「事故」なのか「事件」なのか

トンネル吊り天井の事故は本当に痛ましい。コンクリートから人へなんて言っているうちにコンクリートが人を殺めることになるなんて本当にやりきれない。ほんとうに必要なところに必要なお金が使われているのだろうか? 都内の首都高では同じようなことは起きないのか? 吊り天井式というのがどれくらいのトンネルに使われているのかわからないけれど、簡単に検査できない構造というのはやっぱりプロダクトとしてあってはならない。物は壊れるものなのだし、何かあってからでは本当に遅いのだ。

同じようにJR西の井手元会長被告人質問要旨も読んだけどヒドイもんだ。現場の危機感覚というのはトップが自らたたきこまなくちゃならんのだよ。経営者だから大局だけ考えてりゃいいってもんじゃないよ、それは「経営者」という言葉の使い方を完全に間違っているよ。

あー、なんかこのところtumblrとかでいろいろ遊んでいたのだけれど、最終的には食傷気味になってしまい、なんというか情報をひたすら消費させる仕組みというのは人間にとってとんでもない負荷で、しかもあとに何も残さないタイムコンシューミングなやっかいさを身にしみて感じた。はてぶとか流し読みしているのって極めてテレビのバラエティーを眺めているのとほとんど変わらないような気がする。あっちから来たものをただ受け止めるだけで(受け止めてもいないのだろうけれど)。

断片のタイトル記事だけを流し読みして何か「いま」に追いついたような気になっているのはとてつもなく危険だ。情報が断片化されるほど、もともとあった「情報化され得ない何か」がどんどん削げ落ちていく。あいつがこう言った、ということだけが独り歩きして、文脈は取り残される。

もちろんその面白さも十分理解しているし知っている。でも、そうあってはならないものだって世の中にはたくさんあるのだ。だからもっと読まなくちゃ、耐性のあるものを、長い文章を。そして書かなくちゃ、同じようなものを、たとえ読まれることは少なくとも。

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