夏目漱石『草枕』(青空文庫)

を、読みました。

あまりに有名な冒頭はともかくとして、文庫本であれば漢語の洪水にいちいち巻末の注釈を拾いながら読み進めるのが途中で嫌になることこそあれ、青空文庫であればかえって適宜ネット検索して意味を取ればあとはストーリー重視で読み進められるところが良いのかもしれません。原文そのものにガツンと近づけると言いますか。

それにしても何回か読んでいるはずなんですが何回読んでも正直面白さがよくわからない小説です。「非人情」というキーワードが何回も出てくるのですが、芸術家として作品をものする境遇=非人情の境を主人公の画家は求めて山路を行くわけですが、結局そこで待っていたのは温泉宿の人情ずるずるべったりの世界。特に床屋の描写だけは何回読んでも面白いわけですが(ほとんどつげ義春の世界です)、お那美さんのあまりに自由奔放さなどはモデルがあるようですが、いまいちよくわからない(狂女、という噂を立てられているわけですが)。モデルが先にあって、その対立項として画家が登場人物として立てられたのかもしれませんが。そういう読み方でよいのか・・・特にラストシーンの読み方が判然としません。


岩井俊二『ラストレター』

を、見ました。

内容はもう、上の予告編のまんまですね。ストーリー自体は、設定さえ与えてしまえばある程度予想できてしまうものでしたし、ところどころ「それはありえねーだろ!」と突っ込みたくなるようなところもあるのですが、映画はそもそも実写ではありますがリアリズムに隷属するものでは決してなくて、岩井俊二によるこれは(この人の映画はどれもそうなのかもしれないのですが)一種のおとぎ話というか、ファンタジーなんだろうなと。

東北地方の川の流れが上空から映写されるさまは、おそらく小説で言えば三人称の神の視点を思わせるところがあって、秀逸。もしこれが福山雅治の独白で終始していたら、こんな青春映画に似たさわやかさはなかったでしょう。そもそも出てくる女の子二人の特に森七菜は、なんというか十代のこの一瞬でしか切り取れない表情をしていて、こういう女優さんは久しぶりに見たなあ。


夏目漱石『吾輩は猫である』(青空文庫)

を、読みました。

長い作品ですがほとんどが苦沙弥先生を取り巻く「おしゃべり」の交歓なので、ちょびちょび読み進めるのにちょうどよい作品です。それにしてもあらためて読み返すと、後年の漱石のキーワードともなるべき記述がそこかしこに出てくるのは面白いです。この作品の要はあらゆるもの=明治期の文明開化に翻弄される人間たちの姿を、猫である吾輩の目を通じて茶化し倒す、そのことに極まっていると思います。

おそらく当時の読者はもっと「元ネタ」が分かるものだったのだろうと思うとちょっと悔しいのですが。青空文庫は注釈が当然ないですから、その辺は半分くらいしか楽しめていないかもしれません。うがちすぎかもしれませんが寒月にわざと擬古文調でしゃべらせて硯友社的な文体を茶化しているようにも見えたり。

後年の『こころ』の冒頭に出てくる鎌倉の海水浴も、『吾輩~』で当時の海水浴の効能について記述がありますし(例によって小森陽一の講義のごとくですが)、金田嬢をめぐる三角関係も(一瞬四角関係にまで行っているようにも見えますが)けっこうあっさり書いてあるようでちょっと東風の立場はあんなに淡々としていていいのか読んでいるこっちがひやひやする一方で、あっさり寒月は地元で結婚してしまうし。漱石が『三四郎』以降、執拗に書き続けた「三角関係」が、意外と読み落としがちですが『吾輩~』にもちゃんと(ほんの少しですが)登場するんですよね。あと忘れてならないのが天然痘によるあばたの悩み。

それ以外にも、それこそ「金田」に代表される実業界=金を持ってている者たちに対する怨嗟、神風連にも似た西洋文明に対するいわれなき拒絶感、そしてなにより苦沙弥先生の家族親類、おさんもふくめた女性の描写がとにかく活き活きとしていて、本当にあの時代にこれほどの完成された、これほどのボリュームのある作品が出てきたのは奇跡としか言いようがないくらいです。あの時代のあらゆる対立項が満遍なく入れ込まれていて、明治という時代のあらゆる矛盾がアルバムをめくるように開陳されていきます。

なによりも猫を通じて人間を活写するという、近代日本文学があれほど描写の後ろに寝ていられないほど苦悩した人称の問題を即座に解決する設定の鮮やかさは唸るほかありません。こんなことを近代文学史の初っ端でやられてしまったら、後年の作家は歯が立ちませんよ。よくぞこんな設定を思いついたもんです(もちろん、心内文が出てくることに対する言い訳もちゃんとされているあたりが、抜け目ないのですが)。

夏目漱石は断然三十代以降で読み返すと面白い発見がありすぎて楽しいですね。もうしばらく青空文庫を渉猟する日が続きそうです。


森鷗外『伊沢蘭軒』(青空文庫)

ようやく読み終わった。渋江抽斎と同じノリで読み始めたらずいぶんと違った。ほんと、よくこんな新聞連載が許されたもんだ。鷗外自身も最後の最後でいよいよと作品に対する毀誉褒貶があった(どっちかというと”貶”の方ですが)ことを告白しているけど、まああの時代であっても読者を選ぶ作品であることは間違いなかったのでしょう。分量的にも「歴史そのまま」を体現した純粋客観の史伝を目指した労作と言っていいのでしょうが、これを読了して蘭軒の人となりがおぼろげながら読者の心に思い浮かぶか? 正直、一読しただけではわからない。蘭軒が亡くなるのが全体のちょうど半分まで来たところで、そのあとも子供たちが亡くなるまで、あるいは門人たちの動静の微細まで描き出すのを読むのは本当にしんどかった。漢詩、漢文の手紙はほとんど読み飛ばしてもまだしんどい。鷗外はまだ同じ医者として医学的な観点からの面白さもあったのかもしれませんが。石川淳が激賞しているようですが、もうほんと玄人中の玄人の世界でなかなかついていけませんでした……。


三浦佑之『古事記を読みなおす』

を、読みました。

それにしてもキンドルの月一セールでは往年の筑摩新書の名著が安く手に入るので毎月楽しみにしています。今月は本書を読みました。

口語訳古事記がベストセラーになったのは記憶に新しいですが(と言っても10年以上前のことになってしまいますが……)同じ著者による、いわば研究の最前線を論文という厳密性の世界では書けないやわらかい状態で差し出してくれる、新書ならではの内容です。

よく日本書紀と古事記とが「記紀」としてひとくくりにされてしまうことに絶対反対の立場で、この二つは似て非なるものであると。体制側が自らの正当性を証明するためのいわば人工的に生み出された歴史記述が日本書紀だとすれば、古事記は戦いに負けた側の思いを後世に伝えるための「語り」の場である、と。その二つを都合よくミックスして「記紀」にはこんな風に書いてある、などと言うな! というのが著者の主張です。まさにその通りなんでしょう。

実はぼく自身はまだ古事記を読んでいないのです。いま10年がかかりで通読をかんばってる新潮日本古典集成もまだ古事記の巻を読むのは先になりそうですが、まあそこまでのお楽しみの予告編ということで本書は楽しく読ませていただきました。それにしても古事記のような古典の決定版のようなものもまだまだ研究の余地が多いというのは驚き。もちろんそれは戦時中の国策に乗せられてしまった研究史としての「哀しみ」もあるんでしょうけど。ぼくは国文科出身ながらも怠惰な学生でしたので、津田左右吉も、真っ茶色になった古い岩波文庫の『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を図書館でぱらぱらめくるのが精一杯でしたが、古事記の研究史自体もこれは一つの研究のテーマになったりするんでしょうね。


小日向京『考える鉛筆』

を、読みました。

しかしこの、実家に帰るとなぜか学生のころ使い切れずにため込まれている鉛筆が大量に見つかる問題はどう解決したらよいのか? それはもう、会社だろうが何だろうが「使う」ことにしかありません。でもたぶん10年くらいは筆記具を買わなくて済みそうなくらいなんだよな……。せっせと原稿用紙を埋めるのに使いなさいっていう天啓なのかもしれません。

本書は、まさに鉛筆というモノに対するフェティッシュなまでのこだわりが爆発しています。より正確に言うと、このモノを使うことに対する異様なこだわりというか。でも読んでいて何となくわかります。これくらいこだわっていると一本一本しっかり使っていこうという気になります。とりあえず実家鉛筆問題のためにたまに読み返すことになるでしょう。

本書で感心したのは、一番最後に出てくる下敷きへの呪詛なんですよね。これは学校教育において実際どこまで本当かどうかわかりませんが、筆者が言うには、下敷きがあるからこそ子供たちはぎっちぎちに筆圧を高めて鉛筆を使わなければならないのだと。そうではなくて、本来、鉛筆というのは黒鉛を紙の凸凹に擦り付けて筆記するものなのだから、そんな不要な力を入れて使うものではないし、正しく使えばノートのページに裏写りするなんてことはあり得ないのだと。なるほどな~。これもたぶん2Bを普段使いするかHBを普段使いするかでも変わってくるかもしれないですね。あと、あえて言えば学校教育で硬筆の時に必要な下敷きというのはハードなプラスチックのものではなくて、デスクマットのようなソフトなものです。ぼくも今回、ソフトな下敷きを手に入れまして使用してみましたが、なかなかに使いよい。ただ筆圧問題は別かもしれないですけどね……。ぼくも筆圧が高すぎる方なので、メモ取っているとすぐにへとへとになってしまい、万年筆を使い始めた時も慣れるのにだいぶ苦労しました。

万年筆と言えば、あわせて我が家からはプラチナの万年筆インク(カートリッジの方です)も二箱見つかったので、いったんはこちらを使い切るべく1000円万年筆を新たに購入。いったいぼくの過去の人生でいつプラチナのインクなんて必要だったのかわかりませんが……とりあえず連休明けからの仕事に対するモチベーションはこいつでたたき起こす感じ。


清武英利『しんがり』『奪われざるもの』

思うところあり、読了。前者はドラマ化もされているようですが、山一證券の破綻の際にその原因の一つとなった簿外債務の調査にあたった社内チームの物語です。監査の部署にあった人間(しかも役員)たちですから、結局会社に非があることをつまびらかにすることは自分たちの業務を自己否定することになるわけで、既に店仕舞が進んでいく中でこれを並行して調査報告書としたことは並大抵なことではないと痛感します。その苦労は最後、少しだけ報われるわけですが、そこは人間として少しだけ救われる。組織の人間は自分の収支決算を見て仕事しているわけではないのでしょうが、それでも「義憤」というのでしょうか、そういうものが無給で人を働かせるというのはこれが最後の時代だったのかもしれません。かっこよく言えば、魂の収支報告というか、そんなもんじゃなかったと思いますが。

破綻した1997年は、ぼくは中学か高校生くらいだったと思いますが、横浜駅の西口の相鉄を出たすぐのところに山一証券のビルが確かあって、いつの間にか「メリルリンチ」という当時は全く聞きなれない名前にある日変わっていたのをよく覚えています。山一証券の旧社員の方は多くがメリルリンチに再就職できたそうですが、それも結局は山一の末端社員は優秀であったということのようです。

もう一冊の『奪われざるもの』はソニーの「リストラ部屋」についてのルポですが、こちらはあまり華々しい内容ではないものの、ソニーという何が本業かもはやわからなくなってしまった会社で「技術者」たちがもがき苦しむ姿を描いています。サンヨーと同じとは言いませんが、一つのプロダクトで食い続けるということの難しさ、あるいは家電業界の王道なきばくちさというか、世の中安泰という言葉は本当にないなあと改めて思い知らされる読書経験でした。

ある意味でこういう覚悟を持ちながらも、日々の業務に邁進するという悲哀。そしてその悲哀を決して面には出さずに、部下を鼓舞し続けていくことの管理職のこれまた悲哀。でも奇しくも1997年にヒットした『ビーチボーイズ』というドラマではいいセリフがあったんですけどね。