月別アーカイブ: 2009年5月

村上春樹『1Q84』

土日で一気に読み干す。

これまで村上春樹の個々の作品で語られてきたキーワードが全て詰まっている。初期の作品からねじまき鳥まで作者が一貫してこだわり続けている「入口─出口」の比喩や「こちら側─あちら側」の構造は相変わらず健在。冒頭に音楽が出てくるのは『ノルウェイの森』的か。形式としては『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』同様、二人の主人公のそれぞれの物語が同時に進んでいく。しかし最後まで二人が言葉を交わすことはなく終わる。その一歩手前で物語は突然終わる。

豊かなイメージと思わせぶりな擬人化を整理することはどこかの研究者に任せておくとして、この作品で新しいのは『アンダーグラウンド』を改めて消化しようとしている点だ。「赤軍派からオウムへ」などと副題を付けたくなる。事実、山梨県に本拠地を置く武装的宗教法人が登場し、そのほかにもエホバの証人やヤマギシ会を想起させる団体が登場する。しかしそれらは決して作者の動かす駒のように都合よくは振る舞ってくれない。宗教というテーマに対してぐいぐいとその内側に切り込んでいく。もちろん「わからなさ」は「わからなさ」としてきちんと残していきながら。

これまで『アンダーグラウンド』をなぜ小説家である村上春樹が書いたのかという問いは幾度となく繰り返されてきた。そのひとつの答えがこの小説に一端として結実している。あるいはチェーホフとサハリン島との関係性において。

おそらくは作者はこのテーマを小説に軽々しく持ち込もうとは思っていなかったはず。『アンダーグラウンド』以降で作風は初期のセンチメンタリズムをどんどん失っていき、骨太な物語が前面に出てくる。「ねじまき鳥」は第三巻がはっきり言って「ついていけない」感じであったけれど、今作はある意味でノルウェイの森的なリアリズム文体を意識して書かれているためか、突拍子もない展開も割とすんなり読める。脂の乗りきった筆致だからこそ宗教というテーマにも地に足ついた語り口で読ませる。

作者が以前から主張する「総合小説」にまた一歩近づいていっているのでしょうか。今後この作品をめぐってどのような批評が現れてくるのかわかりませんが、少なくとも今読み終わって思うのはこれまでの作品の集大成でありかつまたこだわり続けている謎は謎のままなおもある、といったところでしょうか。

あわせて高橋和巳の『邪宗門』も読んでみると面白いかもしれません。これは大本教に材を取った作品です。

モチーフとしての「大学四年」

おそらく現代において最後のイニシエーションというのは社会への入り口なのではないだろうか。最大の自由を謳歌した後に、それが本当に特殊な時間であったことを思い知らされる瞬間、ぼくたちは残念ながら「あの頃は……」という物言いを始めてしまう。それが大人になるということなんだと片付ける前に、なぜこんなにも胸が締め付けられるのかをきちんと見据えた方が良い。

『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子のデビュー作はところどころに森見登美彦的な軽口をはさみながら、就職も決まり後は卒業するだけの春休みの日常を丹念に丹念に読ませる。

夕方の薄闇に翳る散らかりたおした部屋で、わたしは未練とでもいうような思いに蝕まれて、起きあがることができずに枕に鼻をくっつけていた。数時間の経過に、ヤスオカのにおいなどというものはとうに消えて、いつもの自分の洗髪剤の香りだけがガーゼのカバーからしみだしていた。孤独なのか幸福なのか見当がつきかねた。

たぶんだれもが自分に忠実に生きている。そしてお互いがお互いにもうそうするしかない、そうせざるを得ない状況をぶつけてくる。それが良い意味でも悪い意味でも摩擦になる。そういういちいちに振り回される最後の時間なのだろう。

山崎ナオコーラはサークルの人間関係を中心に大学の最後の一年間を追う。まさにそれは「長い終わりが始まる」時間だ(この小説ではもう一つの意味も重ね合わせているけれども)。主人公はひぐちあさ「ヤサシイワタシ」の弥恵を思わせる。マンドリンのサークルで、四年生になっていながら要職が与えられなかったことを根に持ちながらサークル的なノリを否定し「趣味だろうが芸術性を追求すべき」と息巻く。そのどうしようもない協調性の無さが美しいのもまた、この大学四年生というのが最後の季節なのかもしれない。

自分だけではなくて、みんなもいつも、電車に乗っているときや、授業中や、寝る前、たくさんの考えごとをしている。「人の気持ちって」「人の集団って」「次に誰々と会うときは、こうしよう」。小笠原がいつも、頭の中でうだうだ考えているようなことを、みんなもやっている。窓を開けると爪切りのゴミみたいな三日月があった。

最後の輝きはいつだって美しい。そして感性が鈍磨していく中で、停滞する日常をいかに受け止めていくかが、主題となることが、どんなにかシンドイものなのか。それを救う文学はありや。すくなくとも大学四年生をモチーフにした小説は、すっかりおぼろげとなったかつての心の跳躍を少しばかりは思い出させる。

たまたまですがこの二つの小説のカバー写真はいずれもとても好きな写真家のものです。
中野正貴
田中舞

太宰治生誕100年

映画が立て続けだな・・・

パンドラの匣

ヴィヨンの妻

斜陽

かつて太宰っ子だったぼくとしては楽しみな限り。ぜんぶ見たいなー。とくに「パンドラの匣」の川上未映子はアツイ…竹さん役なのかな?? ヴィヨンの妻も短編だけどたぶん太宰の私生活を描いていく感じなのでしょう。似たようなヤツだとむかーし河上隆一で太宰の映画があったような。テレビだと役所広司で一度見たおぼえがある。猪瀬のピカレスクが原作だったような。いずれにせよ太宰の作品やその生涯は劇的で、映像化もしやすいのでしょう。

斜陽だけ予告編が見られるけど、だいぶちょっとイメージが違うな…。もっと線が太いんだけどな、ぼくの中では。

新潮文庫ではデビュー前の習作まで文庫化してさらに表紙を全面リニューアル。気合いの入れようが違います。