時間があれば金はなく、金があれば時間がない。
読みたい本が次々と届けられ、積まれていく。読むスピードが追いつけない。
その瞬間に読みたい本を読めばいいとは思うのだけれど、およそ買ってしまったなら読まなければならないという義務感にとらわれる。そういう状態で読んでも結局はとばし読み。右から左へ通過するだけ。それじゃ読んだことにならない。
べつに読書の話をしているのではなくて、時間の話をしている。
一刻一秒たりとも無駄にできない、してはならない、という強迫観念。
それが、社会人になってから日に日に強くなってきている。
目的意識というものから解放されて過ごした大学時代は、だからこそ得られるものもたくさんあった。むしろぼくはそういう人間なのかもしれない。
けれども「余暇の過ごし方」というテーゼの裏に張り付いている「仕事⇔遊び」という二元論。「有意義に」という目的意識がでっち上げられ、「リフレッシュ」という大義名分が月曜日の足を重くする。
平日は遅刻ぎりぎりまで布団の中にいる。可能な限り現実とのつながりを絶っていたいという抵抗。
ところが休日は夜の二時三時まで酒を飲み、七時八時に起きて洗車に買い物。寝てる時間なんてもったいない、休みなんだから何かしなきゃ、休みなんだから遊ばなきゃ。もったいない。
目的意識。
それはかつてぼくがもっとも憎んだもの。
でもそれは「生きていく=食べていく」ことが見えていなかった故の誤りだったのか。食べるために働かなければならない。そこに人間としての、生活者としての根本命題があるのならば我々は結局目的意識というものから真に解放されることはないのではないか。そんな気さえしてくる。
生活者、ねえ……。
こういうことを考えるとき、参考になる作家が見あたりません。
この記事がすでに小説のくだりっぽい☆
しゃもぢ兄やん、アンタすげぇよ!!
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