最近気になる曲

Perfumeというアイドルグループのポリリズムという曲らしい。官製(じゃないけど)キャンペーンにしてはセンス良くまとまってるなあと感心していたら、さすがこの曲はcapsuleの人が作っているみたいですね。

capsuleはなんかむかーしラジオの番組があってよく聞いていた、かつ去年ビレッジバンガードでなぜかCDが売っていて再会。テレ東のトレタマのOPもこの人です。

あとパチンコのCMで耳にしたこの曲も気になる。

エバンゲリヨンとかそれ系のあれやこれやってまったく門外漢なんだけどこの、♪いっちまんねんとにせんねんまえから~はよくよくクレジットを見ると菅野よう子じゃないですか・・・。

これもまたラジオつながりなんだけどNACK5の土曜の深夜だったかに坂本真綾とか新居昭乃とかがしゃべっている番組があって(いまもやってるのかな?)、そこでアニソンの作曲者としての菅野よう子を知ったのだけれど、そのあとtokyo.soraとか最近だとハチクロの映画のサントラも作っていて本人名義のCDは一枚しか出していないにもかかわらず仕事の幅が広い。前にもMicrosoftのCM曲についてのエントリーを書いたけれどCMの曲もだいぶたくさん書いているようです。まとまったCD出れば買いたいんだけどなー。


最近の生活

最近の生活をば。

金曜日

仕事後、室の若人と飲む。あまりに調子がいいので二次会でスナックに行っても大はしゃぎして「なんちゃって東大生」様でボトルキープしてくる。12時に寮に帰ってきて同期とまた飲みに行く。盛んに創作について語り合ったが結局何時に帰ってきて何時に寝たのか不詳。

土曜日

カレンダーの都合で土曜出勤。完全に二日酔い。しかも土曜出勤とわかっているのでまったくやる気なし。眠すぎて四時に帰ってきて八時まで寝る。当然夜は眠られず。

日曜日

近くに出来た眼鏡屋さんに眼鏡を買いにいく。近頃は眼鏡が安くて本当に嬉しい。何本も作りたくなる。とりあえずカラーレンズをやってみたかったので注文。21000円也。安すぎ。夜は同期と部屋飲み。

月曜日

午後一時にご起床。車を洗う。安部総理の中継を見る。マルケスの『百年の孤独』を読み始める。途中風呂に入り、ホカ弁を買いに行ったりもしたがあまりのおもしろさに今に至る。

今週は毎日イベントです。寮の幹部会、ボーリング、飲み会、飲み会。仕事もしなきゃ・・・。


三連休は引きこもる その三

さて、最終日。
昨日はやっぱり午前二時まで同期と酒を飲んでいたので今朝は午前十一事ご起床。

さっそく豊島ミホに取りかかる。

これはなんかもー、失敗作? お姉さんが中学生をペットにする話です。話の破綻ぶりがすごい。しかし今までとは違う。確実になにか殻を突き破ろうとして突き破れていない感じがする。作者の成長の過程で必ずこういう作品ってある。次作に期待が高まる。

そうして次。

で、その予感はばっちり当たる。この短編集で確実に豊島ミホは作家豊島ミホになっています。小学生を主人公にした短編ものですが確実に一つの小説が一つの世界観をがっちりとものにしています。豊島ミホで一冊人に勧めろといわれたらこれを勧めます。

さて最後。

これはまた電波系コバルトに逆戻り。中学の卒業式の日、10年後に会う約束をしたミュージシャン志望の男の子と漫画家志望の女の子の、10年後のその日までの物語。まーたそんな、という声も聞こえてきそうですがでも『檸檬のころ』よりはずっとすっきりまとまっています。

で、このあと作者は『神田川デイズ』『ぽろぽろドール』『東京・地震・たんぽぽ』と発表していくわけですが、実際、それは既に初期の危うさを完全に脱しています。

さて、三連休最後のデザートは『僕等がいた』。

相当話題になっているので一言物申そうと思って全巻購入。一気に読み干した。

すごい、これは、ただの少女漫画ではなかった・・・一巻だけ読んだときは「なんだこれ、この調子で12巻まで続くのか」とびびったのですが巻を追う毎に事態は深刻化していく・・・。

豊島ミホともくっつけて言うと、やっぱりその人の記憶ってなんなのだろう、と。『僕等がいた』では繰り返しその疑問を読者に突きつけてきます。

記憶と思い出は違う。思い出は過去のものかもしれない。けれど記憶ってダイレクトに今ここに結びついている。いやむしろ記憶こそがぼくたちを生き動かしているんじゃないのか。記憶こそがぼくらが今を生きているという実感の源なんじゃないのか。

山本妹の姿は12巻になってようやく詳細に描かれてきますが、普通の少女漫画が地味キャラの脇役で片付けてしまうところを『僕等がいた』ではていねいに彼女の苦しみも、舞花という対照的な人物を配置することによってより効果的に描いてくれています。

この、普段は絶対に主人公にならない人たちの心の葛藤とか苦しみ──それはまさに自分が主人公になれないという苦しみであるのですが、それをちゃんと描いているところがすばらしいと思う。

いやだってさ、中盤かなり七美と元晴の、なんだか『グッドモーニングコール』(余談だけどクッキー連載の続編はあんまり面白くないね・・・)を想起させるのほほんぶりが描かれるけど、常にバックには死んだ山本姉への疑義があるし、竹内といい千見寺といいこれだけサブキャラがサブキャラに納まることなく描かれている漫画ってなかなか無いよ。

で、話は戻るんだけどたとえば昨日の夕飯に何を食べたかをすぐに思い出せなくても、子供のころに父親に青梅鉄道公園につれて行ってもらった時のあの坂道とか、大学時代女の子と上野公園を歩いたときのあの日差しの強さとか、ぱっと思い出せるものってある。

そういう意味で記憶っていうのは必ずしも今この時点を起点に濃度が決まるんじゃなくて、その時その時でぼくらは時計の針の上では均質な空間を移動しているのだからやっぱりその意味で平等だと思う。記憶される対象として、個々の出来事が。

で、なんでそこに優劣がこうもはっきりと出来るのか、不思議でしょうがない。もちろん大切だったから覚えているんだろうけど、思い出として思い出すのと、豊島さんみたいに作品にせずにはいられない記憶──それは全然思い出になっていなくて、書いたからって思い出になるものでもなくって、常にそれは今生きているぼく自身をさいなんで来るという意味で記憶というのは「過去の出来事を覚えている」というところに全然とどまっていない。そのことが『僕等がいた』(「いた」って過去形ですよ!)ではものすごく重要なテーマになっている、のだと思う。

・・・てなことを興奮しながら風呂で考えていたらこんな時間になってしまった。今日はあと『NANA』の最新刊を読んで寝ることにします。

では皆様も楽しい読書ライフを!


三連休は引きこもる その二

昨夜は二時まで同期とだべっていたので午前十一時にご起床。
コンビニでサンドイッチを買ってきてさっそく豊島ミホに取りかかる。

あまりにセンスのない表紙イラスト・装丁にびびる。中を読んだらお兄さんは日光に当たると死んじゃう病気で、そいつが主人公の女子中学生と逃避行する話。わー、こう書いちゃうととっても面白くないんだけど、やっぱり『底辺女子高生』で家出話を読んでしまったあとなので作品そのものというよりはあの作者がこんな話書いてるということに興奮。

次。

今度は毛色が違って親父が野生児を育てていて主人公の女の子が「汚い大人になんかなりたくないっっ」って野生児に感情移入する話。特に面白くない。

次。

これは最近映画になったやつです。底辺女子高生にだいぶ取材している作品。なんとも甘酸っぱい。完全にコバルトです。

実はあまり感心していない、個々の作品そのものについては。

ではなぜ豊島ミホを読んでしまうかというと、この人の自身の高校時代への限りない哀切さを、それだけを武器に小説を書き続けているというその姿勢に学ぶところが多いから。

ぼくにとっては大学に入ってからのことをネタにすることが多くて、豊島さんの高校時代の一つ一つのエピソードからその記憶力の良さ──というか、人がなぜそれを今日に至るまで記憶していられるのかということに、ひどく救いのなさみたいなことを感じる(失礼、ある意味でそう思うのです)。

なぜこのモチーフでこの作者は繰り返し書き続けるのだろう。それは逆にぼく自身に対しても突きつけられる疑問です。なぜそうまでして記憶をさらすのか? さらさずにいられないのか? さらさないと自分を保てないのか?

その苦しみが、豊島さんの描くもの──というか、豊島さんがそれを描き続けているという事実に、勇気づけられはしないがなにかこう、ぼく自身と共有するものがあるんじゃないかと勘ぐってしまう。

まあ、この辺にしよう。

で、お夕食の時間です。
同期とココスに行ってくる。
帰りにTSUTAYAに寄ったら別の同期に会う。

で、帰ってきて今キーボード叩いています。
豊島デイズ残り三冊。これは明日感想を書けることでしょう。

ではまた明日。


三連休は引きこもる その一

昨夜二時まで飲んでいたので午後一時にご起床。
サイゼリヤで豊島ミホ『底辺女子高生』を読みながら昼食。
帰ってきて続きを全部読み変わる。

豊島ミホ、いいよ、この人、いいよ、ホントに。このエッセイ読んでこの作者なら信じられると確信した。家出の話とか、最後の卒業式の話とかなんかもう泣けた。

そんでもって同じく『青空チェリー』に取りかかる。

三つの短編入り。「ハニィ、空が灼けているよ。」は最終兵器彼女風。表題作はデビュー作。ここまで実はあまり感心できず。しかし「誓いじゃないけど僕は思った」は個人的にぐっと来る話だった、あくまでも個人的に。

そこで夕方だったのでTSUTAYAに行って天才山下監督の新作を借りてくる。

この人はやっぱりどんづまりの田舎を撮るのがうまい。最後の乱射シーンの間抜けさ、けれどそこに至るまでの人々の救いのない駆け引きがたまらない。

でもなあ、あの乱射シーンの直前のほっとする家族の光景はなんだかずるいぞ。そんなもんで観客はだまされたふりしないぞ、と思いながらでも一方で悲劇にばかり酔いしれるのも良くないよなってなことを考えた。いずれにせよこの人は最後の最後はユーモアに落とし込んでくれるんだよなあ。人間って愚かだよなあって大笑いしちゃうような。BGMが少ないからわかりにくいだけ。

で、今に至る。

これからライフの最終回を見て豊島さんをもう一冊読んで寝ようっと。


豊島ミホ『ぽろぽろドール』

『神田川デイズ』以来ちょっと気になっている作家豊島ミホ。『ぽろぽろドール』を読みました。人形をめぐる短編集です。なかなかよい。

それぞれのお話において人形はいろいろなものを象徴しています。人に触れられたくない自分の恥部とか、やっぱり人にはあまり語れないような理想とか、そしてその理想というのは決して実現されることがないとわかっていたり、あるいは忘れられない過去とか、そういうもの。

装置として人形が使われていることにいささかのわかりやすさが気になる人もいるかもしれませんが、ぼく自身は結構すんなりと世界に入ることができた。たぶん描かれている状況設定が自分に近かったりするからかもしれない。

既に最新作『東京・地震・たんぽぽ』も積ん読されているのでこれも楽しみ。過去の作品も時間があったらさかのぼって読んでみたい。んー、久しぶりに全作品読みたい作家リストに載りそうです。

あとは最近読んだ本の紹介をば。

ネーミングセンスだけ。三浦展は当たりはずれ激しい評論家なんだけど、この本は「郊外で少年犯罪→郊外が悪い」というかなり短絡的な話を展開していて、郊外がいかに悪いかという部分はまあ多少は読めるんだけどいかんせん、論理が強引。

これも郊外関係で読む。あんまり主張系の本ではなくて、図版が多く今の日本ってこんなんなってますわー、という本。もちろん著者も判断を読者に意図的にゆだねているので別にそれはそれでよし。日本橋と首都高を巡る問題と上海の考察など面白かった。

よしよし、まだこういう本を読んでも感動できます。毎日新聞に連載されていたCoccoのエッセイで、毎日新聞のサイトで読めたときは読んでいたのですが、本になっているのをすっかり忘れていた。まあもう、これはあれこれ外野から言う本ではありません。

金原瑞人訳っていうのが粋だね! ヴォネガットの遺作です。常に宇宙から地球上の愚かな歴史を乾いたユーモアで描いてきた彼の、最後に至るまで一貫している批判精神にしびれますよ。

渦中の人の最新刊、フツーに売ってるし! 彼の趣味趣向を知っている人にとってはもう再確認するだけのエッセイですが線を引っ張りたくなる箇所多々。この美意識には共感できます。早く戻ってきてくれ、野ばらちゃん。

個人的にとても気に入った。本ばっかり読んでいるとこれでいいのか、このままでいいのか、という不安に駆られることもありますが、いいんだよそれでと後押ししてくれるすばらしい本です。あらすじ本はダメだとか保坂和志、エリックホッファーも出てきて、なんだか本好きな人は考えることが一緒なんだなーと一安心。

著者二作目。デビュー作『ようちゃんの夜』もたいがい読みづらい(これはほめ言葉ね)文体だったのですが、これもまた磨きがかかっていい味を出しています。素人臭さと結構紙一重な危うさがこの人の描くものの魅力なのかもしれない。職業作家っぽくなっちゃったらつまらなくなるかもしれない。今のところ、新設された新人賞の第一号作家というマイナーさが読む者の小説観に揺さぶりをかけてきます。

まあざっとこんなところ。今月の文学界は珍しく演劇特集で長塚圭史の新作が載っている! ので買ってきた。未読。あとは島本理生『あなたの呼吸が止まるまで』、小川洋子『夜明けの縁をさ迷う人々』、柄谷行人のシンポジウムシリーズなど積ん読中。なるべく感想書いて残しておきます、これからも。


自画像の証言@東京藝大

会期も残りわずかだったので見に行ってきました。上野は今日も暑かった・・・。そしてちょうど藝大の学祭期間中だったようでえらい人でした。

展示は一階に戦前まで、二階に戦後から平成までの自画像が並ぶという構成でした。さすがに昭和初期まではいかにも自画像という感じの立派なものが並んでいるのですが、昭和50年代あたりからあきらかに質が変わってきます。アートに変質していっているというか。女性も多く登場してきていますし。

ベタだけど印象的だったのは四年間使い通した携帯電話を出品していたもの。まあ、言いたいことはわかりますよね。

やっぱり自画像然としているものは個と社会との対峙が見る者にもその緊張関係を訴えてくるように感じられました。大学の卒業制作なわけですから、それはそういう意味を(決して「社会」を知っているわけではないのにもかかわらず)多分にはらんでいる。

ただ平成に入ってからは個の時代、というととてもつまらない表現ではあるのだけど、やっぱり自分が自分であるということをいかにして維持するのかというその方にばかり気を取られて、一種神経症的な作品もありました(個人的にはもっとそういうのを見たかったな)。

時代によって価値観も、また24、5歳という年齢が意味するものも変わっていく。その変化がこの展覧会を通してみるとよくわかりました。それにしてもとにかく昭和50年代ってとても大きな境界だよ。がらっと変わってたもん。

帰りはoazoと八重洲でしこたま買って帰りましたとさ。