10年ぶりに電動ひげ剃り買い替え

ひげそりは基本的には電動シェーバーを使っていたのですが、やっぱりそり残しが伸びてくるのが気になるのと、一時期営業にいた時にカミソリ派に鞍替えしてからはあまり毎日電動を使うという感じではなくなっていたのですが、それにしても10年も使い続けて電池の挙動もおかしくなってきたので(交流で動かない時が頻発)買い替えることにしました。

しかし10年も経つ間にだいぶ世界は変わってしまっておりまして、ぼくは伝統的に日立を愛用してきたのですが、もうこれがほとんどラインナップが縮小してしまい替え刃もめったやたらに高い。しょうがないので大手家電メーカーをいろいろと見たのですが、なんか機能もお値段も高いのばっかりなのね今は……。

さんざん口コミを読み漁って検討した結果、ブラウンの3シリーズにしようと落ち着きました。これはエントリーモデルのシリーズなのですが、そのなかでも交流も使えるタイプにしました。今日ようやく物が届いて剃ってみましたが、モーターは静かだし、ぐいぐい肌に押し当てなくてもちゃんとそれるしでさっそく買ってよかったなあと思いました。ブラウンは手入れが日本メーカーとだいぶ違くて、刃を取り出さなくても水で洗えばいいようなのですがこの辺りはまたおいおい確認してみたいと思います。

迷う時間は長かったのですが、久々にいい買い物をしました。

掛居保とはなんだったのか(「あすなろ白書」異聞)

ドラマ『あすなろ白書』を見て、始終気になったのは掛居保の「内面」だった。

掛居はドラマの序盤でとにかく人からもてまくる。ヒロインのなるみ、予備校時代からの同級生の星香、序盤では恋人の位置を占めていた地元仲間のトキエ、さらには男である松岡からも。掛居の立ち居振る舞いは、ドラマの中ではとにかくその場面や状況に応じて最も相手が喜びそうなことをもうほとんど反射的ともいえるくらいの軽さでやってのけていく。

特に最初のなるみをホストクラブに連れて行ったのを「いい男いて喜んでもらえると思ったんだけどな」となんの裏表もなく言っている(口では冗談だと言っているが、冗談で連れて行っているとは思えないところがある)のが、今でいえばサイコパスとでもいうのか、そのあたりでようやく「あ、こいつはそういうやつなんだ」というのが分かってくる(しかし、その際になるみを「ダボハゼ」と形容しているのはあまりにひどいような……)。そのあと言い訳のように「なるみの怒った顔が見たかったんだ」と言うが、どっちが本心で最初からどこまで意識していたのかまったく読めない。そういう「読めなさ」が1話ですでにふんだんに提示される。

本当に序盤はつかみどころがない人物に見えて、まるで源氏物語でも読んでいるような気分だ。人物の一貫性はどうでもよくて、場面が映えればそれでいいという、そういうドラマなのか? と一瞬疑ってしまう。それは近代的自我とは全く無縁の世界で、まあ連続ドラマの一つの「型」と言えばそういうのもあり得るのだろうと、誤解してしまう。

けれど、掛居の「内面」の存在が告白される場面が話を追っていくと登場する。

ひとつは、望まれずに生まれたという自らの出生の負い目という、たぶんに大時代的な道具立てを、まさに掛居がしっかりと受け止めてきた過去が京子との一夜の後のシークエンスでようやく明かされるところだ。寒い外でなるみが出てきてくれるのを待った後で、掛居の告白がなされる。ここで視聴者はようやく安心するのだ。掛居は、場面に応じた歌舞伎的な役割ではなくて、「奥行」を持った人物であることに。平面的に見えていたのはちゃんと意図があったのだという文法の存在に。

手首に傷のある女性に会った。
俺は彼女の話を聞きながら、昔の自分を思い出した。
手首の傷が、自分の傷のような気がしてきた。
彼女を抱いた。
彼女のことは好きなわけでも愛しているわけでもない。
だけど抱いた。
後悔している。なるみを傷つけたことを後悔している。
今までなんだってあきらめてきた。
世の中に執着するべきことなんて何もない。
心を殺して、目を閉じて、なんだってわけのわかったふりをしていればやがて時は過ぎる。それが、親に期待されないで、望まれないで生まれてきた自分の処世術だと思って来た。

しかし実際のところここですでに5話まで来ている。もちろん後から考えればトキエとの別れ(3話)の時点で、掛居の状況迎合的な、相手にすべてをゆだねるスタイルの自覚は暗示されているようにも読めるのだが、それはいったんはトキエからなるみへ、ある意味では陰から陽へと物語が動き始めた変化点として期待された。結局その後もなるみとくっついては離れするさまは、掛居の本質が何一つ変わっていないことの証左でしかない。上記に引用したせりふも、そのすぐあとに「だけどなるみはあきらめられない」と続くのだが、このモードに入るともうすでに「なるみの求めている自分」に入って行ってしまっているのではないかと、疑義が生じる。

もちろんなるみ自身もそれはわかっていて、7話の最後に挟まれるモノローグの「少なくとも私はあの一件からすっかりダメになった」は彼女のするどい正直さだろう。画面ではカップルの仲良さげな絵を見せながら、別れに向かっていくモノローグを載せていくこの演出は秀逸だ。

決定的なのは、7話で松岡に「おまえ、自分のことが好きか?」と問う場面。掛居の行動原理はようやくはっきりと明文化される。11話のドラマで7話までかけるには長すぎる「ミステリー」じゃないかとも思うが、あたかも源氏の君のように、あるいは村上春樹の主人公のように女性と関係してきた掛居の秘密が、無いと思っていた内面の葛藤というものがドラマとして立ち上がってくる。掛居よ、お前はそんなことをずっと悩んで生きてきたのか、と見ているものも7話のこの場面だけは手に汗を握る。

松岡、おまえ、自分のことが好きか?
俺は自分で自分のことがあまり好きになれないんだ。
だからそんな俺を好きだって言ってくれるやつがいると
無条件にありがたい。
出来ればその気持ちにこたえたいと思う。
それができなければ、せめてその人を喜ばせたいと思う。

この直前で松岡は「人の気持ちにこたえられないのは申し訳なくないんだよ、そんなのあたりまえなんだよ。この世がみんな相思相愛なわけないだろ。おまえのそういう優しさが鈍いナイフみたいに人の心を切るんだぞ」と(掛居のことを想っているという状況はあるとはいえ)偶然にも掛居の本質を言い当てている。それに対する答えとしては本当によく練られたセリフだ。特に二行目の「あまり好きになれないんだ」は泣かせる。「好きじゃないんだ」ではなく、「好きになれないんだ」。そこには自分を好きになろうとしてもなれない、まだあきらめられない「ため」のようなものが見え隠れする。

8話以降の社会人編は、原作にも引っ張られているのかかなりご都合主義的な展開で(新宿近辺に勤めているだけであんなに偶然会うわけがないじゃないか……)もうあまりよくわからないが、結局、京大を出て社会人になっても掛居は偶然再会した京子と好きでもないのに結婚直前まで行き、そしてまた偶然再会したなるみにもう一度戻っていく。これはハッピーエンドでもなんでもなく、掛居の魂の彷徨がまったく終わりの見えないどうどうめぐりを繰り返しているにすぎない。掛居は自分のことを好きになれたのだろうか? 否、その出自があまりに彼の性格形成において重い烙印なのだとしたら、なるみの「明るさ」もそれは救いきれず同じことを繰り返すだけではないのか。それとも物語の最後に今まで違う、掛居を救うものがなにかあったのだろうか?

ぼくはに見つけられなかった。

鉛筆11本目

小さくなると手動の鉛筆削り(手回しではなくて、色鉛筆のおまけについいるみたいなやつ)を使うのですが、木が古いからなのか刃の切れ味が悪いからなのかわからないのですが、カビカビの断面になります。なにかよい削り器はないものだろうか。カッターで削るのが一番確実なんですけどね。

波戸岡景太『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』を読みました。

まあ、正直に言おう。かなり期待外れの本でした。

ソンタグを愛読してきた者としてはやはり、気軽に読めるソンタグ論といった新書はいまだ本邦には無く、本書でもその日本における受容の在り方は問題視されてはいるのですが、そうは言ってもみすず書房からも河出書房からも(この著者も訳者として参加しているわけだし)近年精力的に刊行・再販されているわけなので、もっと現代的な意味においてソンタグを今この時代に「読む」、ということにフォーカスしてほしかった。

もちろん「against interpretation」は「反解釈」ではなく「解釈に逆らって」だし、「On photography」は「写真論」ではなく「写真について」でしかない。それくらいのカジュアルさが、たとえば日本における浅田彰的な「カッコよさ」に引きずられてタイトル付けされたのであれば、不幸としか言いようがないでしょう。

でも、一読すればわかるじゃないですか、1ページでも読めばわかるじゃないですか、ソンタグのすばらしさは。そういうことにまでしっかり言及する新書であるべきなのではないか、少なくともタイトルを『スーザン・ソンタグ』と銘打つのであれば。あるいは「新書とは何か」と自ら問うているのであれば。

あまりに「よけいな話」が多すぎました。太宰、三島、大江もいいけど、ソンタグはもっとバルトやアルトーに、サルガドに言及しているわけなので、もっと彼女の書いた言葉を忠実に読解するその現場を(著者は「文学部」の教授なのだから)もっと見せてほしい。それによって読者が「ソンタグを読んでみたい」と思わせるものにしてほしかった。

「against interpretation」にこだわるあまりソンタグそのものについて言及することを著者は始終避けていて、その避けている「スタイル」があたかもソンタグを描出すること固有の困難さででもあるかのように言うのですが、それは「伝記」的なるものについては決して避けて通れないものでしょう。その葛藤の中から見えてくるものをもっと言葉にしないといけないでしょう。もちろん「対象に忠実」なんてことが幻想であることはアカデミズムに籍を置いていなくても、読者は承知していますよ。結果として、本書の太宗はソンタグ自身ではなく、ソンタグをを題材とした中途半端な現代批評に占められてしまっています。

あるいは、本書を読み終わったとき「やはりソンタグの原著を読むしかないのだな」と読者が本棚に手を伸ばすのであれば、そこまで裏をかいたトリックが裏打ちされていたのであれば、本書も成功とも言えるのかもしれないのですが。

鉛筆10本目

これで赤鉛筆はおしまい。かと思いきや、子供の余った紫色の色鉛筆を押し付けられたので、明日からは赤鉛筆の代わりに紫鉛筆をマーカーとして使います。

よしもとばなな『花のベッドでひるねして』を読みました。

この系統は本当に好きです。「王国」シリーズ、あるいは『ハゴロモ』からもきっちりと一本の糸でつながっている感じがじます。この小説に書かれている「ちがうことをしない」という哲学が、それこそその後に発売されたエッセイにも受け継がれているわけですが、これはやっぱり小説で読んだ方がいい。

「ちがうことをしない」というのは、いつもと同じ繰り返しをしてぬくぬく生きていくということではない。「ちがうことをしない」とわかっていても「ちがうこと」をしてしまうときはある。それは否定されない。そもそも「ちがう」かどうかは自分だけが決めるわけではない。神様、というしかないのかもしれないが、もっと大きな存在が自分という駒を悠久の時の中で動かしているとしたら、それにあらがわないということだ。その声がもしかしたら我々凡人にとってはたんなる虫の知らせだったり、直感的な判断だったりするのかもしれない。自分で自分はこうだと決めたものをただ守るということではない。決して。そこが、小説でなければ伝わらないんじゃないかという気がする。

たしかにエッセイが発売されたときにネット界隈で話題になったのだ。たぶんそれは、きわめて(インターネット上のサイレントマジョリティにとって親和性のある)保守的な生活感覚にどこか響いたのかもしれない。いつもと違うことはなるべくしない、昨日と同じ今日がおくれるようにしたい。そういう価値観。でも、実際よしもとばななが言っていることは全然違う。行きたくない飲み会に行かない自分を正当化してほしいだけの人はきっと読み過ごす。

「linguaskill business speaking」私の勉強法 その2

2021年末に受験してから約2年、ふたたび会社指令により受験をしまして、一応多少は前回より得点アップしたので(とはいえ胸張って人に言えるレベルではないですが)それなりに効果があったかもしれなかったことを踏まえ、今回の勉強方法を記録として残しておきます。

いずれにしても英会話の上達が目的ではなく、スピーキング試験の対策としてやっているという点は悪しからず。本当に上達したい人はオンライン英会話が最も効果的だそうですが、そういうのに金を払いたくもないしやる気もないし、独学が性に合っている人向けです。

1.スピーキングに対する心理的ハードルを減らす

今回は以下の書籍によりまず「なんでもいいから英語を口にする」ことに対する心理的ハードルを下げることを試みてみました。いずれも直接的にリンガスキル(特にビジネスの)対策にはなりませんが、試験に立ち向かう心構え、英語で発想する頭や、口をついて出てくる舌の動きのウォーミングアップになります。なんというか、斉藤孝的に言えば「英語的身体」をこれで目覚めさせる、という感じです。

まずは言わずと知れた「瞬間英作文」。

この元祖本と、最近新しく出たビジネス編も(モチベーション維持のために)取り組みました。

これらをそれぞれ最低でも3周やりました。1周目はかなり苦痛でしたが、コツをつかんでくるとそれなりにすいすい行きます。

瞬間英作文は、方法論としてこれで英会話ができるようになるのかどうかはいろいろ議論はあるようです。結局は日本語を発想してそれを英作文にして話すというのをどんなに素早くやっても、そもそもから英語で発想して会話する思考回路ははぐくまれないと。そういう勉強法としての反対意見は根強いようです(とっかかりとしてはいいけど、それで英会話が上達するわけではない、ということ)。

しかしながら、スピーキングテストのように相当な短時間で、無音よりはなんかしゃべっておくほうがましという環境下においてはまだ、なお、瞬間英作文で培った英語力でなんとかなるんじゃないかと思います。しょせんぼくたちはネイティブではないのであまり高度なことを初めて与えられたお題で話すのはもう最初から無理なので(もちろんできるにこしたことはないですが)、沈黙よりは簡単な英語でなにか吹き込んでおくほうが良い、その時にぱっと頭に浮かぶのはやはり中1レベルの英語なんですよね、良くも悪くも。

あとは、IELTS用のスピーキング対策本を一冊見て、回答例の参考にしました。この本はあくまで対人でやる、しかもお題が学生向けやgeneralの(ビジネスは一切出てこない)IELTS対策用なので、必ずしもlinguaskill business speakingに特化されていません(Part1の参考くらいにはなりますが、そこばっかりやってもしょうがないので)。なので人によっては時間の無駄です。この本を参照する目的はあくまで、だいたいこれくらいのレベルの内容を話せばC2レベルなのだろう、というレベル感の確認です。

したがって、正直に言えばこの本の回答例は非常に高度です。これを試験で話せと言われてもぼくには無理です。ただ、だいたいこれくらいの内容で回答すればオッケーであるという日本語の内容の参考になるのと、あとはそれをどの程度自分が使える英語の守備範囲で表現できるかを自分自身に逆に問うていく──そんな位置づけなんじゃないかと思います。

2.新たな武器:ChatGPT×PDF読み上げ×DeepL

前回から英語の学習環境として大きく変わったのがChatGPTの登場です。これにより(ホントか嘘かわかりませんが)無限に試験に出そうなお題と回答例を手にすることがぼくたちにはできるようになりました。

たとえば「give me some topics which I will encounter at the part.5 of liguaskill business speaking test.and also give me some sample answers of each queistions.」などと入れてあげればいくらでも回答例が出てきます。しかもかなり当たり障りのないものなのでちょうどいいんですよね。

こんな感じで、このあともずらずらとトピックを生成してくれます。リモートワークに関するものとかダイバーシティに関するものがよく出てきましたね。

ただ、忙しいサラリーマンとしてはこれを無限にやったところできりがないですから10個くらいこれだと思うものを決めたらあとはそれをひたすら聞いて覚えるということにしました。その際に役だったのがPDF読み上げ機能です。

これがけっこう重宝しました。本来は目が見えない方のための機能のようなのですが、リスニング教材か? と思えるほどの流暢な読み上げで、リスニングの勉強にも確実になります(読むスピードも変えられます)。スクリプトも目の前にあるので、わざわざ本屋で音声ダウンロード付きの教科書を探さなくても、自分に合った教材をもはや無料でいくらでも作成できるようになりました。本当にいい時代になりました。

さらにChatGPTで生成した英文をDeepLで翻訳かければスクリプト翻訳も一瞬で出来上がります。これはこれで、英文の回答例が口から出てこなくても、回答内容を日本語でも記憶していれば、自分なりの英語で表現する際の足掛かりにはなるわけです。

これらの自作教材をスマホに突っ込んで会社の行き帰りに聞いたりスクリプトを見たりするだけでずいぶん勉強になりました。

おそらくはスピーキングのテストというのは

 ①与えられたお題に、どんなにしょうも無くとも瞬時に回答例を日本語で発想できる力

 ②どんなに低レベルの英語表現でも①の内容を瞬間英作文できる力

がまずベースにあって、そこから得点を伸ばしていくには1つの文型だけではなくて5文型をそれなりに組み合わせる、それなりの文法表現(to不定詞、動名詞、仮定法など)を盛り込んでいくことである程度は行けるんじゃないかと思います。

あとしょうもないですが、まったく聞かれていることがわからないときの答えを用意しておくと心理的には安心です。「Actually, I have no idea,but that issue is very important…」とかそういう感じのです。

3.今後に向けて

英作文からスピーキングへのつながりについては我らが竹岡先生が相変わらずいいことを言っています。

結局のところ手持ちの表現を増やすために瞬間英作文を繰り返したうえで、このお題にはこう答えるというパターンを日本語でぼんやりと発想しておくことが大事なのかなと。対訳をすべて暗記しておこうとするとさすがにきついです。スピーキングテストはある程度は暗記大会ですが、ある程度以上はその場で発想していかなければならないので、2のChatGPTの回答例もそれを暗記するというのではなくて、まあだいたいこんな感じのことを言えばいいんだな、くらいの心構えで十分かと思います。

4技能というのでライティングとスピーキングはまた別の対策が必要なのではと思っていましたが、なんとなく今回、英作文が自分なりの糸口になるのではないかということがわかったのが一つの収穫でした。大学受験生のころはリスニングだけでもヒイコラでしたので英作文なんてほとんど対策しませんでしたが、瞬間英作文を何周かして心理的ハードルも下がった今では、もうちょっとやってみようかな、という気持ちにさえなっているのが不思議なものです。

なお、練習用教材として前回はSpeak & Improveというものを紹介しましたが、その後ビジネス用のスピーキングテストとしてPROGOSというものができ、そのスマホアプリ版ではテストが無料で(期間限定のようです)受けられます。ほとんど形式はリンガスキルと同じですのでこちらもよい練習になりました。

次があるかどうかわかりませんが、みなさんの参考になりますように。


なお、2年前前回の受験の時の記録はこちらから

よしもとばなな『なんくるない』を読みました。

を、読みました。

沖縄をテーマにした4つの短編が入っていますが、表題作の「なんくるない」がボリューム的にもメインの作品集です。その後のハワイ物、下北物、船橋物などに続く土地に根差した創作シリーズの嚆矢と言ってよいかもしれません。

しかしながら「なんくるない」に描かれるなかのもっとも「だからこそ吉本ばななは小説家だ!」とあらためてうならせていただいたのは、主人公のマイペースさの「世間ずれ」だけでなく、じっさいに本屋の書店員に悪口を投げつけられるその世の中からの「悪意」までしっかりと描いているところ。物語では序盤なので決してメインのエピソードではないのですが、この「マイペースさの傲慢」にしっかりメスを入れているところは読んでいてハラハラしました。

はっきり言うなら、読者のほとんどはマイペースに生きられず常に因果律の中であくせくしている社会人生活を送っている人ばかりのはず。そういう人にとっては昼食は一人で食べるとか、二次会は行かないとか、ささやかにマイペースを享受できる時間を捻出しているのが実際。でも、本当にマイペースな人はそういうことに気が付かない。自分であえて選び取ったのではなく、生来的にマイペースなのだ。そこに悲劇がある。傲慢に見えてしまう、それが人をイライラさせる──都会生活においては。

その後主人公は沖縄に渡って現地のよくわからん優男(件の本屋とは全く異なる「自由」を謳歌した家族経営の野外レストラン──もちろん見た目ほど楽しいものではないと作者は男のセリフを通してくぎを刺してくるのですが)とよろしくやっていくというこれ自体はあまり面白くもない展開なのですが、やはり序盤の本屋のエピソードは鬼気迫るものがあります。別にそれは文明論批判だとか、ちょっとしたライフハックではなくて、ただただ人間というのは悲しいものだと純粋に思わせてくれる挿話です。

よしもとばなな『ハゴロモ』を読みました。

を、読みました。

この本については当ブログでは2006年7月1日、この文庫本が発売されてすぐに読んで感想を書いています。たぶんそれ以来の再読になります。

でも、感動した場所はやっぱり同じでした。都会生活での出口のない失恋のひりひりとした感触もさることながら、やはり帰り着いた田舎で出会う「みつるくん」の生きざまというのが、ぼくがよくこのブログでも使う吉本ばななの小説に出てくる「倫理観」の最たるものではないかと思います。

決して目的的に人生を消費しないということ。境遇で自分を悲劇の主人公に仕立て上げないこと。ただ、いまある状況は嬉しいに越したことはないかもしれないけれど、「どん底」と人が言おうがそれは自分だけが引き受けなければならないオリジナルのもの。必要なことを必要だと感じるのであれば、当たり前のようにこなしていく。そこにどんな価値観も入り込むことはできない。価値観などというものを先におったてるまでもなく人生は続いていくし、自分の哲学とは相いれない出来事も次々と降りかかってくるものだ。それは選ぶこともできないし、似合う/似合わないで他人に任せることもできない。どんなに会社で偉い人でも、計算が得意な人でも、家に帰ったらしょうもない近所づきあいもあるしとってもささいなことに心を乱されることだってあるだろう。でも、別に仕事が偉くて日常の出来事が偉くないというわけではない。そういう順番はそもそも最初からないのだ。すべての時間は平等だし、すべての出来事は等価なのだ。

そういうことをあらためて認識させてくれる良い小説です。