今福龍太『野性のテクノロジー』

を、読みました。

今福龍太はあまりなじみのない学者ではあったのですが、別の本を読んだときに面白くて、今回絶版ながらその主要著作の一つとしてあげられる『野性のテクノロジー』を読みました。

勘のいい人はすぐにわかるかもしれませんが、題名からして文化人類学系の本です。しかしながら95年に出版された本とは信じがたいほど、現代的な問題を扱っています。

特に第二章「プリミティヴィズムの中心と周縁」が興味深い。

だまし絵を通じて、いかに人間が一つの視覚パターンに縛られているのかをあぶり出した上で、現代人の五感がいかに分節されているか、あるいは黙読中心主義の学校教育によって分断されてしまったのかを言い当てる。ぼくたちは図書館や美術館、映画館でどう振る舞えばよいかをいつの間にかたたき込まれて不自由な身体を引きずっている。子どもが好きだったあの種々のクオリア。「目だけにたよったハンターは手ぶらで帰る」というエスキモーの箴言。

芸術の世界において「黙読中心主義」「視覚のヒエラルキー」に反旗を翻したのがまさにシュルレアリストでありロシア構成主義者たちだった。そこにウェーベルン、ケージ、メイエルホリドらを加えてもいいだろう。そしてピカソの「アヴィニョンの娘たち」を引き合いに出しながら一体何がプリミティブで何がモダンなのかが解体していく様を活写します。

つまりペンデ族の仮面のここでの美学的地位は、ひとえにそれが持つピカソ作品との親縁性に支えられているのだ。いわばここでは、オリジナルのほうがコピーによってその正当性を付与されるという奇妙に逆転した関係がある。

このあたり、か・な・り、脱構築的。モダンアートにおいてはもはや「ルーツ」という考え方は否定されるのです。

本書に出てくる芸術家たちはなかなか普段接触する機会のない人たちばかりです。ソローはともかくとしても画家エミール・ノルデ、ディエゴ・リベラ、映像作家マヤ・デーレン、写真家セバスティアン・サルガード……本書はそうした日本ではマイナーな作家たちの作品も多くの図版を取り入れながらわかりやすく紹介してくれています。中沢新一ほど色気はありませんが、充分に読ませる一冊。

 

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