言葉という外部を味方にするのだ。

ほんとうに偶然でした。酒井穣『自己啓発をやめて哲学をはじめよう』、ドリアン助川『プチ革命 言葉の森を育てよう』を続けて読んだところ、全く同じ課題意識と全く同じ出口論が展開されていて本当にびっくりしました。要は、高度情報化社会になりお金を稼ぐということが今まで以上に専門性や頭脳労働に傾き始めている中で、言葉で考えるということ、まずは知識≒言葉を収集して自分の外周を拡大していくということ、それがこれからを生きるための生存戦略なのだと。なんだか大学に入りたての新入生が考えそうなことですが、しかし本当に世の中はそうなっているのかもしれません。成功を望むよりも、今目の前にあるクエスチョンを大事にすること。むしろもう、ただそれだけでいいのではないか、人生なんて。そして言葉を敵視しないこと、悪人視しないこと。これは当たり前のようでいて、ものを書くようなロマンチストにとっては実は結構難しい。言葉で表現することほど言葉の不自由さを感じることはないから。そして、そういう人は何か、こう、言葉を介さないものに非常に憧憬を抱いていしまう。それは多分、危険なことなんだと思う。あるいはこう言ってもいいかもしれない。映画監督にとっては映像こそが言語なのだと。確か茂木健一郎が言っていたような気がするけど、何かを自分のものにするというのは、それを言語のように使用できる状態になるということだと。まさにそういうことじゃないか。言葉でたどり着けるフロンティアを目指すことも大事だけれど、過剰に、空白部分になにか本質があるような期待を抱かないということ。「所詮すべて言葉じゃないか」という態度を、斜に構えるのではなくて、前向きに捉えるということ。

ドリアン助川は、最近youtubeに往年の金髪先生の動画がたくさん上がっていて毎日結構ちびちび見ては楽しんでいます。あの教室にいる人達も含めて、90年代ってこんな感じだったよな・・・と感慨深いものがあります。ジャンベルジャンど真ん中世代でしたし。この時代を氏は言及されることをあまり快く思っていない節もあるけど、ぼくは好きでしたよ。


英会話はつらいよ

仕事で海外に行くようになってから二年が経つのですが、いやこれが英会話がサッパリでして。ぼくの英語学習遍歴というのは、大学受験期の伊藤和夫信者を最後に大学時代はひたすら日本文学の研究に勤しんでいたため、その間にすっかり基礎体力を失い、会社に入ってからはTOEICの「技術論」に淫してしまったため、なんかこう……もう一度、子供が英会話をもう一度習うように勉強し直せないものかと思って本屋の「ビジネス英会話」の売り場に行ってもまるで自分の求めているものと違うものばかりが並んでいるのにゲンナリして途方に暮れているところでした。

そうは言ってもいろいろと手当たり次第にページをめくっているうちに、スティーブ・ソレイシィなる人物の存在を知りました。そして氏の考える日本の英語教育に足りていないところ、アンバランスなところを鋭く指摘する論調にもなんとなく惹かれ(言うなれば、『英文法頻出問題〓習』は英語パズルでしかないと……)、いっちょこの人に全面的に乗っかってやろうと何冊か読み続けています。

上記二冊も、ようやく読破。優しい言い回しですが、大人が言うのに失礼に当たらない言い方、文法的には間違っていなくても無礼な印象を与える言い方をごくごく丁寧に解説してくれています。「こういうときはこういう言い方、以上」ではなくて、日本人のメンタリティにも寄り添いつつ、また付属のCDのやや演技過剰な吹込みもなかなか記憶に残るので、実際的にけっこう役に立っています。

なんでもそうですが、やはり分かるところからコツコツと。自分の理解力を過信せず、ゆっくりじっくり階段を登っていきたいと思っています。


映画『ボヘミアン・ラプソディ』

を、見ました。

といってもぼく自身はQUEENについてはほとんどド素人なので、この映画のある意味での「わかりやすさ」に対して、史実とどこが違うとか、ライブエイドの実際の映像との比較などを通じた「再現率」などをうんぬんすることはまったくできません。ただ、ぐいぐいと推し進める、あるロックバンドの「物語」に酔いしれる。それだけでいいのかもしれません。しかし見終わったあとには、フレディーの人生は本当にこんな小奇麗にまとめられてしまう程度のものだったのだろうか? という、これはもちろん反語ですが、一つの物語を通過したあとの感動の興奮もさることながら、一方で一人の男の人生をこんなふうに「消費」しちゃっててよいのだろうかという妙な後ろめたさみたいなものも変について回るのも不思議なものです。いずれにせよ、これを起点にして何かを考えなければならない、そういう気持ちにさせる変な映画です。それはもしかしたらQUEENのボヘミアン・ラプソディーを早速youtubeで全編聞くことなのかもしれないし、当時の熱狂を知っている人たちの声を丁寧に聴き直すことなのかもしれない。あるいは現代のQUEENを、マスコミの非難にさらされながらも「大衆」(そんなものが今もあればの話ですが)の支持を得ている人たちに思いを馳せることなのかもしれません。

どうでもいいですが、昔学生の頃家庭教師をしていたときに、ライブエイドではなくてバンドエイドの成立を説明した英文がホライズンとかそういう普通の英語の教科書に載っていて、それを懇切丁寧に解説したことを思い出しました。ウィキで見てみましたけど、ライブエイドはバンドエイドの派生なんですね。


エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(田中西二郎訳)

を、読みました。

なんだかんだで『嵐が丘』は学生時代から何度か読み返している好きな小説の一つです。そして、いろいろな文庫からいろいろな翻訳が出ているというのも『嵐が丘』の楽しみ方の一つだと思います。ぼく自身は岩波の新訳(河島弘美)に親しんでいましたが、やはり往年の新潮文庫の田中西二郎訳というのはいろいろなところで評判が高く、それは多分、世の中の読書人と言われる人々の大半の世代がこれを読んだからなのだろうと思います。そもそもの新潮文庫は今は本屋に行っても鴻巣訳の新しいものしかありませんが、アマゾンのレピューが荒れているのも、多分田中訳に親しんだ「オッサン」達のおせっかいなんだろうと思いますが……。

で、当然ながら古本で取り寄せて読みました。期待通り、味のある訳文。特にこの小説は主人公たちよりもむしろ脇を固める小間使いの人間たちのおしゃべりが楽しい。いかにも田舎の頑固親父の屈折したお小言が、これでもかというくらい大時代の調子で描かれているのは、本当に楽しい。そもそもこの小説自体が冒頭の数行を除けばほぼすべて使用人の豊かな語りによる世界の構築なので、もちろんこの通り喋る人は現実にはいないのですが、そこをきぐいぐいと引っ張る力が、文章にみなぎっている感じがします。

おそらくこれが新潮文庫から消えたのは、単に差別用語への配慮なんだろうと思いますが、それを差っ引いたとしてもまだまだ現役で生けるんじゃないでしょうか。鴻巣訳、さらに光文社古典新訳も出ているので、じっくりと他の文庫にも改めて当たってみたいと感じました。


ようやく新パソコン起動

あたらしいパソコンを開封し、昨日からデータの更新をしています。びっくりしましたが、いまのパソコンはワードやエクセルでさえ最初からインストールされていなくて、電源を入れたあと、ひたすらオンラインでダウンロードされるのを待っていなければならないという仕組みになっているのですね……。キーボードの慣れなさも新鮮ですが、HDDのカラカラ言う音も、今となっては安価なパソコンならではで、少し昔のことを思い出してしまいます。とりあえず、初期設定はなんとか終わりそうなので、少し心を入れ替えて、アウトプットに精を出せるように、しばらくこの新しい相棒を使い倒して行く覚悟でブログを充実していきたいと思っています。


UMEにことよせて

公園から帰る途中で、団地の中を歩いていると梅が咲いているのに通りがかった。
携帯のカメラは、今ではあまりに当たり前になってしまい、撮ることも少なくなってしまった。
けれど、カメラを持ち歩いているという感覚は今一度思い出しておくべきなにかであると最近思う。
別に残すことが目的ではなくて、何かを見つけてやろう、という気概を。
カメラがあればよかったのに、とか、もっと以前にどこにでも持ち歩ける自分だけのカメラがあればどんなにかよいだろう、などと思うことすら禁じられているぼくらにおいて、欲望をリブートさせるにはずいぶんと手間がかかる時代になってしまったものだ。


パソコン買い替え

我が家のmac book proもそろそろ引退の時期だ。

独身のときに買ったものだからもう七年くらい使っている。とっくに償却しきっている。しかも四年目くらいに調子が悪くなってマザーボードを全部取っ替えてもらったこともあるのでさすがにパソコンとしては天寿を全うしたものと考えるべきだろう。加えて、いろいろ前段の話はあるが、結果として最近の二段階認証の導入でapple storeにログインすらできなくなってしまい、かなりお手上げだ。

もうmacは買わないだろう、とはなんとなく思い続けていた。ぼくの欲しかったmacは、2000年代に花開いたiMacの頃の、あのアウラなのだ。そして、今や銀色のボディーにmac風のキーボードをそろえたノートパソコンはほとんど「パソコン」というもののスタンダードになってしまった。ネットの浸透で、ブラウザさえあればOSの違いはほとんど考えられなくなった。

しかし半日検索しまくったが、オフィスありで相場は7万円くらい。DELLが飛び抜けて安い(5万円)のですが評判が悪すぎるのでたぶんそういうことなんだろうなと。信頼のIBMで決めようかな・・・。

そしてamazonのアフィリエイト規約が変わったせいでamazonjsの画像が全く出てこなくなってしまった。
これもどうしたものやら・・・。


映画『コーヒーが冷めないうちに』

を、見ました。

なんというか、いろいろ誤解のある作品だなあ、と。まず無理矢理場面を「喫茶店」の中に限定せざるを得ない「設定」のややこしさと、そして冒頭の喫茶店に座っている客人が全員お互いにしゃべりだすあの感じ・・・これは学生演劇でやったらもっと面白いんじゃないか? と思いながら見ていたのですがあとで調べてみるともともとは演劇の脚本たったんですね。ぼくがいろいろな書評ブログで目にしたのは、小説版のあまりの評価の低さだったのですが、それはあくまでも「小説」の作法を守れていない無理な改作だったが故だったのではないでしょうか(実際に小説版は一文字も読んでいないので想像するしかないのですが)。

まあ、設定の無理矢理さとか、わかりやすいお涙ちょうだいとか、妊婦が全力疾走したりとか、どう考えてもおかしいところはあるのですが、演劇だったら「まあ演劇だし」とか、あるいは演劇特有の笑いに変えてしまう力なんかがうまくはたらいて収まるんでしょうが。なんというか小説とか映画のような遊び(=じぶんへの「つっこみ」を許さない)のない「くそまじめ」なメディアに乗せてしまうとちょっとそぐわなさが目立ってしまうというのが、この一連の毀誉褒貶を見るにつけ、そこもふくめて「おもしろいなあ」という感想です。

ということで、そんなにひどい作品なんだろうか? という先入観で見始めた鑑賞者はやはり同じ感想を抱えたまま見終わるのですが、いずれにせよマスコミのあおり文句も含めて、自分の目で確かめることがなによりも大事だとあらためて思わされる妙な作品でした。