夏目漱石『吾輩は猫である』(青空文庫)

を、読みました。

長い作品ですがほとんどが苦沙弥先生を取り巻く「おしゃべり」の交歓なので、ちょびちょび読み進めるのにちょうどよい作品です。それにしてもあらためて読み返すと、後年の漱石のキーワードともなるべき記述がそこかしこに出てくるのは面白いです。この作品の要はあらゆるもの=明治期の文明開化に翻弄される人間たちの姿を、猫である吾輩の目を通じて茶化し倒す、そのことに極まっていると思います。

おそらく当時の読者はもっと「元ネタ」が分かるものだったのだろうと思うとちょっと悔しいのですが。青空文庫は注釈が当然ないですから、その辺は半分くらいしか楽しめていないかもしれません。うがちすぎかもしれませんが寒月にわざと擬古文調でしゃべらせて硯友社的な文体を茶化しているようにも見えたり。

後年の『こころ』の冒頭に出てくる鎌倉の海水浴も、『吾輩~』で当時の海水浴の効能について記述がありますし(例によって小森陽一の講義のごとくですが)、金田嬢をめぐる三角関係も(一瞬四角関係にまで行っているようにも見えますが)けっこうあっさり書いてあるようでちょっと東風の立場はあんなに淡々としていていいのか読んでいるこっちがひやひやする一方で、あっさり寒月は地元で結婚してしまうし。漱石が『三四郎』以降、執拗に書き続けた「三角関係」が、意外と読み落としがちですが『吾輩~』にもちゃんと(ほんの少しですが)登場するんですよね。あと忘れてならないのが天然痘によるあばたの悩み。

それ以外にも、それこそ「金田」に代表される実業界=金を持ってている者たちに対する怨嗟、神風連にも似た西洋文明に対するいわれなき拒絶感、そしてなにより苦沙弥先生の家族親類、おさんもふくめた女性の描写がとにかく活き活きとしていて、本当にあの時代にこれほどの完成された、これほどのボリュームのある作品が出てきたのは奇跡としか言いようがないくらいです。あの時代のあらゆる対立項が満遍なく入れ込まれていて、明治という時代のあらゆる矛盾がアルバムをめくるように開陳されていきます。

なによりも猫を通じて人間を活写するという、近代日本文学があれほど描写の後ろに寝ていられないほど苦悩した人称の問題を即座に解決する設定の鮮やかさは唸るほかありません。こんなことを近代文学史の初っ端でやられてしまったら、後年の作家は歯が立ちませんよ。よくぞこんな設定を思いついたもんです(もちろん、心内文が出てくることに対する言い訳もちゃんとされているあたりが、抜け目ないのですが)。

夏目漱石は断然三十代以降で読み返すと面白い発見がありすぎて楽しいですね。もうしばらく青空文庫を渉猟する日が続きそうです。


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