をプログラムされている我々人類が(cf.「ジェラシー」)、性欲を否定されたところで子供を持ちたいと「純粋に」思うかどうか。同じように、コミュニケーションを犠牲にしてでも我々は生き続けたいと思うかどうか。もちろん、勝敗は明確ではし、個々の現場では敗北こそが望まれた結末となる場合もあるだろう。夢の世界の芸能人ですら現実に死んでいくニュースを見るたびにギョッとしたのは、コミュニケーションをあきらめきれない人類の一端が、サンプルとして垣間見えたからだ。もちろん、仮にぼくたちにそれを笑ったり悲しんだりする自由があったとしても、誰もいない密室においてだけの話だろう。

そうして我々はこれをとりあえずは、しのいだ。

いま、2025年のゴールデンウィーク中に公開されていた最新アルバム『miss you』の大阪公演を聴いていて、やはりかつての(まさにポカリスエットのCMに似合うような、innocent worldはアクエリアスのタイアップであったが…)高音の伸びは期待できない。楽器演奏と違ってボーカルという肉体労働は年齢を重ねると変化していくことは避けられない。しかしそれは、いまあえて「変化」という言葉を使ったが、劣化や老化とは違うものと捉えていきたい。入不二哲学で言うなら「変容」であり、それは何かが欠けるのではなく、トータルのあり方が、パーフェクトのあり方が変わったというだけのことなのだ。

ネット記事を読むと『miss you』は随分と評判の悪いアルバムだ。それまでの青春や恋愛や、それを超えていく普遍的な愛の概念を高らかに歌い上げてきた三十年は見当たらない。どちらかといえば、混迷の中にあった『深海』『BOLERO』の手法を自家薬籠中のものにしたうえで、あえて言ってみれば中高年の歌に仕上がっている。しかし、この中高年は衰えた体力を120%使ってかつてのパフォーマンスの再現を目指しているわけでは「ない」。ぼくにとっては少し年齢的に前を行く彼らのそういう姿は救いと言っていい。

この期に及んでまだ新しいことを試みようとしている。そんな中高年がこの国のポップスの世界にいるのだ。これが今の、これからの、Mr.Childrenなのだ。キャッチーさは後退した。しかし、聴かせる。相手を選んでいる。人生を積み重ねてくると、もう一度、孤独を愛する季節にたどり着いてしまうのだろうか。それは、ノスタルジーではない。Mr.Childrenがノスタルジーを肯定したことは一切ない。

「Fifty’s map」は文字通り尾崎豊を乗り越えようとする(若い頃の憧れた早世を。馬齢を重ねることの価値転換を)。十五歳が未来に逃げることを禁じたように、大人にはもはや先のないなかで過去に逃げることを禁ずる。もうきらめく未来の可能性はない。何歳からでも遅くない、と諭す声こそが都合の良い現実無視のトリックだ(そういうやつこそが金を取ろうとする)。そんな声には耳を傾けない。でも、過去の栄光──そんなものが仮にあるとして──にすがらない。それだけで良いのでは。それこそが、桜井の描くおとなの姿なのでは。

「アート 神の見えざる手」はむしろ乗り越えようと企んでいること自体をまたもう一度のりこえようとしている、茶化すという大人のやり方で。なんちゃって、こんなやつも今の世の中にはいるよね、というあとがきを匂わせるにとどめておいて。

個人的には小谷美紗子とのコラボレーションが嬉しい。2人は同じことを歌っているようでいて、Mr.Childrenはどちらかといえば抽象から具体化していく方向。高尚なところからいかに日常に飛び降りるかが腕の見せどころ。小谷美紗子は逆に徹底的に日常から出発する。日常の中に必ず非日常のするどさを見つけ出す、それはもう怖いくらいに。血の滴るナイフのようなするどさを、見逃さない。この2つが重なり合ったのだ。それはもう、最強としか言いようがない。小谷美紗子のピアノが、Mr.Childrenのアルバムから聞こえてくるなんて、それこそ今日まで生きてきてよかった、である。

その曲「おはよう」の食卓にはビールとチーズが並ぶ。簡単な夕食だ。かつて、「近頃じゃ夕食の話題でさえ仕事によごされて」いたそこには、今どんな話題がのぼっているのだろうか。

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ボールペン6本目

え、こんなはやく無くなるもんなのか。

このボールペンはまだぼくが営業にいた頃に、客先訪問のため出張して駅に着いたと思ったら、筆記用具を全部会社に置いて来てしまったことに気が付いてキオスクで買った思い出深い?一本です。

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小林秀雄全集第三巻を読みました。

「文章鑑賞の精神と方法」がすばらしい。こんな平易な表現で、アタリマエのことを言っているし、誰が読んでもわかる内容なんだけど、これができている人のなんと少ないことか。もちろん自戒をこめて。文章を読むとは、他人の中に飛び込むこと。自分の頑なな、狭隘な世界に他人を呼び込むことでは決してない。

有名な「私小説論」も改めて面白い。基本は、日本における私小説論とは純粋小説論だったところから始まる。久米の、西洋の大小説もしょせんは偉大なる通俗小説であるという見解から始まる。登場人物を動かす作者という構図が、当時の作家にとっては作為的=不純なものと見なされていた、ということだ。私小説作家にとっての小説は、文学史的ないわゆる小説とは違うものだたったと言わざるを得ない。彼らは皆それぞれの夢を見たのだ。実体のない、小説のあるがままというものに対して。夢であり、理想であり、あこがれだった。だからこそ誰にも共有されなかった。

後半は、文芸誌や新聞小説といった日本の発表形式が優れた長編小説を可能にしていないという制度論もちらほら。これは三島も村上も言っていたこと。しかし、小林は日本の伝統においては短編小説の方が気質に合っているのではないか、とも。その共犯関係は今でも続いているのだろうか。しかし、現代の速筆は単にパソコンを操るのが得意なだけだったりしないか。ましてやAIに記述させた長編小説の価値やいかに。

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ボールペン5本目

一ヶ月くらいで完走。しかし普通のボールペンってこんなにしか持たないものなのか。鉛筆1本の方がよほど長持ちするもんなんだな。

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ボールペン4本目

インクはまだあるのですが、いかんせん何年も前のボールペンのためかすれて使い物にならなくなりました。油性インクは時間が経つと変質して硬くなっちゃうんですかね。

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