堀江敏幸『燃焼のための習作』

を、読みました。

『河岸忘日抄』が繋留する船の中で生活する奇妙な男の生活の記録であるとすれば、その友人として設定されたこの小説の主人公が過ごした大雨の半日は、どのように位置づけられるのでしょうか? それは間違いなく、水の音に包まれた世界。繰り返される状況設定は、あるいは著者堀江の一つのフェティシズムなのかもしれません。水音、雨音は、それ自体の存在によって他の雑音を消し去ります。そしてそのことが小説世界を却って見事なまでの静寂に包み込んでしまうのです。

主人公は便利屋を稼業としながらも、水辺の古い建物に探偵事務所を構えています。ある大雨の日、尋ねてきた依頼人と、主人公の助手を務める女性と、その三人がひとつの部屋の中で何度もコーヒーとお茶をすすりながら展開する現在進行形の話、依頼人の話、主人公の過去の話、それらが絶妙に絡み合い、200ページを超える中編と言ってもいい長さの一つの小説に仕立てあげられています。

会話というものには、流れがあるだけで中身はない、と枕木はつね日頃から考えていた。中身と呼ばれているのは、言葉に言葉を返し、沈黙を乗り越え、いっせいに声を出してまた黙ることを反復しているうちにだんだん形になってくるもので、川だって運河だって、そんなふうにしてできあがったのである。見えたり見えなかったり、歩いているうちに光を照り返す水面が切れ切れに反射して、ひとつづきの流れの存在が察知できる。

照り返す光を見逃すな。そんな小説。

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