ぼくのことなんか明日は忘れるくせに

卒論の口頭試問が終わって、カテキョの教え子もなんとかどこかに受かって、後は卒業するだけで、なんか急にだらけてきた。この前までは四月からに備えて学校がなくても七時起床を励行していたんだけど、急に起きられなくなった。早起きのススメ関係の本も何冊か読んで、社会人にとっての自由時間は早朝にしかないとうことがよくわかったから、前の日にどんなに飲んでも五時に起きてシャワーを浴びパソコンに向かって書きたいことを書く、会社に行く、仕事は決して手は抜かない、飲みに誘われても週一くらいに抑えて帰宅してまたちょっと書きたいことを書く、なんて生活を漠然とイメージしていたんだけど……それは、ちょっと、ムリだろ。

意外と、見えない不安にかられているのかもしれない。

卒論書き上げた日に飲みに行って「卒業しなくていっかー」とて居酒屋にわざと原稿を置いてきたなんて面白い話をしていた人がいたんだけど、ちょっと手放しで笑えない。

最近、自分で書いた就活のときの日記を読み返すことが多いんです。ネットにつなげたまま、口開けて(アホかい)。日記を書いておいて本当によかったと、いまさらながら感じています。あれがぼくにとっては原点と言うか、忘れてはいけない場所なんだ、というか。よく言いますよね、社会人一年目の志を十年持ち続けることができればそいつは大成するって。その「志」の部分があの日記にちりばめられているような気がして。

周りから見たら、ずいぶん贅沢な悩みですよ、たぶん。エリートサラリーマン路線一直線って見られますからね、嫌でも。実際そうなのかもしれないし、現実はもっと厳しいのかもしれないし、ぼくの意識の中でまた観念的にふくれあがっているだけなのかもしれないし、そのいずれかはわかりませんけど(会社の人だってたぶんわからないよね)いずれにせよ、社会の中の大マジョリティーに属していこうとしている方向性だけは確かのようです。

まとまらないので思いつくままに書いておきます。

結局、なにが不安なんだろう。いや、本当に不安なんだろうか。不安に感じているかどうかが不安だ(もーダメ)。学生時代にやってきたこととは全く異質の世界に入っていくわけだから、なにかが終わる、リセットされるという意識はあって、人に会うたびに「この人とはもうしばらく会えないんだなあ」という思いに一々させられる。なにかが終わる、終わらせる、って考えたときに当然浮かんでくるのが「そこでぼくはなにを成し遂げたんだろう」という疑問で、もちろんそこには「なんにもできてねーじゃん」という後悔がずるずると影のように、トカゲの尻尾のようにくっついてくる。なにかを成し遂げないと、終わらせちゃダメじゃん、なにも成し遂げていないのに終わっちゃうよ、学生時代! という不安。じゃあそのしっぽを引きずったまま新しいことをはじめてしまっていいのか、いや、そうじゃない、そんなことが自分にできるんだろうか、という不安なのかな。夢を実現しようと会社に行くわけじゃない、会社はそもそもあなたの自己実現の場じゃない、そんなの当たり前でしょ……当たり前じゃないのかな。会社に入って、やりたいことがよくわかっていないという不安? なにをやらされてもできるという根拠のない自信だけはあるんだけど。これが「悩むことが足りていない」とTさんに言われたことの正体なのかな。新しいことをやりたいという思いはあるけど、「新しいこと」なんて今の判断基準でしかないからな。

とまあ、「不安」という言葉にずるずるといろんなものがくっついてくるのは香山リカさんが『就職がこわい』で指摘している通りで、このまま書いて行くと原稿用紙百枚はいくのでやめておくけど、自分も案外普通に現代っ子なんだと思ってしまった。

やっぱりまとまらない。本家にアップしようかと思ったけどこの程度じゃブログ行き決定だな、と思って長い日記でした。

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