精読派の至福と『ノルウェイの森』

『リアリズムの宿』のDVDを結局買いました。90分にも満たない、しかも音声モノラルの映画に5000円も出すのはさすがに高いと思っていたのですが、やっぱりこの映画は手元に置いておきたいという気持ちが勝りました。

今のところぼくはレンタルとか映画館で見た映画しかDVDで買うということはしていないんですが、それというのも映画というのは細部がどれほど意識的に描きこまれているかがものを言うんじゃないかという価値観があるためで、たとえばハリウッドのように金ばっかりかけてこんなすごい役者です、こんなすごいCG技術使っていますよ、というようなうたい文句にはぜんぜん反応できない(すごい偏見ですけど)。

だから十の映画を一回ずつ見るよりはひとつの映画を十回見る派で、見れば見るほど新しい発見があるような映画はもう、台詞をおぼえるくらい見る。もちろんそういう映画と出会うことはなかなかないのだけれど。

逆に本に関しては長らく乱読派だったのですが、そろそろ精読派に移行しようかとも思っています。

僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度も読みかえすことを好んだ。〔中略〕
僕は気が向くと書棚から「グレート・ギャッツビイ」をとりだし、出鱈目にページを開き、その部分をひとしきり読むことを習慣としていたが、ただの一度も失望させられることはなかった。一ページとしてつまらないページはなかった。
(村上春樹『ノルウェイの森』講談社文庫,1991)

これは至福のひとつの形だと思います。村上春樹自身も『グレート・ギャッツビイ』はずいぶん高く評価しているようで、いつかは訳したいとどこかで言っていたように記憶しています。ちなみにぼくもハルキみたいなことを言ってみたいと思って辞書を引き引き読んでみましたが途中で挫折しました。

どうでもいいんですが『ノルウェイの森』では「永沢さん」がキャラ的には抜群に好きです。

他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥ずかしいことはしない。なあ知っているか、ワタナベ? この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。(村上春樹,前掲書)

だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね。(村上春樹,前掲書)

主人公「僕」とは対照的に(同様に、という言い方もできてしまうのがこの小説のミソなんですが)相当に自己目的的に生きている「永沢さん」の言葉が自分にとってどれほど有効なのかは、その人の生き方の試金石かもしれません。反発するか、共感するか、あるいはぼくはこんなことを言えるほどの強い自己がやっぱりうらやましかったりするんですが……そんな読み方は浅い?

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