写真を撮るということ

半年前から担当になった他部の予算の打ち上げ参加のため、室を一番で飛び出してくる。

18:30からとにかく料理を食べ過ぎて、後半はごろごろ横になりながら「経理はもっと現場に来い!」「あっ、××工場をまだ見たことがないんで今度つれてってください!」

人間関係には本当に恵まれてきた三年間だったと思う。それはどんなに担当が変わっても、みんな一生懸命に仕事をしてくれているのを良く感じられるポジションにいるし、こういう飲み会に気軽に誘ってくれる人が必ず現れてくれる。それはとても幸福なことだ。

飲み会のあと、同じ寮に住む同期のS氏の部屋に行く。

五年分くらいの彼と彼女(たち)の写真を見せてもらう。これがまた非常に面白い。言ってしまえばよくあるカップルのスナップなのだけれど、人に歴史あり、というか。

全然知らない人が自分と同じように青春時代と呼ばれるものを過ごしている。けれど彼らを全然ぼくは知らないし、その時その瞬間自分は全然違うことをしていただろう。

彼らがディズニーランドに行ってはしゃぎ回っていたときにぼくは卒論のテーマを暗い書庫で見つけていたのかもしれない。ぼくが目黒で女の子とお茶をしていたときに彼らは夜の高速道路を黙々と走っていたかもしれない。

それをつなぐのは、ただ同じ瞬間であったということだけ。

でも、わかる。

夏の光のわくわくさせる生命観とか、冬の水族館に吹きすぎる寒いけれど暖かい風とか、夜のレストランで出てきたチーズハンバーグのおいしそうな匂いとか。

今目の前にいる人間が、全く知らない時間を過ごしている。あるいは、過ごしてきた。

当たり前の事実なのだけれど、それが不思議でならない。

その片鱗を理解することができる。写真を通じて。そこに写っている光をぼくは全く知らないけれど、よく知っている。

今こうして文章を書いている今、あの人はどうしているのだろう。あるいはあなたがこの文章を読んでいる今、ぼくはどうしているのだろう。

ただ共通するのは同じ瞬間にぼくたちが存在しているということ。それは奇跡みたいだ。なにも知らないのに、目の前に見えているものしかぼくにはわからないのに、今この瞬間もあの人は生きていて、そうしてなにかをしている。それは奇跡みたいじゃないか。そして写真は、そんな瞬間が過去から綿々と続いてきたということをよく伝えてくれる。

ぼくはあまり写真を撮るほうではない。一人で過ごす時間が多いということもあるけれど、人といるときでも写真を撮るということはあまりない。なんというか、今を過去にするために写真があるのじゃないかと勘ぐってしまうからだ。

でも、彼らは違うと思う。写真を撮るという行為の現在性そのもの(ああ、ややこしい言い方だ)──今こうして写真を撮っているということ自体を楽しんでいるのがよくわかる。そうでなければスナップの意味はない。それこそがスナップの価値だ。そしてそれは決して美術館に飾られるものではないのだけれど(だれもそんなことは求めていないし)、多くのことをぼくに教えてくれる。

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