アウトプットのためのインプット

梅棹忠夫『知的生産の技術』、高橋克徳ほか『不機嫌な職場』、本田直之『レバレッジ時間術』、池谷裕二『進化しすぎた脳』、以下茂木健一郎『日本人の精神と資本主義の倫理』『すべては音楽から生まれる』『それでも脳はたくらむ』『脳の中の人生』『すべては脳からはじまる』『意識とはなにか』『ひらめき脳』『音楽を「考える」』『思考の補助線』『脳を活かす勉強法』『脳と日本人』『生きて死ぬ私』、よしもとばなな『王国』1~3、田村仁人『アタマが良くなる合格ノート術』、ひよこ舎編『本棚』、ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』、横田増生『アマゾン・ドット・コムの光と影』、羽海野チカ『三月のライオン』、辻邦生『安土往還記』、阿部謹也『自分の中に歴史を読む』、松岡正剛『知の編集工学』、橋本徹『まっとう勝負!』、村上春樹『ふしぎな図書館』

ざっとここ最近読んだ本。
なんというか、読み過ぎ……。
これだけインプットをしておきながらアウトプットが何もできていない自分が嫌なのです。オラオラこんだけ俺は忙しいながら読んだぜ、なんて自慢めいたことは1ミリもない。とりあえず何でも良い、やたらめったら読みまくるのは若いうちだけの特権であって、というのはつまり本の目利きとしての力が全然ついていないときの特訓方法なのであって、社会人になって金があるぜとばかりに本ばかり買い込んで日がな一日読みふけっているのは幸福なようでいてほとんど痴呆状態に等しい。なんというか、何時間もテレビを見ているのとおんなじ気がする。もちろん読書よりもテレビ視聴の方がパッシブだなんて議論は良くあるけれど、ここで問題なのはやっぱりインプットとアウトプットとのバランスが全く崩れているということ。

最近まともな小説何一つ書けてやしない!

というか、文章自体まともに書けていない。

これは危機ですよ。

だいたいぼくのこれまでの人生を振り返ってみて阿呆みたいに本ばかり読んでいた時期というのはほとんど何もアタマを使っていない時期なのです。使いたくないと決め込んだ時期なのです。現実がどうしようもなく嫌になって逃避したい心理の表れなのです。右から左へページをなぞるだけで、その実何もアタマには入っていないのです。咀嚼していない。

でもなんというか、脳関連の本ばかり読んでいました。どこかでブレーキをかけているんです。これが漫画をもう一度一巻から読み直すとか、文学史をもう一度勉強し直すとか、源氏物語にいよいよ手を出すとか、そういう状態だったらもう社会復帰は望めなかったかもしれない、なんとかしたい、なんとか今の状態を脳の観点から突破したいと必死にあがいているのかもしれない。

まあそれでも、ほとんどas a dead bodyでページを繰っていたわけですが。

機械的に蛍光ペンで線が引かれた読み終わった新書の山を眺めているとものすごい脱力感に襲われる。ただ読んだだけじゃないか。読み終わるためだけに読んだんじゃないか。明日からの生活のためになにか一つでも前向きになれるなにかを見つけられたのかい? いや、そこには書いてあるはずなんだ。ゆっくりと噛みしめるようにして読めばそれはわかるはずなんだ。あんたがせかせか急いでいるあまりに見落としているんだ。

この脱力感は毒だ。もう一冊も本なんか読んでやるものかと思う。世の中にはまだまだ読んでいない本がたくさんある。そのすべてを読むことはできないし、その一冊を読む前に読むべき本がたくさんあるはずだということもアタマではわかっている。

ただどうにも、心の渇望を満たすなにかが得られない。一冊読み終わるたびにその渇望は大きくなる。もしかしたらぼくの求めている答えが書いてある本なんてこの世には存在しないかもしれない。

だからこそまず最初にアウトプットがあるべきなんだ。

そのためのインプットという考え方が圧倒的に抜けている。

・とりあえずサラのファイルを立ち上げてよ
・インプットを絞り込む
・再読三読を読書の中心に据える

という方針で三月以降は行きたいと思います。
こうやってブログに書いておくことが大事だね。

アウトプットのためのインプット」への3件のフィードバック

  1. ポイント違うんだろうけど、能関連、興味ある!
    でもその、インプットとアウトプットのギャップに対する気持ちは少しわかるな。。

  2. しゃもぢ@管理人

    いやー、しかし日曜日の夜にものを考え始めるとほんとに後ろ向きだね。

    茂木健一郎はときどきうさんくさいけど池谷裕二はなかなかよい。ただ方法論におぼれないようにしなくちゃなあ・・・。

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