三連休は引きこもる その三

さて、最終日。
昨日はやっぱり午前二時まで同期と酒を飲んでいたので今朝は午前十一事ご起床。

さっそく豊島ミホに取りかかる。

これはなんかもー、失敗作? お姉さんが中学生をペットにする話です。話の破綻ぶりがすごい。しかし今までとは違う。確実になにか殻を突き破ろうとして突き破れていない感じがする。作者の成長の過程で必ずこういう作品ってある。次作に期待が高まる。

そうして次。

で、その予感はばっちり当たる。この短編集で確実に豊島ミホは作家豊島ミホになっています。小学生を主人公にした短編ものですが確実に一つの小説が一つの世界観をがっちりとものにしています。豊島ミホで一冊人に勧めろといわれたらこれを勧めます。

さて最後。

これはまた電波系コバルトに逆戻り。中学の卒業式の日、10年後に会う約束をしたミュージシャン志望の男の子と漫画家志望の女の子の、10年後のその日までの物語。まーたそんな、という声も聞こえてきそうですがでも『檸檬のころ』よりはずっとすっきりまとまっています。

で、このあと作者は『神田川デイズ』『ぽろぽろドール』『東京・地震・たんぽぽ』と発表していくわけですが、実際、それは既に初期の危うさを完全に脱しています。

さて、三連休最後のデザートは『僕等がいた』。

相当話題になっているので一言物申そうと思って全巻購入。一気に読み干した。

すごい、これは、ただの少女漫画ではなかった・・・一巻だけ読んだときは「なんだこれ、この調子で12巻まで続くのか」とびびったのですが巻を追う毎に事態は深刻化していく・・・。

豊島ミホともくっつけて言うと、やっぱりその人の記憶ってなんなのだろう、と。『僕等がいた』では繰り返しその疑問を読者に突きつけてきます。

記憶と思い出は違う。思い出は過去のものかもしれない。けれど記憶ってダイレクトに今ここに結びついている。いやむしろ記憶こそがぼくたちを生き動かしているんじゃないのか。記憶こそがぼくらが今を生きているという実感の源なんじゃないのか。

山本妹の姿は12巻になってようやく詳細に描かれてきますが、普通の少女漫画が地味キャラの脇役で片付けてしまうところを『僕等がいた』ではていねいに彼女の苦しみも、舞花という対照的な人物を配置することによってより効果的に描いてくれています。

この、普段は絶対に主人公にならない人たちの心の葛藤とか苦しみ──それはまさに自分が主人公になれないという苦しみであるのですが、それをちゃんと描いているところがすばらしいと思う。

いやだってさ、中盤かなり七美と元晴の、なんだか『グッドモーニングコール』(余談だけどクッキー連載の続編はあんまり面白くないね・・・)を想起させるのほほんぶりが描かれるけど、常にバックには死んだ山本姉への疑義があるし、竹内といい千見寺といいこれだけサブキャラがサブキャラに納まることなく描かれている漫画ってなかなか無いよ。

で、話は戻るんだけどたとえば昨日の夕飯に何を食べたかをすぐに思い出せなくても、子供のころに父親に青梅鉄道公園につれて行ってもらった時のあの坂道とか、大学時代女の子と上野公園を歩いたときのあの日差しの強さとか、ぱっと思い出せるものってある。

そういう意味で記憶っていうのは必ずしも今この時点を起点に濃度が決まるんじゃなくて、その時その時でぼくらは時計の針の上では均質な空間を移動しているのだからやっぱりその意味で平等だと思う。記憶される対象として、個々の出来事が。

で、なんでそこに優劣がこうもはっきりと出来るのか、不思議でしょうがない。もちろん大切だったから覚えているんだろうけど、思い出として思い出すのと、豊島さんみたいに作品にせずにはいられない記憶──それは全然思い出になっていなくて、書いたからって思い出になるものでもなくって、常にそれは今生きているぼく自身をさいなんで来るという意味で記憶というのは「過去の出来事を覚えている」というところに全然とどまっていない。そのことが『僕等がいた』(「いた」って過去形ですよ!)ではものすごく重要なテーマになっている、のだと思う。

・・・てなことを興奮しながら風呂で考えていたらこんな時間になってしまった。今日はあと『NANA』の最新刊を読んで寝ることにします。

では皆様も楽しい読書ライフを!

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