月別アーカイブ: 2013年5月

ちなみに今日は新しい会社に移って240日目です。

何事にも必ず終わりは来る。それが、突然であっても。

カフカ小説全集『掟の問題ほか』

を、読みました。全集としては最終巻であり、これでカフカの全ての小説を読了したことになります。

謎めいた世界と、今なお多くの作家に影響を与え続けるその源泉にどっぷり浸かれたのは全集ならではです。

最終巻はノートに残された手稿を収めた二巻目になりますが、中でも「巣穴」は病魔との戦いを思わせます。あるいは、三好十郎の「胎内」のような。

サブカルがメインカルチャーになってしまったおかげで従来のハイカルチャーがむしろサブカルになっている。

例えば高校生位の男の子が森鷗外とかゲーテとか好んで読んでいたら、それはやっぱり「特殊な趣味」と見なされるんだろうな。

でも、だからこそそういう人は初めて色眼鏡を外して文学と対峙できるんだと思う。

あとぼくたちにできるのは若い人達に、そういうものとのアクセスがしやすい場を整えておくこと、あるいはきっかけを与え続けることの労を惜しまないこと、なのだろうか。

いい時代になったと思います。

池内紀『カフカの生涯』

を、読みました。

伝記というのはほとんど初めて読みましたが、抜群に面白かったです。カフカは作家ではありましたが、生前から評価が確立していたわけではなく役所勤めをしながら体に鞭打って小説を書き続け、一部の作品は刊行されましたがそれで食べていけるというほどにも至らず、最後は結核を患ってサナトリウムで亡くなります。

一貫して「書くこと」を最優先にしてきた彼のスタイルには、強い意志を本当に感じます。30代にいくつかの失恋の痛手を受けるのですが、結局それも結婚生活を営むよりも自分の創作活動を優先させたいという逡巡があったからこそなのでした。

そういう、今風に言えば決してコミュニケーションが得意というわけではない(父親との確執!)一人の偏屈な男がこだわり続けて書き上げた不思議な作品たちが今こうして読めるというのも、本当に奇跡のようなものです。

個人的には文学作品を評価するのに作家の私的生活をほじくり返して「ここにはこういう背景がある!」みたいな下手な作家論的アプローチは好きではないのですが、カフカの生涯に触れて、こんな不思議な男の書いたものを読んでみたいというのも、これはこれで充分にアリだなと、思わせてくれる評伝です。

スーザン・ソンタグ『サラエボで、ゴドーを待ちながら』

を、読みました。

「WHERE THE STRESS FALLS」の邦訳二分冊目です。こちらはダンス、オペラ、写真、そして邦題にもなっているサラエボで「ゴドーを待ちながら」を演出した際の記録まで内容盛り沢山です。それでも、彼女がそれらの素材を通じて主張していることは終始変わらず存在します。ですから、過去からの色々な著作を読んで、自分の知らないいろいろな作家の存在を知るにつけても、それは決して百科全書的な知識などではなく、彼女のラディカルさという一本の幹にきっちりと支えられていることを感じます。その審美眼、ポリティカルコレクトネス、女性蔑視への飽く無き抵抗。力強い言葉によって揺らぐことのないそうしたスタイルは、本当に明日への希望を持たせてくれます。

これで絶版含め邦訳で出版されいるソンタグの著作をすべて読み終えたことになります。みすず書房からの刊行という意味では当翻訳が最新で最後となるのでしょうか? 河出からは彼女の死後に出版された日記類のアンソロジーの、その「あとがき」によれば三分冊のうちの一冊目だけが刊行されていますので、残り二冊が待ち遠しい限りです。それから小説「In America」が未邦訳でしょうから、みすずとしてはこちらをぜひ出して欲しいと思います。まあ、原書買って読めっていう感じもこれありですが……。

スーザン・ソンタグ『書くこと、ロラン・バルトについて』

を、読みました。

彼女の文体に触れるにつれ、いつも思うのは「世界文学」と言ったときの「世界」ってなんなのだろう? ということです。この本の中は例えばグーグルで(日本語の、カタカナで)検索しても一件も引っかからない作家、詩人が出てきます。けれど彼らが英語圏では抜群に著名で、誰もが邦訳の待ち望む存在であるかというとそういうわけでもない。英語圏でも、もっと読まれるべきだと彼女は主張している。だからソンタグ自身、「英語圏」と「世界」文学とを厳密に区別しながら論を進めているのです。そこにこそ、読むものとしては彼女の審美眼に絶大な信頼を置きたくなる所以でもあるのですが。

マルケスはたしかに「発見」されたのかもしれません。ボルヘスも、あるいはコルタサルもスペイン語で書いたのです。だからこそ彼らは「ラテンアメリカ文学」というある種のブームに見出されたという面も否定出来ません(その文学的価値がそれによってそこなわれることは決してないにせよ)。もちろんぼくたちが今『百年の孤独』をいくつもの邦訳で読めるというのもその恩恵というものでしょうが、そこに連なるべきブラジル出身ながらポルトガル語で書いたマシャードの作品で今邦訳で手軽に読めるのが光文社古典新訳文庫の『ブラス・クーバスの死後の回想』だけだということにもっと思いを馳せなければならないのかもしれません(というか、光文社古典新訳文庫のセレクションに改めて舌を巻きました)。

大学時代、日本は例えば岩波文庫などで古今東西の名著が邦訳されていて自国語だけしか操れない人間にとっても学問への道が豊かに開かれている稀有な国であるということを言われたことがあります。同じレベルをこの先も、この先の文学を愛する人達のために翻訳家の皆様には繋いでいって欲しいと思います。「世界文学」というのがどこまで行っても一つの理想であり、概念として解決されるものではないことは百も承知ながら、そこに向かっていく叡智というのは、相変わらず人間同士でしか作り上げ得ないものだと思います。

自分の身体を守るために

5/2は会社に行ったのですが、朝から何となくお腹がしくしく痛むので会社についてからコーヒーでなんとか誤魔化すも、11時くらいになるともうこれがどうにも我慢ならないくらいの痛みに盛り上がってくるので午前中で帰ることにしました。以前から半年に一度くらいは6時間くらいしくしくと胃腸を針で刺されるような痛みが続くということが定期的にあって、大抵はストレスの溜め込みによるものです。

そのたびに薬を飲んでみたり、辛いものを控えてみたり、飲むヨーグルトを摂取してみたりはするのですが、根本の生活スタイルが改まらないのでいつの間にか仕事に追われて一日のうちでようやく初めて口にするのが夜八時半のコンビニおにぎりなんて生活に逆戻りしてしまいます。

しかし本当に何とかしなければ……さすがに以前のようなむちゃくちゃな無理が睡眠だけで解消されるような年齢でもないようです。

スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』

を、読みました。

原作を離れてあまりにも有名になってしまった、いわゆる手垢にまみれた名作の原書を改めて読み返すことは、頭の中に一陣の清らかな風を送り込むことに等しいことはよくあることです。本書は「二重人格」というフレーズとともに、文学好きな心理学者が片棒を担いできたがゆえの誤解を色々とまき散らしてきた作品ではあるのですが、読んでみれば案外とあっさりとしたホラー短編です。とはいえ、やはり奇妙な短編であることは間違いなく、その後の「手垢」抜きで例えば文学的にどう評価されるのかは個人的にもよくわからない作品です。