文学=?

柄谷行人『近代文学の終り』を読みました。

岩波から柄谷行人集も出て、卒論もこの人の著作に触発された部分が多かったのでなかなか楽しむことができました。浅田彰みたいに難しすぎないんですよね。ぼくにとっては努力して読めばわかるというちょうどいいレベルの知的刺激を与えてくれる著者です。

それにしても柄谷節! やっぱりいいねえ。

長い受験競争を経てやっといい会社に入ったというのに、あっさりやめてしまう人が多い。そして、「フリーター」になる。彼らは小説を書くかもしれない。しかし、そこには、立身出世コースから脱落した、あるいは排除されたことから生まれるような、近代文学の内面性、ルサンチマンはありません。そして、実は、私は、それは悪くない傾向だと思います。さらにいえば、そういう人たちは文学などやらなくても結構です。もっと違う生き方を現実に作り出してもらいたい。

「大きな物語」が崩壊した今はもうなにをやっても相対的な価値しか持ちませんから、もう?外や漱石と状況として同じ人生を歩んだとしても同じ問題意識を持つことはできないんでしょうね。それじゃ一体どこに現代文学の価値が現出するのか。柄谷さんはもう「文学と縁を切ってしまった」と言ってしまうんですが、それは優れて文学を目的論化した文脈から超越した態度なのだと思います。本当に文学的姿勢を貫くなら現代という時代においては文学なんかに手を出さないというものすごい逆説! それがこの本には蕩々と述べられています。なんだか表紙の写真のように寒々とした感覚になってくる本です。

まあでも、考えてみればそうですよね。「文学=小説」っていうのは思いこみで「文学=マンガ,絵画,市民運動,政治…」という可能性だって充分考えられるわけだ。自らの文学をなにによって表象するのか、ってことか。小説にばかりこだわってないでたまには違うこともしてみようか、という気にもなってきます。

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