たまにゃあ読書日記

山村修『遅読のすすめ』は大学時代図書館でよく読んだ本でした。レポートの作成のために小説を読んでいるとどうしても情報処理的な読書(学術書ならともかく小説ですよ!)になってしまい、そういうのに嫌気がさしたときよくひもといていたものです。

この本の中に高野文子『黄色い本』が紹介されています。


主人公の女の子が『チボー家の人々』という長編小説を読み終えるまでの心象風景とでも言ったらいいのでしょうか。彼女は主人公ジャック・チボーと家で、学校で、登下校でさまざまに対話します。革命への意志。その一方で就職をしなければならないという現実。

読了はすなわちチボーとのお別れです。そして主人公もまた新しい環境へ旅立たなければなりません。単に一つの長編小説を読み終わるというだけでなく、チボー的世界からのお別れでもあります。

――極東の人、どちらへ?
――仕事に…仕事につかなくてはなりません。〔中略〕革命とはやや離れますが、気持ちは持ち続けます。
――成功をいのるぜ、若いの!

これは泣けます。

そういえば自分も中学高校時代『ジャンクリストフ』や『レ・ミゼラブル』『カラマーゾフの兄弟』なんて長編小説に没頭していた時期がありました。最後の巻の残りページが少なくなってきた時の感覚って確かに忘れられないものがあります。読了した瞬間のなんとも言えない寂しい気持ち。マリユスよかったね、アリョーシャがんばったねと登場人物に完全に同一化した読書というのも一つの愉楽ではありました。

「書物」というものへの愛情もはしばしに見られる作品です。本が好きな人はオススメです。

そういえば魚喃キリコ『南瓜とマヨネーズ』の巻末対談で魚喃が高野文子を思わせるという指摘があり、またこの人の作品『strawberry shortcakes』も『tokyo.sora』と感じが似ているという話も出てきていて、別にそんなつながりを最初から知っていたわけではないのに自分の好きないろいろな本や映画ってやっぱり互いにどこか似ていてどこかでリンクしているということにあらためて気がついた。

好きなんだよね、ああいう表面上淡泊なんだけど内側に熱いものを秘めている系のお話って。

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