スーザン・ケイン『内向型人間のすごい力』

を、読みました。

まずは以下のTEDが本書のほぼすべてを要約してくれています。

単刀直入に言って、非常に面白い本でした。まさにぼく自身が自分の内向性と偽外向性との統一に苦しみつつも、平野啓一郎の言う「分人主義」にもどこか飽き足りないものを長らく感じていた中で(本書にもまさに「分人主義」=「状況主義」に対する歴史的批判が登場します)、一筋の光明をつかめたというか、「なんだそんなことだったのか」という安堵感を得られたと言いますか。

目からうろこなのは、内向型は刺激に対して感じすぎてしまう、弱い刺激だけでつよく反応してしまうがゆえに、大人数のパーティーを避け、競争的なチームスポーツを避け、スピーチ大会を避け、自らのペースで自分のプライバシーが確保された空間でひたすら自学自習に励む。それを心地よいものと感じる。一方で、外向型は大きな刺激がないと反応ができない。だから大きな音で音楽を聴き危険なところまで行かないとハラハラしないし、リスクテイキングな株式投資をしてしまう。好きでそうしているのではない、お互いが。このことは結構物事の味方として新鮮です。

けれど筆者は慎重に何度も、「だから内向型人間は優れているのだ」という単純な二項対立には陥りません。そこが本書の優れているところで、内向型人間だって会社の会議で大人数の前で自分をさらさなければならない場面だってあるし、パーティーに出席しなければならないことだってある。けれどそこにはその時間だけ外向性をよそおう術を人は持っているし、それが終われば温かい自分の世界へ帰ることさえ保証されていれば内向型もこの社会にとって有益なソリューションを提供できるのだと。個人のスタイルに合った生き方をそれぞれが尊重することで、よりよい社会になっていくことを提言しています。

これはメールや文書でのコミュニケーションが多くなった昨今、それはIT化の流れもあれば図らずも広まったテレワーク下においての働き方についてもなにか示唆的でなりません。声の大きな、派手なパフォーマンスが必要な場面もあることは確かだけれど、それだけで物事を判断してしまってはまずい。内向型と外向型がうまく社会の中で連携していく技術的方法を活用することやちょっとしたTIPSに配慮することで、ぼくたちはぼくたちあるがままでいる心地よさをもっと楽しめるんじゃないか。そして実際にそれは個人個人の日々の生き方を少しずつ変えることで可能になるということが確信でき、勇気をくれる一冊です。


R.D.レイン『好き? 好き? 大好き?』

を、読みました。

さかのぼること当時ぼくは18歳で、大学に入って初めてのゼミで、何を血迷ったか「精神病理」を扱うクラスに参加したのでした。ぼく自身は矯正教育を主体に発表したのを覚えていますが(ついでに言うとほとんど盛り上がらなかったことに逆にびっくりしたことも)、周囲は割とつわものばかりで、宮台信者もいましたし、まあいろいろでした。そこで精神病理の世界で当然知っておかなければならないサブカルに初めて触れるわけですが、本書もその一つでした。テーマは一貫してディスコミュニケーション。平易な翻訳ですが、なかなかにうならせられます。言葉だけで通じ合えないもどかしさ、言葉だからこそすれ違ってしまう男女の悲しい姿がとことんまで描かれているわけですが、けれども副題として「対話と詩のあそび」と銘打ってあるからには、そこまで深刻にとらえなくてもよいのかもしれません。「そうそう、こういうことってあるよね」と本書を読み解きながら、実際の人間対人間のコミュニケーションの中では言葉を尽くせばよいわけですから。もちろん、そこには多大な努力と意思が必要なのは言うまでもないことなのですが。大学時代に巻き戻すと、その後南条あやに大いにかぶれたり、Coccoに傾倒したりしたあの辺の素地はあのゼミで培われたのかもしれないと思うと、本当に子どもにモノを教えることの残酷さというか、あまりに柔らかい脳みそに何を注入するのかを選択することは、学ぶ側も教える側も本当に恐ろしい選択を迫られるものだなあと、人の子の親になるとそういう感慨にもふけってしまいます。


夏目漱石『それから』(青空文庫)

を、読みました。

これもまた何度読み返したかわかりません。夏目漱石の中では一番好きな小説です。というのも、二十代に読んでいたころというのは、代助が高等遊民の座を捨てざるを得なくなり世の中に出ていく、つまりそれまで軽蔑していた「食うために職業につかざるを得ない」という境遇に追い込まれたところが、どうしても自分の学生から社会人への移行期とも重なって、ラストシーンの目の前がすべて真っ赤になってしまう描写などがとても他人事とは思えないという切実さによるところが大きかったわけです。

しかしまあサラリーマン生活も15年もやっていると、代助のそろそろ30歳という年齢もはるか越えてしまい、むしろ一つのドラマとして感得できる余裕もだいぶ出てきます。それが若さを失うことの代償なのでしょうが。再読して感じるのは「それから」こそむしろ「こころ」と題すべき小説だったのではないかな、というシンプルなところです。ストーリーはどうしても世間体に対峙される恋愛感情なわけで、その「こころ」の動きというのは何人にも支配されるものではないというのが一番のテーマなわけですからね。そして後続する『門』のあの超然とした夫婦の姿も、『それから』を読まないと半分くらいしか味わうことはできないのかなあと。


夏目漱石『草枕』(青空文庫)

を、読みました。

あまりに有名な冒頭はともかくとして、文庫本であれば漢語の洪水にいちいち巻末の注釈を拾いながら読み進めるのが途中で嫌になることこそあれ、青空文庫であればかえって適宜ネット検索して意味を取ればあとはストーリー重視で読み進められるところが良いのかもしれません。原文そのものにガツンと近づけると言いますか。

それにしても何回か読んでいるはずなんですが何回読んでも正直面白さがよくわからない小説です。「非人情」というキーワードが何回も出てくるのですが、芸術家として作品をものする境遇=非人情の境を主人公の画家は求めて山路を行くわけですが、結局そこで待っていたのは温泉宿の人情ずるずるべったりの世界。特に床屋の描写だけは何回読んでも面白いわけですが(ほとんどつげ義春の世界です)、お那美さんのあまりに自由奔放さなどはモデルがあるようですが、いまいちよくわからない(狂女、という噂を立てられているわけですが)。モデルが先にあって、その対立項として画家が登場人物として立てられたのかもしれませんが。そういう読み方でよいのか・・・特にラストシーンの読み方が判然としません。


岩井俊二『ラストレター』

を、見ました。

内容はもう、上の予告編のまんまですね。ストーリー自体は、設定さえ与えてしまえばある程度予想できてしまうものでしたし、ところどころ「それはありえねーだろ!」と突っ込みたくなるようなところもあるのですが、映画はそもそも実写ではありますがリアリズムに隷属するものでは決してなくて、岩井俊二によるこれは(この人の映画はどれもそうなのかもしれないのですが)一種のおとぎ話というか、ファンタジーなんだろうなと。

東北地方の川の流れが上空から映写されるさまは、おそらく小説で言えば三人称の神の視点を思わせるところがあって、秀逸。もしこれが福山雅治の独白で終始していたら、こんな青春映画に似たさわやかさはなかったでしょう。そもそも出てくる女の子二人の特に森七菜は、なんというか十代のこの一瞬でしか切り取れない表情をしていて、こういう女優さんは久しぶりに見たなあ。


夏目漱石『吾輩は猫である』(青空文庫)

を、読みました。

長い作品ですがほとんどが苦沙弥先生を取り巻く「おしゃべり」の交歓なので、ちょびちょび読み進めるのにちょうどよい作品です。それにしてもあらためて読み返すと、後年の漱石のキーワードともなるべき記述がそこかしこに出てくるのは面白いです。この作品の要はあらゆるもの=明治期の文明開化に翻弄される人間たちの姿を、猫である吾輩の目を通じて茶化し倒す、そのことに極まっていると思います。

おそらく当時の読者はもっと「元ネタ」が分かるものだったのだろうと思うとちょっと悔しいのですが。青空文庫は注釈が当然ないですから、その辺は半分くらいしか楽しめていないかもしれません。うがちすぎかもしれませんが寒月にわざと擬古文調でしゃべらせて硯友社的な文体を茶化しているようにも見えたり。

後年の『こころ』の冒頭に出てくる鎌倉の海水浴も、『吾輩~』で当時の海水浴の効能について記述がありますし(例によって小森陽一の講義のごとくですが)、金田嬢をめぐる三角関係も(一瞬四角関係にまで行っているようにも見えますが)けっこうあっさり書いてあるようでちょっと東風の立場はあんなに淡々としていていいのか読んでいるこっちがひやひやする一方で、あっさり寒月は地元で結婚してしまうし。漱石が『三四郎』以降、執拗に書き続けた「三角関係」が、意外と読み落としがちですが『吾輩~』にもちゃんと(ほんの少しですが)登場するんですよね。あと忘れてならないのが天然痘によるあばたの悩み。

それ以外にも、それこそ「金田」に代表される実業界=金を持ってている者たちに対する怨嗟、神風連にも似た西洋文明に対するいわれなき拒絶感、そしてなにより苦沙弥先生の家族親類、おさんもふくめた女性の描写がとにかく活き活きとしていて、本当にあの時代にこれほどの完成された、これほどのボリュームのある作品が出てきたのは奇跡としか言いようがないくらいです。あの時代のあらゆる対立項が満遍なく入れ込まれていて、明治という時代のあらゆる矛盾がアルバムをめくるように開陳されていきます。

なによりも猫を通じて人間を活写するという、近代日本文学があれほど描写の後ろに寝ていられないほど苦悩した人称の問題を即座に解決する設定の鮮やかさは唸るほかありません。こんなことを近代文学史の初っ端でやられてしまったら、後年の作家は歯が立ちませんよ。よくぞこんな設定を思いついたもんです(もちろん、心内文が出てくることに対する言い訳もちゃんとされているあたりが、抜け目ないのですが)。

夏目漱石は断然三十代以降で読み返すと面白い発見がありすぎて楽しいですね。もうしばらく青空文庫を渉猟する日が続きそうです。


森鷗外『伊沢蘭軒』(青空文庫)

ようやく読み終わった。渋江抽斎と同じノリで読み始めたらずいぶんと違った。ほんと、よくこんな新聞連載が許されたもんだ。鷗外自身も最後の最後でいよいよと作品に対する毀誉褒貶があった(どっちかというと”貶”の方ですが)ことを告白しているけど、まああの時代であっても読者を選ぶ作品であることは間違いなかったのでしょう。分量的にも「歴史そのまま」を体現した純粋客観の史伝を目指した労作と言っていいのでしょうが、これを読了して蘭軒の人となりがおぼろげながら読者の心に思い浮かぶか? 正直、一読しただけではわからない。蘭軒が亡くなるのが全体のちょうど半分まで来たところで、そのあとも子供たちが亡くなるまで、あるいは門人たちの動静の微細まで描き出すのを読むのは本当にしんどかった。漢詩、漢文の手紙はほとんど読み飛ばしてもまだしんどい。鷗外はまだ同じ医者として医学的な観点からの面白さもあったのかもしれませんが。石川淳が激賞しているようですが、もうほんと玄人中の玄人の世界でなかなかついていけませんでした……。


三浦佑之『古事記を読みなおす』

を、読みました。

それにしてもキンドルの月一セールでは往年の筑摩新書の名著が安く手に入るので毎月楽しみにしています。今月は本書を読みました。

口語訳古事記がベストセラーになったのは記憶に新しいですが(と言っても10年以上前のことになってしまいますが……)同じ著者による、いわば研究の最前線を論文という厳密性の世界では書けないやわらかい状態で差し出してくれる、新書ならではの内容です。

よく日本書紀と古事記とが「記紀」としてひとくくりにされてしまうことに絶対反対の立場で、この二つは似て非なるものであると。体制側が自らの正当性を証明するためのいわば人工的に生み出された歴史記述が日本書紀だとすれば、古事記は戦いに負けた側の思いを後世に伝えるための「語り」の場である、と。その二つを都合よくミックスして「記紀」にはこんな風に書いてある、などと言うな! というのが著者の主張です。まさにその通りなんでしょう。

実はぼく自身はまだ古事記を読んでいないのです。いま10年がかかりで通読をかんばってる新潮日本古典集成もまだ古事記の巻を読むのは先になりそうですが、まあそこまでのお楽しみの予告編ということで本書は楽しく読ませていただきました。それにしても古事記のような古典の決定版のようなものもまだまだ研究の余地が多いというのは驚き。もちろんそれは戦時中の国策に乗せられてしまった研究史としての「哀しみ」もあるんでしょうけど。ぼくは国文科出身ながらも怠惰な学生でしたので、津田左右吉も、真っ茶色になった古い岩波文庫の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を図書館でぱらぱらめくるのが精一杯でしたが、古事記の研究史自体もこれは一つの研究のテーマになったりするんでしょうね。