静音マウスは壊れやすい

ロジクールのM331を使っていたのですが、またボタンが効かなくなってしまった。買ってすぐに同じ症状になって無償交換してもらってから2年経つのですが、その代替品もだめになりました。一応サポートデスクに連絡してみましたが、さすがに保証期間は最初に買ったタイミングから2年間ということでした。

同じロジクールでもカチカチうるさいほうはもう5年くらい使っているのですがまったく壊れる気色なし。

やはり、静音用に作られたスイッチはすぐに接点がだめになるということなんでしょうね。なんとかしたいが押してるのに押しているのかどうかがわからないというストレスが半端ないのでもうあきらめます。ロジクールの静音マウスはおすすめしません。

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安部公房を立て続けに三冊読んでいた。

世間は村上春樹の新作で話題が持ちきりのようだが、ぼくは安部公房を立て続けに三冊読んでいた。『壁』『砂の女』『カンガルー・ノート』。

これらを最初に読んだのは二十年ほど前、二十歳前後のときだ。そのときは、こんな面白い作家がいるなんて! と思って、このまま読み進めてしまうと新潮文庫を全部買い終わるまでページをめくる手が止まらなくなってしまう、したがってカンガルー・ノートまで読んだらいったん打ち切りだ! と、いらぬお金の心配までして(いや、実際切実だったのだ)その読書欲を抑え込んだ記憶がある。

しかし、なんだ、いま読み返してみて、ちょっとしんどい。大人になってから寓話を読まされるのははっきり言ってかなりしんどい。同じような意味で、ぼくは伊坂幸太郎がまったく受け付けない。オーデュボンの祈りの最初数ページを読んで「かかし」が出てきたあたりでこれはもうダメだ、と思って以来一冊も読んでいない。

『壁』? ああ、なんか名前の方が実体にすり替わってしまう、現代の「自己証明」のありかたにメスを入れた代表作ね。名刺に会社と肩書があるからこそ成立する雇われ人としての自己定義。あるいは、マイナンバーカードが無ければ自分が誰だか国家に証明できないディストピアを戦後間もない時期に既に言い当てているすごさ。そして「壁」のメタファーは村上春樹にも引き継がれているのではないか…。

『砂の女』? ああ、フェミニズム的にはいま読むとかなり問題だけど、現代人は結局みんな砂地獄におちいっているようなもんで、例えば会社のヒエラルキーや官僚組織に自分が取り込まれることでしかぼくたちはもはや生きていけない。「外部に欲望するな!」みたいな生き方の指南なんですかね。でもやっぱり、そこにたまたまいた女と都合よく懸想しちゃうのは時代の限界なのかなあ。

『カンガルー・ノート』? ああ、作者も死を意識したところで書いていたためにその死生観が反映された最後の長編だね。「オタスケ、オタスケ…」の呼び声はどこか、笙野頼子の『タイムスリップ・コンビナート』に出てくるマグロの「イラッシャイヨ…」に通ずる、異界の入り口にいざなう「境界」の文学的現象として意義深いよね。まさに三途の川のような、水、あるいは海のイメージが生死のあいだには必ず登場するらしい…。

なんて、そんなことをいちいち考えるのがもううすっぺらくて、嫌になったんですよ。安部公房の小説がどうとかいうわけではなくて、寓話を読んでいると裏読みをひたすら別の頭がひたすら考えながら「作者の寓意にだまされてたまるか! おれはすごい読者なんだ。おまえなんかに絶対だまされないぞ!」と勝負を挑まされるようなスタンスに、どうしても頭が(体が)臨戦態勢になってしまう。

伊坂もそうだが、これは平野啓一郎を読むときも同じで、あの人のあまりに器用な「詐術」にからめとられないように最大限意識を研ぎ澄ましていつも作品に接する。「バベルのコンピューター」事件を想起するに、平野というのはデビュー当時からひたすら手先の器用さを武器にしていて、昨今の「大衆小説」路線も映画化などで経済的にも大変な成功ぶりだ。しかしどうしても「これで本当に平野を読んだことになるのだろうか?」という意識が付きまとう。「バカな読者どもめ!」と舌を出している氏のしたり顔が浮かぶ。それで、ある時期から平野啓一郎は全く読まなくなったし読み返すことも無くなった。我々の世代のスーパースターではあったのだが。

閑話休題、安部公房の寓話もいまとなっては読んでいてただ疲れる。自分の読書体力が減ったというのもあるし、読んで「こういう意味があるんじゃないか?」とああじゃこうじゃ謎解きをするのが楽しかった若い時期というのはもうすでに過ぎてしまった。もう一冊文庫本を買ってきて(今なら文庫本をそろえるくらいの金銭的な余裕はあるのだが)読もうという気にもならない。

ということで、今回の読書記録は「感想」すら書くのもおっくうなのでここで打ち止めとする。

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まもなく、小説の新人賞というシステムは崩壊する。

まもなく、小説の新人賞というシステムは崩壊する。なぜなら、ひとすくいの砂金を手に入れるために4トンダンプ10台分の泥をさらっているわけにはいかなくなるからだ。いや、もちろん新人賞の受賞作が原稿用紙100枚分の短編であったとしても、一冊1万円で売れるというのであれば別だろうが、今ですらすべての新人賞作品が単行本化するわけではない中で、人が書いたかどうかもわからない「作品」を下読みがさばいていくのは、不可能になる。

それでいいのだ。それで、よいではないか。

「面白い読み物」は人工知能に任せて、メディアミックスするでもなんでもよいではないか。その時、作者なんてややこしいものがあるとかえって「原作を意図せず改編された」とかなんとかまた訴訟リスクを抱え込むことになる。企業が物語を売っている以上、それは次第に公共のものになっていくだろう。ついに、小説もオープンソースの時代だ。でも、多くの作家は、エディタで数式やプログラミング言語を打ち込むようにしてすでに小説を書いているのだろう。

人工知能にできないことを人間がやるとしたら、それはもはや思い出を語ることにしか帰結しない。人工知能は体験を持たない。フィジカルAIたるロボットは、記憶を持つかもしれないがそこにはある価値基準をもとにした重層性というものは生まれないだろう。たんに、トライアル&エラーを繰り返す中で、エラーを徹底的にゼロにしていくことがロボットに求められていることだからだ。ロボットが時々風邪をひいて体調を崩したり、同じ作業の繰り返しでメンタルをやられてしまうことがあってはならない。それを防ぐためのロボットなのだから、調子が悪ければ同型の別の個体に置き換えられるだけで、

スピルバーグのそれこそ「A.I.」という映画が20年くらい前にあった。ぼくは大学一年生の夏で、女の子を誘ってそれを見に行った。ひたすら長くて退屈な映画だった。あの主人公の少年は、死んだ息子をかたどって作られたものだが、両親はそれを見ていろいろと感情を揺さぶられる。 揺さぶるようにプログラムされているのが人工知能だ。こうすれば人は悲しむ、こうすれば人は喜ぶ、それだけのことだ。そしてそれだけのことを「物語」に託すことに関しては、もはや人間はかなわないだろう。人の感情を動かすだけのソースコードを誰が書こうが、作者のことなどどうでもいいではないか。

それでも人は人が書いた物語を読みたいのだろうか?
人は、機械が描いた物語に感動することを恥ずかしいことと感ずるのだろうか?

わからない。でも、たぶんその手の羞恥心はいつか無くなる。あるいは、出版社側が無くすように作家を覆面にしてサイン会も何もやらなくなるだろう。逆に言えば、人がわざわざ書いた物語をわざわざ紙に印刷して本の形にして読む、ということはとんでもなくスノビッシュなある意味で特権階級にしか許されないサロン的な娯楽として囲われていくに違いない。街の本屋はつぶれていくだろう。それでいいではないか。あなたがさんざん馬鹿にしていた週刊誌のゴシップ記事や、それこそ誰が書いたのなんてどうでもいいポルノ小説、写っている裸が誰のだったかなんてすぐに忘れ去られるグラビア……そういったものが奪っていた時間を、別のなにかが埋めてくれているのだ。

人が書いた小説なんてもう、青空文庫だけでたくさんじゃないか!

柄谷行人が言うように近代文学は死んだかもしれないが、文学というものは小説とは別の形によって脈々と受け継がれている。ぼくはそれを確信しているので、本屋がつぶれたり本が売れないと嘆いている人たち(しかし新刊書店に行って、「おお、これは読みたい!」と思える本に出会うことが本当になくなった。それはだれの責任なの?)の気持ちはわかるようでわからない。近代文学が死んで、ゴシップ記事はYahoo!ニュースに置き換わって、あとなにをすればいいのだろう? 少部数出版のお高い自費出版本を細々と売って糊口をしのいでいく、あるいはインフルエンサーの「つぶやき」を1000パーセントくらいに薄めて300ページの単行本いっちょあがり、それを毎日初版5000部を売り切って、そんな毎日をちがうインフルエンサーがとっかえひっかえしてく。これもある意味でサロン的だ。大衆出版(という言葉があるかどうかわからないけど)は、役目を終えたのだ。人工知能は最後のとどめを刺したに過ぎない。

閑話休題。ぼくはいま自叙伝を書き進めている。村上春樹の小説の主人公たちがよく口にする「それ、あなたが自叙伝を書くときに使えるわよ」というネタやフレーズを書き溜めている。これは、人工知能に対する抵抗になるのだろうか。いや、抵抗ではない。住み分けだ。名もない中年の自叙伝を読む人がいるのだろうか。逆説的だが、もし人々がよくできた物語に食傷した時、はじめて人間の書いたものに価値が生まれるとしたら、それはやはり経験や体験を記述したものでしかないだろう。ロボットは記憶を「思い出」という形で想起することはない。「思い出」はデータではない。

でも、実はアマゾンの倉庫で仕分けをひたすらしているロボットの自叙伝を読んでみたい気持ちも、ぼくは実はひしひしと感じている。それは新しい奴隷物語だ。人間にはとても書けない、誰も思いつかなかった、まったく新しい文体がそこにあるような気がする。それがこの世に出てくるまでの少ない残り時間を使って、ぼくはまだ自分が人間であることを証明し続けていきたい。

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鉛筆22本目

ぼくが小学生のときって、サッカー全盛だったんですよね。ちょうどJリーグが始まったころで。サッカーキャラの鉛筆など、それで持っていたのかもしれません。持っていたことはよく覚えているんです。それで勉強していましたからね。本当に、勉強だけしていればよかったころの幸福というのは、もう戻れないだけにいっそう懐かしいものです。英語の勉強と称して毎日伊藤和夫の英語長文読解教室をゆっくり読み進めるのも、この頃のぼくには必要な一人の時間です。

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校正こそAIにやらせよう!

小説を書くことにおいて、AIをどう使っていくかは実際に創作をする当事者にとってはなかなか難しい問題です。ぼく自身は単に、趣味の日曜作家なので、自分で書くことを一番大事にしています。良いプロンプトが書けるのであれば、小説のあらすじをあらかじめAIと対話して作り上げていくこともできるのでしょう。けれど、それは日曜作家からすると、純粋に「書く」ことの楽しみの半分以上を明け渡しているようにも思えます。

つまり、あらすじを作り込んでから書く小説というのは単に「作業」でしかなくて、それこそAIにやらせればよいようなことなのです。たとえば文章力はなくても、おもしろい設定やあらすじを思いつくことが得意な人であれば、自分のアイデアをAIに読み込ませてプロットから長編小説を生み出すことも可能でしょう。それは、その人の得意分野を形にする大きな武器としてAIが活躍する場面と言えます。

けれど、壁打ちも作文もAIと一緒にやることにどれほどの意味があるのか。そこにはぼくはあまり、というかほとんど興味はありません。むしろ、AIが出してきたプロットがもし面白いもので、それに飛びついてしまったりしたら、いったいそれは作者の著作と言えるのだろうか? と、不安になってしまいます。仕事ではないからこそ、自分ですべてを生み出すことが大事なのです。

一方で、日曜作家的創作にも「作業」と言える部分があります。それが校正です。もちろんワープロソフトにも校正の機能はあるのですが、あらかじめ「正しい」とされている表記や表現をワープロソフト側が辞書として持っていて、それと照合しているだけなので、誤字や表記ゆれは割と拾えるのですが、脱字が意外と拾えていないです。つまり、脱字していてもそういう表現が日本語として文脈関係なく存在していればエラーにならないわけです。

そういうとき、AIにファイルを食わせて校正をさせると、ほんとうに気が付かなかったところまでしっかりと拾ってくれます。ぼく自身はこれまで書きあがってから多いときでも赤ペン持って4回くらいは読みなおすのですが、それでも人間の集中力には限界があって何回やっても誤字脱字というのはなくなりません。正直、これはほとんどクリエイティブな営みではないので途中で嫌になります。

AIは、前後の文脈もかんがみて修正案を提示してくれるので、まさに「添削」に近い面もあります。わざと自分でそういう表現にしている部分は無視すればよいわけです。こういうのは、ワードの画面で波線のついた箇所を頭からお尻まで画面上でチェックしていくよりよっぽど楽ですし、精度も良いです。ということで、最近は校正マシーンとしてGeminiも使いながら原稿の完成度を高めていくことをやっています。

こういうのは、手書きからワープロに変わったときと同じくらいの、書き手としては革命的な転換なのではないかと思います。いつか、公募新人賞の応募作がAI生成に埋め尽くされても、自分だけは自分の領域を守りながら、そしてそれを守るためにAIを「便利な奴隷」として使いこなしていくことを心掛けたいなあと思っている今日この頃です。

ちなみにこのエントリーも誤字チェックしてもらって直しました。wordpressに誤字チェックAI機能があると良いのですが……、探せばありそうな気もしますね。

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解題:椎名要『こたえあわせ』(KDP14冊目リリース!)

14冊目のKindle Direct Publishingです。無事にリリースいたしました。

今回は、ぼく自身の「裁判員」体験をもとに小説を書きました。タイトルは「こたえあわせ」

こたえあわせ

実際に裁判員を経験してみて、別に司法制度自体を高見から批判したいという思いは全然、本当にありません。ただあそこで行われていることも制度の中にある以上は一定の箱庭の中での出来事でしかないし、「真実」なるものを仮定してそれをすべて明らかにするということが法廷の目的ではないということだけは痛感しました。

もし、この世に正義があるとしたら、それはどこにだってあるのでしょう。被告人のなかにも、被害者の中にも、検察の中にも、弁護人の中にもあります。それぞれの正義をある時間的な制約の中で「調整」するのが裁判官の役割なのだとしたら、刑事裁判であっても、それは、最後はなんらかの結論を出さなければならない以上、制度の中で仕事をするしかないのです。

ぼくはそれを別に悪いこととは思わないし、「争点」の設定がテクニカルなものになるのは刑法に取り決めてある「量刑」なるものに相当のあそびがあるのが日本の特色である以上、それは結果として裁判官、ひいては裁判員の最良の大きさの中で「ゲーム化」しているという風に言い換えられるのもまた一面では真実なのかもしれません。もちろん一面的な見方であることは繰り返しておきます。

でも、別にだからと言って司法には限界があるとことさらそのことだけを言い立てたいわけではありません。ぼくが感じたのは、そういう制約の中で被害者を救済し、加害者を更生させるか、ということもまた同じように制度によって可能だし、そうしなければならないのだろうという現実的な解です。もし、今の司法制度に欠けているものがあるとすれば、などという言い方はしたくないけれど、もっと制度として一貫させることを求めるのであれば、やはり判決の後の人生の長さをどう救っていくか、ということに焦点が当たるのだと思っています。それは、当事者たち全員に当てはまります。

つまり、容疑者は犯人となり被告人となり、判決後は受刑者になっていきます。それで終わらないのが人生です。そのあと、刑期を終えて出てきたとき、その人をなんと呼べばよいのでしょうか。そして、その人が法廷で約束したことをだれが見届けてくれるのでしょうか。そこまでの責任を誰も負ってくれないのでしょうか、あるいはそれこそが自己責任なのでしょうか。被害者については言わずもがなです。

裁判を美しく終わらせることが、加害者の更生に直結するのであればそれは大いにそうしたらいいでしょう。けれど、その後のことは誰もわからないのです。最初から最後までを「出来事」として体験できるのはそれぞれの当事者でしかないのですから。あるいは、再犯者が再び法廷に現れた時に、そのこと自体を裁く前に、そうなってしまった結果に対して初犯時の関係者は無罪放免とせざるを得ないのでしょうか? 一方で、犯罪というのは本当にケースバイケースで、当事者間でしかわからない個別の事情というのがあまりにも多くを占めているということも、裁判員を通じて感じたことの一つです。

裁判なんてしょせんそんなもんだよ、罪を繰り返してしまうやつはもう、救いようが無いんだ。

そう言って世間に安住することも一つの態度でしょう。しかしそう言い切ってしまうほど、ぼく自身は割り切れないものが残りました。それを考えていたら、こたえあわせ、というキーワードが頭に浮かんで、そうして、裁判員と被告人が再会するという設定をこしらえて、そうなるように逆算的に物語を遡及していったら「こたえあわせ」という小説ができあがりました。これがこの短い小説の縁起です。

なお、体験記「4番さん、良心に従いましたか? 〈ある裁判員体験記〉」の方もリリースしていますので興味を持たれた方は合わせて作者としては読んでいただけると大変うれしいです。

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2026.5のツイート

駅前でU◯HCRがティッシュ配りしているが、まるでキャ◯クラの客引きみたいな配り方(若い女の子がわざわざ駆け寄っていく)、どうしちゃったんだろう? インスタの広告見ててもU◯ICEFがロゴ入りカバン作ったりして、寄付してる私=リッチな私、みたいな逆ブランド化現象? もちろんやらない善より…

すべての文章を、入試現代文を読み解くように読んでしまう。すべての英文を入試の英文読解として読んでしまう。別にいいではないか。精読とはそういうものだし、精読を起点としてしか速読も多読も成立し得ないと教わったではないか。熟達とは、母国語を扱うようにそれを扱えるかどうかということ。

足踏みする準備はできたか。それは準備のための準備ではないのか。「今までなにやってたの?」という問いに対するアリバイ作りが人生であるわけがない。永遠に時間があるかのごとく行為せよ。今しか役に立たないことをせよ。それが、逆説的ではあるがイマココを生き生きとさせる秘技なのかもしれない。

風が強くて、隣の民家の車庫をおおっているプラスティックのトタン屋根がバタバタと一晩中音を立てている。気になりだすと気になって仕方がない。
今日は晩ごはんのためにカレーを作った。足りなかったらどうしようという恐怖で作りすぎてしまった。しかし明日また食べればよいのだ。

池袋のポケモンセンターはシャッターがしまったままで、連休なのにそのフロアーは少し薄暗くて寂しい。「◯◯は営業中」という看板も物悲しい。シルバニアのお店に小さい子がいるのがせめてもの救いか。営業中の本屋には『BUTTER』の新潮文庫版がまだ平台に積まれている。世界は良くなっていくのか。

連休中はひたすら読書に明け暮れていたので、休み明けて会社に行くと人と喋るのがほんとうに久しぶりのような感じがして、なんだか声の音量調整がオカシイ。メールを書いていても言葉や人の名前がすぐに思い出せない。しかし一番恐れているのは実は老後だ。本は死ぬまで読んでいたいが…。

肩が痛い。ひたすら肩が痛い。会社に行くとなったらとたんに肩が痛くなった。まったく治る気配がない。風呂に入って温めても、下手に伸びをしてほぐそうとしてもダメだ。もし土日で治ったらこれは精神的なものに違いない。いつもは逆に休みに入ると体調を崩すのだけれど。仕事を休みだと思っている!?

東大商法をやっている人たちは何歳になるまで続けるつもりなのだろう。自分個人の「成功体験」を過度に一般化しても、それが例えば十年後の世界でも通用すると思っているのだろうか。そう思わせているとすればそれこそ情報商材だ。他大では見られない傾向で、そろそろやめたらと本屋に行くたび思う。

住宅街に突然現れる空き地が好きだ。昨日まで解体工事をしていた。古い家屋が跡形もなくなくなって、長年陽の光を遮られていた隣家の壁面が恥ずかしそうに顔を出す。すぐにまた次の家が建つ工事が始まる。建ってしまえば、もとなにがあったかなんて想像もできなくなる。不思議な時間が空き地にある。

昔の日本語は横書きを右から書いて今と逆、と思われているが違うのでは。そもそも日本には縦書きしかない。右から「横」に書いているのではなく、一文字しか書けない一行に縦書きに書いているだけなのだ。それが結果として欧文と逆に見えるというだけで、日本語に横書きという概念は無いと思っている。

夕食はいつもスーパーの弁当だ。早く帰れるときは定価で買う。遅く帰るときは、スーパーも閉店間際なので値引きシールが貼ってある。ワークライフバランスを取ろうと思えば出費がかさみ、仕事に明け暮れるとご褒美のように食費が下がる。健康と家計が両立するすべは無いものなのだろうか。

ポテチが白黒だっていいじゃないか。紙の本なんて、もっと少なくていいじゃないか。誰も困らないよ、あなたが思ってるほど。過剰な競争をやめて、必要なものを必要なだけ消費していく。不要なものを買って捨てて、それが国のGDP成長だなんてそもそもおかしかったのだ。今こそ知足に立ち戻るチャンス。

新築マンションの広告で、よく新卒カップルかと見紛うばかりの若い夫婦がさっそうと家事分担したり、まだ明るいうちに帰宅したりしている場面が流れるが、いったいどこの世界の話なのだろうか。もっと気になるのは、誰に向けての広告なのかということ。まさか自認年齢がいつまでも二十歳の中年夫婦か。

恋愛リアリティーショーが全盛だ。なぜなのだろう? 見たことがないがあれを見て、なにが面白いんだろう? と、四十を過ぎたオジサンは思う。オジサンが若い頃はな、テレビにうつつを抜かす余裕などなく、月曜日の仕事を乗り切るために月曜夜の「あいのり」を見ることだけが楽しみだったんだ…。

五月祭といえば、まだ右も左もわからなかった学部一年のときに展示をやっていたら、安田講堂前のステージから聞いたことのある歌が……、と見に行ったら、毎週深夜ラジオを聞いていた三重野瞳さんがライブをやっていた! 駒場祭でも当時まだ無名だったクレイジーケンバンドを見れたのがよい思い出。

英語のスラングでビンボーという言葉がある。エッチだけどバカな女、昔で言えばブロンドみたいなことだ。しかし最近は、あえて金髪にしてバカっぽくし社会的な規範から自由になる生き方を選ぶスタイルもあると言う。なんとなくその気持ちは日本人の僕らでも分かる。何故なら、性根が貧乏だからだ…。

かつて無料時代にEvernoteを愛用していた。ウェブサイトを簡単に取り込めるのが便利だった。サービスが有料になってOneNoteに鞍替えした。これはクリッピングはできるんだけど文字だけか、スクショだけかでやや使いづらい。最近Notionの良い噂を聞く。メモもしたいしスクラップもしたい用途にどうか?

鋤と鍬、網と綱、荻と萩、などいまだに読むときに迷う漢字は多い。鋤(すき)は助(すけ)に音が似ているから。網(あみ)は網で漁をすると魚が亡くなるから(亡が入っている方)。萩(はぎ)は秋(あき)に音が似ているから。これで片方を確実に覚えて、ペアのもう一つは「じゃない方」で一括する。

雑誌『ダ・ヴィンチ』といえばメディアファクトリー時代に文学賞があって、初回で受賞された前川梓さんの『ようちゃんの夜』というのが好きでしたね。第二作も出されて、その後は完全に音信不通になってしまいましたが、良い作品でした。いまwikiで確認すると朱野帰子さんも同賞受賞者だったんですね。

置き配の時間指定ってどういうことなの??

「設備の近代化」とは今でもよく使う表現だが、現代に生きる僕らからすると「近代化」してしまったらダウングレードにしか思えない。モダナイゼーションの逐語訳だと思うが、「現代化」でよいのでは? しかし、現代とは常にイマココのことで、常に最新の設備を構えられるわけではない。言葉は難しい。

急に暑くなったからなのか、普段あんまり飲まない(種類の)酒を飲んだからなのか、下痢が昨日から止まらない。昼の散歩中にもよおして、近くの商業施設を競歩した、2回も…。元気で前向きでありたいと思うときは何でも食べてやろうと意気込むが、リスクヘッジして人生を制限しすきるのも本意でない。

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2026.4のツイート

本を読むスピードは心のバロメータだ。焦っているときはただ、文字を追うだけで頭にはなにも残らない。それはいったいなんのための時間なのか。一冊読み終わりました、と言いたいがためだけの自己目的的な円環なのか。読書は、読むことの中にしかない。読むとは、なんなのか。

宙ぶらりんな状況で、結論の出ない世界で、ストレスがたまると今日の夕ご飯をいくらでも食べてしまう。どか食い、というやつだ。これを防ごうと思うとアルコールに走ってしまう。アルコールに走らないために炭酸水を飲んでいる時もあったが、正解が見つからない。

金曜日はビールを飲む。辛いものは苦手だが、食べたくなる時もある。おなかが弱いぼくは、翌日になにも予定がないときだけの楽しみだ。でも明日は髪を切りに行くから、ビールを1本だけ飲むことにする。好きな作家の新しい本が出る。それだけを頼りに、明日に向かって生きていく。

吉野家はもはや殺伐としていない。タッチパネルで好きなときに好きなだけ注文ができる。外国人アルバイトには、リーダー格のアルバイトが優しさと厳しさをいいバランスにして業務を教えている。まるで劇場に来たみたいだ。レジに並ぶと、いまは子ども割引まである。吉野家はもはや殺伐としていない。

すべてをオプションにして選ぶ人基準にお金を支払うシステムは、究極の自己責任だしトランザクションがその場で完結する「金の切れ目は…」的な世界観だ。そこには「情けは人のためならず」のような巡り巡る交通の余裕、余白、余韻は一切ない。それをぼくたちは望んできたのだ。

保坂和志『鉄の胡蝶は』を買った。ソフトカバーで2400円だが装丁はかなりしゃれている。奥付を見ると連載の最初の1年分だけを収録している。もっと3段組でギチギチの浩瀚な書物を期待していたが拍子抜けした。断続的でもいいので続巻がこれから出ていくことを期待したい。今日からじっくり読み進める。

百人一首の歌人で、男だと思っていたら実は女だったという勘違いはかなりある。昔は夫や父の官職をそのまま呼び名にあてはめていたり、女房の位の名前も知識がないとなかなかわからない。さて、問題。赤染衛門は男でしょうか、女でしょうか?

無炭酸のサイダー味というものが時々あるが、飲料だけでなく菓子類にも多い。ぼくらは、サイダーというものの本質を見失っている。一体何をあじわえば、ぼくらはそれをサイダーだと思うのだろう。もはや語源にあるリンゴも真っ青だ。けれど、ぼくらは常に既に、そうやって概念を消費する時代にある。

いつも通りを心掛けたいと思いながら、あわただしく過ごす。自分で勝手に決めた締切に追われているのは、追われることでなにかを忘れようとしている時だ。現実に向き合うほど僕たちは世慣れていない。酒も、甘いものも、仕事も、本も、なにかから逃げるためのものだ。

粉コーヒーがあまりに高いので、飲むのをやめた。水筒にドリップして会社に持っていっていたが、2円/㌘を超えると日常性が無くなる。最初の3日くらいは頭痛がしたが、いまはもう烏龍茶とルイボスティーのコンボで1日を終えられる体になった。ついでに整腸剤もやめた。なにも不便はない。健康とは?

急に暑い。花粉もそろそろ鳴りを潜めてきているのだろうか。散歩しているとみんな春の装いだ。アイスコーヒーを飲みながら木陰にいる外国人トラベラー、ヘッドギアをつけた息子をなんとかまっすぐ歩かせようとする家族、びっくりするような高級マンションから出て来る年若いカップル。それぞれの人生。

自閉した世界に大の大人が没入するのをよしとする表象は苦手だ。『孤独のグルメ』は一見そう見えて違う。あれは開かれている。あるいは、開閉のバランスがきちんとある。問題は、安月給サラリーマンの千べろテクニック「だけ」に淫する一部の風潮。最近は広告にも侵出。だまってやっとけ!

アンジャッシュのコントみたい、という形容は、あのコントをテレビで見たことのない世代も使うのだろうか? あと十年もしたら訓詁学の領域だ。たぶん漢文由来の四字熟語(臥薪嘗胆とか)と同じだ。アンジャッシュが忘れ去られてもなお「アンジャッシュのコントみたい」と言われたとき、完成する。

口内炎が痛い。しかし口内炎を治そうと栄養のあるものを食べたいが、痛くて食べることが苦痛すぎる。どうしたら早く治るのだろう。 あと何故か左目だけ瞬きするたびに異物感がある。もう花粉も収まっているだろうに、なんなのだろう。単なる寝不足か。黄砂に吹かれてなのか。 春はいろいろ油断ならん。

雨が振って急に寒い。今日は朝からバタバタして、家を出てから腕時計をしていないことに気がついた。使っているのはごく普通のアナログ腕時計だ。なくても大きな不便はない。しかし不便な瞬間もあって。一日過ごしてみて気がついたのは、ぼくは腕時計を、日付を確認するためにしか見ていなかった!

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鉛筆21本目

これはたぶん小学生のときに修学旅行で行った日光で、学業成就の鉛筆をお土産で買ったものです。したがって、30年ぶりの使い切りです。長かったね・・・。でも、小学生の時のぼくが思っていたほど「学業」が「成就」するのは簡単ではなく、まだまだ長い旅が必要な気もします。

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黒川祐次『物語ウクライナの歴史: ヨーロッパ最後の大国』を読みました。

もはやこの本は現代の必須教養ですね。

世界史的な変遷を丁寧にたどりつつ、結局のところウクライナという国は地理的な問題もあり、常にロシア側とヨーロッパ側から分割と侵略の歴史を繰り返してきたということがよくわかります。つまり、当たり前のように、たとえば島国として他国との境界線が否応なく確定される国とは異なって、自らの領土を自らの力でしっかりと内側から支えなければ国の存続すら危ういという歴史観が、ウクライナの人々には根深く記憶されているということなのでしょう。実際に、ウクライナという国は消滅と再生を繰り返しているわけです。そこに住む人々の人工的な大移動なども含めて。

特にポーランドとの関係は、ドイツやフランスと言った純ヨーロッパ諸国との緩衝地帯として共にあるため、ユダヤの問題も含めて大変に複雑です。決してポーランドと共に被害者面をしていられません。ポーランドだってウクライナに攻め込んだ時期もありましたし、オーストリアやハンガリー、チェコなどの周辺諸国との関係も常に、きれいに善悪に色分けのできないものです。

一般的にはウクライナと言えばケンカの強い「コサック」がイメージされますが、やはりコサック的な下からの団結による強力な軍事力というイメージは、日本でいう「侍魂」ではないですが、そういう土地に根差した強さが、ウクライナの人々が粘り強く自国の独立を今もなお勝ち取ろうと戦い続けているセルフイメージの根幹にあるのではないかと思います。そう簡単には大国には屈しない、コサックの名にかけて、という感じでしょうか。もちろんそれだけで語り終わってはいけないのですが。

地理的な重要性はウクライナの中にもあって、ヨーロッパのパン籠と言われるほどの金色の穀倉地帯、そして鉄鉱石と石炭を産することが発見されて以降の大規模な工業化、そして工業化・都市化に伴ってひっ迫する電力需要に対する水力発電や原子力発電の設置(もちろんそこから悲しい事故も発生するわけですが)。なにより、クリミア半島を有するがゆえに戦略的な要所として常にロシア側からつけ狙われてきたわけです。みんなウクライナの国力を欲しがるわけです。一つの独立国家のはずなのに。

日本との関係は、遠いようで所々で交差します。ウクライナ人の「入植」としてロシア極東に19世紀にかなり移民をしているようなのです。なのでウラジオストクなどにはそのころのウクライナ人入植者の末裔がいまも生きているはずで、そう思うとかなり身近に感じます。あるいは、政治・文化史の中で「ああ、この人もウクライナ出身だったのか」と知ってびっくりする人もかなり紹介されています。かつウクライナ出身のユダヤ系の方々で、思想・文化に名を残している人も数多くいます(トロツキーも…)。個人的には我らが茨城出身の画家、中村彜が描いた「エロシェンコ氏の像」のエロシェンコ氏もウクライナ出身の盲目詩人として名高いですね。

遠い国の戦争は決して遠い国のお話ではありません。毎日そのことを強く思いながら、せめて歴史についてだけでも、学び続けています。

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