方寸の想い~ボーナスなんかいらねえよ、なんちゃって。

あいかわらず休みの日は本ばかり読んでいる。最近はちょっと遠くにあるウェンディーズまで車で行って一時間くらい文庫本に没頭する。マクドナルドもあるのだけれど子供連れが多いしなんと言っても寮から近すぎる。車で十分というのは意外にも結構な距離で、そしてまた店内は(おそらくは)東京と変わらない洋楽の有線がかかっているから少しだけ鹿嶋に居ながらにして渋谷の一角にいるような錯覚を覚える。

北関東の景色というのは本当にどこでも似たり寄ったりで、大型電気店と大型ホームセンターと大型パチンコ屋ととにかく広大な駐車場。いやになるくらい廣い空。特にここは海は近いのだけれど山がないから季節感があまりない。とにかく人工的な街だ。なにせ三十年前に高炉が出来たことによって生まれた街だ。たとえばここには三十年より長い歴史を持つものは少ない(ぼくが知らないだけなのかもしれないけれど)。

卒業式の日に教官が言っていた「大学というのはあまりにも特殊な場所」という言葉を今になって身に染みて感じる。学生に戻りたいとたまに思うとき、それは勉強をしなおしたいということではなくて、単にあまりにも多すぎる自由な時間のなかにまた戻りたいということと同義であることが常だ。でもそれは残念ながら一度外に出てみなければわからない。もしあなたが今大学生なら、たっぷりと時間を無駄にしてそして卒業してから後悔して欲しい。そうすることでしか時間の大切さを信じることは出来ない。

スピード社会という。そんなもん関係ないと思っていた。でも自分の自由になる時間の少なさに驚く。早く、急いで、自分のやりたいことをやらなきゃ終わってしまう。三島由紀夫は大蔵省に入ってから九ヶ月で辞職し小説家に転身した。比較の対象にはならずとも、自分の出遅れに焦る。原稿をダメ元で出版社に送ったりしている。返答はない。その割に書いていない。なにがしたいのか、なにになりたいのか、だんだんわからなくなってくる。それまでの生活パターンを崩したくないだけに本に依存しているような気もする。正直、読み過ぎだよあんた、と言いたくなる瞬間がある。世界中の本を読み切れる訳じゃないのに、あとからあとから買わないと気が済まない。活字を追っているときだけ、現実から目を背けていられる、その安堵感。どうすんのよ、これから、本当に。

新聞の投書に図書館員の給料が少なくてやっていけないという内容のものがあった。けれど五時に帰れて書物の近くで働くことが出来て10万円ならぼくはうらやましいと思ってしまう。でも、同時に電気代も水道代もかからない寮に住んでいる自分の生活も十二分に「うらやましがられる」要素を持っていることも忘れてはいけないと思う。

この四メートル四方の空間からおまえはなにを生み出すんだ。
創作こそぼくにとって価値観のすべてだ。

…と、思いたい。

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