きょうにっき

本日も7時上がり。ご飯を食べてからJUSCOに行って買い物。煙草は一日一本。

ここ一ヶ月くらい写真について考えつづけている。

スーザン・ソンタグ『写真論』
ロラン・バルト『明るい部屋』
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』
『世界写真史』(美術出版社の例のシリーズです)
『写真の歴史』(知の再発見双書のシリーズです)
荒木経惟『東京夏物語』
ホンマタカシ『たのしい写真』

などなど、関連図書をだいぶ読んだ。一般的な知識、写真はそもそも芸術なのかという古くて新しい問い、連続する写真としての映画、あらためて現代において写真とは、メディアとは──。なんてことをいろいろと学んだ。

バルトは相変わらず書記の中で思考をめぐらせていくテクストの快楽方式で叙述を進める。いくつかのキーワード──ストゥディウム、プンクトゥム、《それは─かつて─あった》云々──は彼独自の語法ではあるが読んで理解できる。バルトが自分がなぜこの写真が好きなのか、なぜこの写真の主題と全然関係のない部分に自分の目が行ってしまうのか…をそれらのタームによって一生懸命説明しようとするその書きぶりが美しい。

写真は個別にしか語ることができない。それは光を写したものであり、単なる現象でしかない。そこに物語を読み込むのは人間の想像力が為せる業であり、写真家という作為──フレーム、アングル、被写体、あるいはそれが偶然か演出か──は様々な要素をはらみながら欲望をかき立てる。

『東京夏物語』は荒木がタクシーの中(それは確かにカメラオブスキュラなのだ)から夏の東京の街を写していった、ただそれだけの写真集。これを2003年の夏のある日本の都市の考古学的資料として読む人間がどれほどいるのだろうか? いや、この問い方はまずい。本来写真とは単に資料でしかないはずだ。だからなぜこの考古学的資料に人間は過剰に意味を見いだそうとするのかをこそ、考えなければならないのだろう。

それにしても──青山通りで小さな子どもにジュースを買ってやっている若い母親の姿、それは明らかに「自動販売機でジュースを買う」ということをはしたないことと感じている数少ない階級の人びとであろうか、その鋭い眼光は見る者の心をかきむしる、そこには確かに物語がある、と感じでしまう。

一方でメディアの中の写真・映像をソンタグは彼女得意の倫理観の俎上に上げる。彼女は繰り返す、何事にも懐疑的であれと。『他社の苦痛へのまなざし』を書いた著者の言葉である、軽々しく読み飛ばさぬことが賢明だろう。

写真の含意は、世界をカメラが記録するとおりに受け入れるのであれば、私たちは世界について知っているということである。ところが、これでは理解の正反対であって、理解は世界を見かけ通りに受け入れないことから出発するのである。理解の可能性はすべて否といえる能力にかかっている。厳密にいえば、ひとは写真から理解するものはなにもない。──スーザン・ソンタグ「プラトンの洞窟で」

ついでだから書いておくとソンタグの倫理観は決して予定調和的でない。言葉に背骨があるのなら、彼女のそれはぴんと張っている。それを読むことは、常に読むもの自身の人生の教条に跳ね返ってくる、強い力で。だから、比較するのもおこがましいが現代日本の自称文化人たちの繰り言とは全然違う次元にある。『良心の領界』のシンポジウム記録を読んでいるとソンタグの出色の度合いに圧倒される。

そんなわけでぼちぼち一眼レフもほしいなあー。

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