小川洋子『密やかな結晶』を読みました。

講談社文庫で400ページのちょっとした長編ですが、読みやすく長さを全く感じさせない作品でした。小川洋子は一貫して(と言うと言いすぎかもしれませんが)記憶をテーマにした作品を書き続けています。1994年に単行本が刊行された作品なのでキャリアの中で最初期です。だからなのか、長編としての密度は正直言うとあまりなく(読みやすさとは別の話として)、エピソードは重ねられるもののいまいち話についていけない部分もややありました。

まずそもそも主人公の小説家と編集者のR氏のひかれあう根拠がいまいちつかめない。R氏に至っては奥さんもいるうえに、子供が産まれるタイミング。それなのに担当している若い女の小説家の家にかくまってもらうっていうことへの葛藤もないし、なんとなく主人公に対するボディータッチも激しいし、なんだこの男? という感触。主人公側にしても奥さんに対して、R氏の無事を定期的に報告するのだけど、「こんな私にかくまわれて奥さんは私たちのことを疑ったりしないのだろうか?」という葛藤もない。そのあたりが、そういう物語だから、と言われてしまえばそうなのかもしれないけれど、たとえばこの編集者が家庭よりも小説を編集することに偏執狂的な人物であるとか、主人公側も実は密かに思いを寄せていてこのチャンスに不倫をはたらいてやろうと思っていた……みたいな奥行きがあればもっとも面白かったのではないか。

作品内世界をさらに舞台上の舞台のようにして、主人公が書く小説も挿入されるのですがやや屋上屋を重ねるような感じがします。そもそも作品内世界が現実ではありえない世界になっているので。だから、たとえば「声」をもっと前面にテーマとして出していくとか(想起させるのは、『はちみつとクローバー』で真山がつぶやく「声っていつまで覚えていられるんだろう」という、あれは何気ない一言のようでいてとんでもない決意を秘めたセリフなんだと思う)、あるいは母親の託した彫刻にもっとミステリー的な要素を込めておくとか、そういう書かれ方もこの小説はありえたのではないか。

そんな感想です。

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