戦いの夜

北野武監督『菊次郎の夏』を見ました。

この映画に出てくる大人たちはみんな自由です、と書いたところで、おいおいあんたの言っている「自由」ってなんなのさ、という声が頭の中で響いた。この映画の本質とはぜんぜん別のところにある問題なのかもしれないけれど。

妻に食わせてもらっている菊次郎、全国をバンでうろうろする小説家志望の男、ハーレー乗り、任侠……。彼らは自分の時間の中で生きています。こういう言い方をしたときに必然的に対比されるのはサラリーマン。可処分所得と引き替えに時間を切り売る。金の自由か、時間の自由か。でもそう並べたときにはっとする。一体こいつらは選択肢として等値なのか?

明日の不安に時間を費やしたくない。日曜日の夜、強く思う。絶対値としての時間と感覚としての時間とが乖離する。不安だ。不安で仕方がない。けれどその不安が、もしも明日の食べ物に関わるものだったとしたら? 一体、時間と金とはどちらか一方さえ満たされればいいものなのだろうか? 考えて答えの出るようなものじゃない。かといって数学の問題のように「いちぬけた」で無関心を気取るわけにもいかない、それは一つの境遇だから。

最近連載されている朝日新聞のニートに関する記事を読んでいても思う。なんと人生とは自分で選ぶことのできるものの少ないことかと。さっきやっていた南米移住者のドキュメントを見ても思った。

と、とりあえず書いてみたんだけどいくらでも反駁できてしまう箇所ばっかりなのでこれ以上書き続けることを断念します。不快だし、こういうの、自分でこんな時間につづっていても。むちゃくちゃ。頭が働かない。切れが悪い。頭が悪い。

もう何度も引用した吉本ばなな『キッチン』からの一節をもう一度書いておきます。

なぜ、人はこんなにも選べないのか。虫ケラのように負けまくっても、ご飯を作って食べて眠る。愛する人はみんな死んでゆく。それでも生きてゆかなくてはいけない。
 ……今夜も闇が深くて息が苦しい。とことん滅入った重い眠りを、それぞれが戦う夜。

小谷美紗子「眠りのうた」でも聴きながら、おやすみなさい。

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