小川洋子『貴婦人Aの蘇生』を読みました。

これもまた、何度でも言おう……アナスタシアはディズニーじゃないぞ!

自分がアナスタシアだと言う伯母さんの、晩年の物語。それだけと言えばそれだけの話なのですが、なんとなく設定に終始してモチーフを使い切っていないような感じがしました。主人公の恋人である「ニコ」の神経症もイマイチ何なのかよくわからなかった。

そもそもこの「ニコ」というあだ名もたまたまにせよ「ニコライ」のもじりなんだろうか? と常に頭の片隅でもやもやがありつつ、編集者の「オハラ」が小原ではなく常にカタカナ表記なのも、なにかロシア語のもじりがあるのだろうかと頭を巡らせてみたけど思いつかなかった。

この伯母さんは声高に自分がアナスタシアだと言い張るのではなく、それが当たり前だという前提で暮らしている。周りの人間の「だまされたい!」という熱い思いが空回りして、いつしか伯母さんの周囲は嘘を本当で言いくるめる独得の雰囲気を醸し出すようになってしまい、その中で伯母さんは逝ってしまう。もちろん彼女が本当にアナスタシアだったかどうかはわからないし、そんなことは小説にとってどうでもいいことだ。

アナスタシア伝説はたぶん、巻末の参考文献を読んでみるともっと面白いなんじゃないかと思います。アナスタシアがどうこうというよりも、生きていてほしいと願わずにはいられない人々の思いだけは真実なのだと思っています。

もう一匹いた!

これは名前を「ヴェロキラプトル」というらしい。まったくおぼえられない。子供氏によれば最近子供たちの間で大はやりの「最強王」にも載っているらしい。それにしてもこのヴェロなんとかのブロックはシリーズの中でも最もお勧めしない。とにかく1ノッチでぶらさげてもすぐに外れるっての!(写真は腕部分を外れにくいようにやや改編しています) そして可動部が多いのが売りなのだけれど、すぐにポロポロと部品が取れてしまう。そもそもこのシリーズは動かして遊ぶことを想定しているわりには篏合が緩いので、やっぱり組み立てた後はそーっと本棚に飾っておくのがおすすめです。

ついでに思い出したので全然違う話なのだけれど、ぼくが子供のころはとにかく大きい恐竜にあこがれたもので、ブロントサウルスなんかが人気でしたが、子供氏に聞いてもブロントサウルスを知らない。なんでかと思って調べてみると、どうもここ何年かの間でアパトサウルスと同類であることが分かってブロントサウルスという呼称が無くなったのだそうだ(もっと言うと、いやじつはブロントサウルスはやっぱり別種であるという復活説も最近はまた出てきたらしい)。そういうのもいまの恐竜の本にはちゃんと反映しているあたりは感心してしまった。

なお、大型恐竜でDAISOシリーズにラインナップされているのは「ブラキオサウルス」でこれは今も健在。

いやほんと、恐竜ってロマンがあるよね。

小川洋子『やさしい訴え』を読みました。

ええと、これは非常になんと言うかトレンディーな不倫ものでした。そのまま二時間ドラマで映像化できるんじゃないかってくらい、ある意味で通俗的な物語です(もちろんそれがこの作家の振れ幅の面白いところで、ベストセラーの博士のナンチャラも道具立てとしてものすごく通俗的ですよね。一方で芥川賞をとる短編も次々と書く、と。)。

主人公は、夫に不倫をはたらかれている主婦。カリグラフィーを仕事にしているが、ある夜夫に嫌気がさして親の持つ別荘に避難。その別荘の近くに工房を構えるチェンバロ作家の新田という男と、その助手の薫と知り合い、この三人をめぐる三角関係がメロドラマのように展開されます。新田と関係しながらも結局は薫との絆に打ち勝てず、主人公は夫との離婚を選び取り、またカリグラフィーの業務拡大に自らを参加させていくわけなんですが、まあ1996年の作品とはいえ今ではフェミニズム的観点からしてもあまり受けない内容でしょう。女の自立……みたいな。

後半でようやくチェンバロに彫り込むネームプレートを主人公がカリグラフィーでデザインするという展開が出てくるのですが、もっとこの小説世界においてカリグラフィーというものが持つ意味合いというのを面白く展開してもよかったんじゃないかと思います。好きな男の名前を何度も書くことの狂気とか。あるいは主人公が写本している自叙伝も、内容ばかりが伝えられますが、あくまで本人がやっているのは文字を写すことだけなのでそんなに話の内容に立ち入っていいのだろうか? ということへの懐疑性というか、カリグラフィーという仕事に対する「なぜこれが金になるのか?」ということにもっと言及していいんじゃないかと思った。

なぜか始終読んでいて新田氏がローランドにキャスティングされて脳内再生された。なんかそういうつかみどころのなさが気になった。主人公も、夫を恨んでいるはずなのに新田の眼鏡が壊れると「夫のコネでよい眼鏡を作れる」とか突然言い出すのもなんかこう共感できない脇の甘さもあり、そもそも新田に対してズケズケ行ってしまうところもちょっとついていけなかった。加えて薫の変な慎み深さもわかるにはわかるけど、もっと主人公に怒れよ! 男取られてんぞ! というもどかしさが……恋人を殺されたという設定もよくわからないし、なんか人物がどれもつかみどころが無く、その辺がトレンディーに流れてしまった感じがしました。

あと最後の16章目はまるまる蛇足なんじゃないか? 書くにしてもプロローグに持ってきた方がいいんじゃないか。15章ですっきり終わってもよかったし、あるいは最後の最後にチェンバロを新田が弾こうとしているというシーンにして終わってもよかったんじゃないか。薫がたくさん曲を弾くのも「ノルウェイの森」のラストシーンに似ていてやや既視感がありました。

小川洋子『妊娠カレンダー』を読みました。

芥川賞受賞作を含む3つの短編が入っていますが、いずれも一言で言って、「生理的」な作品集。これは女性のそれではなくて、「生理的に無理」と言うときの「生理的」です。つまり、言葉では説明できない非論理的な因果関係(これ自体が語義矛盾ですが……)であり、身体の本能的な訴えが、いずれもテーマになっています。

もちろんそんなものを「言葉」で構築していることに本当に驚くばかりで、妊娠カレンダーの「毒の盛られたジャム」もそれは最初は言葉でしかないのです。本当に毒が成分として検出されるような、そういうミステリーではない。環境保護団体の主張する輸入グレープフルーツの防腐剤の危険性を耳にしてしまったことと、職場で偶然に廃棄されるグレープフルーツをもらいうけたところから、言葉は現実を侵食し始める。グレープフルーツのジャムを作り、妊娠した姉がそれをおいしそうに食べる。そこに、もしかしたら自分は毒を盛っているのではないかという架空のおとぎ話になってくる。しかし毒は目に見えない。「ないこと」は証明できない。もしかしたら本当に自分は毒を盛ってしまっているかもしれない。このむずがゆさが本当に「生理的」だ。

「ドミトリイ」がとにかく素晴らしい。久しぶりに読んでいてうならせられる短編小説だ。最後の「オチ」はなんとなく想像できたけれど、もしかしたら失踪した学生が天井で死体になっているんじゃないかと「想像」させられる天井の「しみ」が本作では「ジャムの毒」の位置を占める。「先生」に聞かされた失踪学生の話=言葉が、なんの関係もない天井の「しみ」と結びついて主人公をおののかせる。この根拠のない恐怖感が非常に「生理的」だ。「しみ」という正体の分からない、なにかしめったもの、という感じが五感に訴えてくる。この短編は、入寮した「いとこ」がそれまでの不安を払しょくするかの如くハンドボールに精を出して、後半は全く主人公と会えない/会わない、この不在性もまた非常に気味が悪い。夫も遠い外国にいる。もっと言ってしまえば、「先生」の身体的特徴もまた、その原因は全く説明されず、「不在」が最初から当たり前であるかのような道具立てになっているのも憎い。もちろん原因なんて説明して納得することに何の意味もないことは作者は百も承知だ。

小川洋子『ブラフマンの埋葬』を読みました。

ブラフマンは主人公の飼うことになった犬の名前。なのでもうタイトルがそのまま小説のネタバレになっている。ブラフマンが死ぬまでの話です。

「ブラフマン」という言葉自体は作中ではサンスクリット語で「謎」と解説されていますが、一般的には(高校の倫理の授業でやった懐かしの)いわゆるウパニシャッド哲学で言う「梵我一如」の対になっている宇宙の方。アートマン=個人とブラフマン=宇宙が同一であるという考え方ですね。

だとすれば、犬のブラフマンがこの小説で為したことは宇宙の原理と言っていいでしょう。一人称小説なのでなかなか気づきにくいですが、主人公は本当にしょうもない人物です。びくびくとして好きな女の子にも声をかけられない。こそこそと犬を飼って、おばあさんに怒られないか立場を越えて恐れている。そんな主人公が、おそらくは恋人の男と別れた件の女の子から誘いを受けてひょこひょことついていくばかりか、車の中で別れた男のかつての逢引の現場について言及しようとするそのとんでもない愚かさ! それを戒めようと犬は死んだとしか読めなかった……。

この女の子も取り立てて魅力的でないところがまた救いがない。自分が轢いた犬の葬式にも出席しない。犬を埋葬した時、「ぼく」はどんな思いだったのだろうか。そこについては全く語られていない。この小説は、ひと夏の動物とのハートフルな触れ合いを描いたものではない。犬の死を涙を流して悼むようなそんな小説ではない。主人公の愚かさを、大いなる宇宙の原理が異界の犬を通じて戒めようとするとんでもないストーリーなのだ。

だからこそ本作は泉鏡花文学賞を受賞したのでしょう。

小川洋子『密やかな結晶』を読みました。

講談社文庫で400ページのちょっとした長編ですが、読みやすく長さを全く感じさせない作品でした。小川洋子は一貫して(と言うと言いすぎかもしれませんが)記憶をテーマにした作品を書き続けています。1994年に単行本が刊行された作品なのでキャリアの中で最初期です。だからなのか、長編としての密度は正直言うとあまりなく(読みやすさとは別の話として)、エピソードは重ねられるもののいまいち話についていけない部分もややありました。

まずそもそも主人公の小説家と編集者のR氏のひかれあう根拠がいまいちつかめない。R氏に至っては奥さんもいるうえに、子供が産まれるタイミング。それなのに担当している若い女の小説家の家にかくまってもらうっていうことへの葛藤もないし、なんとなく主人公に対するボディータッチも激しいし、なんだこの男? という感触。主人公側にしても奥さんに対して、R氏の無事を定期的に報告するのだけど、「こんな私にかくまわれて奥さんは私たちのことを疑ったりしないのだろうか?」という葛藤もない。そのあたりが、そういう物語だから、と言われてしまえばそうなのかもしれないけれど、たとえばこの編集者が家庭よりも小説を編集することに偏執狂的な人物であるとか、主人公側も実は密かに思いを寄せていてこのチャンスに不倫をはたらいてやろうと思っていた……みたいな奥行きがあればもっとも面白かったのではないか。

作品内世界をさらに舞台上の舞台のようにして、主人公が書く小説も挿入されるのですがやや屋上屋を重ねるような感じがします。そもそも作品内世界が現実ではありえない世界になっているので。だから、たとえば「声」をもっと前面にテーマとして出していくとか(想起させるのは、『はちみつとクローバー』で真山がつぶやく「声っていつまで覚えていられるんだろう」という、あれは何気ない一言のようでいてとんでもない決意を秘めたセリフなんだと思う)、あるいは母親の託した彫刻にもっとミステリー的な要素を込めておくとか、そういう書かれ方もこの小説はありえたのではないか。

そんな感想です。

惣領冬実『チェーザレ』第13巻を読みました。

何度でも言おう、コンクラーベは根くらべ……。

12巻まで読んで、新刊がなかなか出ないのですっかり忘れていたのですがおよそ1年前に13巻で完結していました。あとがきの監修者解説によるとボルジアを選出した際のコンクラーベの詳細は資料を基にしても「藪の中」のようなのですが、これをクライマックスに持っていくのだとしてもひとつの仮説として「根競べ」の様子がよく漫画で表現されているのではないでしょうか(細かいことはぼくもよくわかりませんが……)。

『成井豊のワークショップ 感情解放のためのレッスン』を読みました。

キャラメルボックスは、ぼくが高校生の時によくMXTVで公演の放送をやっていて(たしかキャラメルボックスTVという番組でした)、その後の出演者のトークも含めてよく見ていました。大学に入って劇団やっている人たちがよく「キャラボが~」とか言っているのを聞いて、ようやく「あっ、けっこう有名な劇団だったんだ」というのに気が付くというのがぼくの貧しいながらの思い出だったりします。コロナの後、活動休止となったときはびっくりしたものでしたがその後活動再開されたようですね。

本書はもう何回読み返したかわからないのですが、もちろんぼくが役者になりたいということではなくて、特に大学に入ったときや会社に入ったとき、なんにも知らない人間関係の中に入っていくときの心得的なものとしてこれにすがっていたところがあります。

結局のところ、人間関係があるところは舞台と言っていいのだと思っています。友達と遊ぶのだって、会社で会議の司会をやるのだって、結局はキャラを生きることになる。けれど、それを最も前向きにとらえていくとしたら、やはりこの本で紹介されているメソッドによる感情解放が大切になってくるのだと思います。曰く、演技しない演技。

それはキャラを即席で作るということではない。一回だけの邂逅だったらそれは機能するかもしれない。でも、ぼくたちは学校だって会社だって、生活のほとんどの時間をそこで過ごすわけなので、四六時中自分とは違うキャラを演じ続ける(そういう自分を自分で監視し続ける)のは不可能。

その時、本書で言う「ニュートラルな自分」をしっかりと軸に据えて変身を華麗にしていく、その軽やかさこそがぼくのような人間嫌いがある役割を負った社会人としてやっていく上では必要なことなのだと考えていました。その意味で、役者志望でなくとも、よりよく生きるという意味においてもあらゆる人に通用する成井さんの考え方なのだと信じています。

堀江敏幸『彼女のいる背表紙』を読みました。

まさかのマガハ。というのも、婦人雑誌(という言い方が良いのかわからないのですが)「クロワッサン」に連載されていた一種のテーマ書評をまとめたものなのです。

よく夏目漱石の作品がそもそも朝日新聞の連載小説だったということを受けて明治の新聞読者の教養の高さみたいなことに驚いて見せる風潮がありましたが、本書もどんなかたちで雑誌の紙面を飾っていたのか非常に気になるところ。

女性誌ということもあって様々な小説に出てくる創作上の女性を経巡る、というのがテーマになっています。といってもそれこそ『虞美人草』の藤尾級の重要人物は現れず、あくまでも著者のこれまでの読書体験に基づくものなので、ある意味で非常に偏ったマニアックさがおもしろい。はっきり言ってクロワッサン読者のみならず一般的な読書人でもほとんど触れたことのない作品ばかりが次から次へと出てきますが、堀江敏幸の筆になると飽き飽きすることは全くなく、その未知なる作品の一つ一つに読んでいるこちらが触れてみたくなるような仕掛けに満ちています。

日本の作品も所々出てきますが、葛原妙子、網野菊、佐多稲子あたりはまだよいとしてもそれ以外の人々はおそらく大文字の文学史に埋もれていってしまいがちな陰の立役者たちばかりで、(国文学を専攻していたぼくですら、というとバカがばれてしまうのですが)著作もなかなか目にする機会がありません。アマゾンで検索しても青空文庫すら引っかからず、それこそブックオフではなく「古書店」を探訪しないと謦咳に接することも難しい。ましてや著者の得意とするフランス文学となるとお手上げです(パヴェーゼのすばらしさはあらためて確認できましたが)。

繰り返しになりますが、それでも、彼女たちの魅力は十分に伝わってくるのです。単なる書評ではない、しかし堀江敏幸の書評というのは必ず読者を次の、新しい読書体験にいざなってくれる力を持っているのは間違いないのでここでとどまってもよいし、長い人生の中でどこかでぼく自身も邂逅するときを楽しみにしながら一冊でも邦訳を探し求める旅に出るのもまた、「読書人」の豊かな楽しみであったりするのです。