村上春樹『1Q84』

土日で一気に読み干す。

これまで村上春樹の個々の作品で語られてきたキーワードが全て詰まっている。初期の作品からねじまき鳥まで作者が一貫してこだわり続けている「入口─出口」の比喩や「こちら側─あちら側」の構造は相変わらず健在。冒頭に音楽が出てくるのは『ノルウェイの森』的か。形式としては『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』同様、二人の主人公のそれぞれの物語が同時に進んでいく。しかし最後まで二人が言葉を交わすことはなく終わる。その一歩手前で物語は突然終わる。

豊かなイメージと思わせぶりな擬人化を整理することはどこかの研究者に任せておくとして、この作品で新しいのは『アンダーグラウンド』を改めて消化しようとしている点だ。「赤軍派からオウムへ」などと副題を付けたくなる。事実、山梨県に本拠地を置く武装的宗教法人が登場し、そのほかにもエホバの証人やヤマギシ会を想起させる団体が登場する。しかしそれらは決して作者の動かす駒のように都合よくは振る舞ってくれない。宗教というテーマに対してぐいぐいとその内側に切り込んでいく。もちろん「わからなさ」は「わからなさ」としてきちんと残していきながら。

これまで『アンダーグラウンド』をなぜ小説家である村上春樹が書いたのかという問いは幾度となく繰り返されてきた。そのひとつの答えがこの小説に一端として結実している。あるいはチェーホフとサハリン島との関係性において。

おそらくは作者はこのテーマを小説に軽々しく持ち込もうとは思っていなかったはず。『アンダーグラウンド』以降で作風は初期のセンチメンタリズムをどんどん失っていき、骨太な物語が前面に出てくる。「ねじまき鳥」は第三巻がはっきり言って「ついていけない」感じであったけれど、今作はある意味でノルウェイの森的なリアリズム文体を意識して書かれているためか、突拍子もない展開も割とすんなり読める。脂の乗りきった筆致だからこそ宗教というテーマにも地に足ついた語り口で読ませる。

作者が以前から主張する「総合小説」にまた一歩近づいていっているのでしょうか。今後この作品をめぐってどのような批評が現れてくるのかわかりませんが、少なくとも今読み終わって思うのはこれまでの作品の集大成でありかつまたこだわり続けている謎は謎のままなおもある、といったところでしょうか。

邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)
邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)
高橋 和巳

あわせて高橋和巳の『邪宗門』も読んでみると面白いかもしれません。これは大本教に材を取った作品です。


モチーフとしての「大学四年」

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)
君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)
津村 記久子

長い終わりが始まる
長い終わりが始まる
山崎 ナオコーラ

おそらく現代において最後のイニシエーションというのは社会への入り口なのではないだろうか。最大の自由を謳歌した後に、それが本当に特殊な時間であったことを思い知らされる瞬間、ぼくたちは残念ながら「あの頃は……」という物言いを始めてしまう。それが大人になるということなんだと片付ける前に、なぜこんなにも胸が締め付けられるのかをきちんと見据えた方が良い。

『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子のデビュー作はところどころに森見登美彦的な軽口をはさみながら、就職も決まり後は卒業するだけの春休みの日常を丹念に丹念に読ませる。

夕方の薄闇に翳る散らかりたおした部屋で、わたしは未練とでもいうような思いに蝕まれて、起きあがることができずに枕に鼻をくっつけていた。数時間の経過に、ヤスオカのにおいなどというものはとうに消えて、いつもの自分の洗髪剤の香りだけがガーゼのカバーからしみだしていた。孤独なのか幸福なのか見当がつきかねた。

たぶんだれもが自分に忠実に生きている。そしてお互いがお互いにもうそうするしかない、そうせざるを得ない状況をぶつけてくる。それが良い意味でも悪い意味でも摩擦になる。そういういちいちに振り回される最後の時間なのだろう。

山崎ナオコーラはサークルの人間関係を中心に大学の最後の一年間を追う。まさにそれは「長い終わりが始まる」時間だ(この小説ではもう一つの意味も重ね合わせているけれども)。主人公はひぐちあさ「ヤサシイワタシ」の弥恵を思わせる。マンドリンのサークルで、四年生になっていながら要職が与えられなかったことを根に持ちながらサークル的なノリを否定し「趣味だろうが芸術性を追求すべき」と息巻く。そのどうしようもない協調性の無さが美しいのもまた、この大学四年生というのが最後の季節なのかもしれない。

自分だけではなくて、みんなもいつも、電車に乗っているときや、授業中や、寝る前、たくさんの考えごとをしている。「人の気持ちって」「人の集団って」「次に誰々と会うときは、こうしよう」。小笠原がいつも、頭の中でうだうだ考えているようなことを、みんなもやっている。窓を開けると爪切りのゴミみたいな三日月があった。

最後の輝きはいつだって美しい。そして感性が鈍磨していく中で、停滞する日常をいかに受け止めていくかが、主題となることが、どんなにかシンドイものなのか。それを救う文学はありや。すくなくとも大学四年生をモチーフにした小説は、すっかりおぼろげとなったかつての心の跳躍を少しばかりは思い出させる。

たまたまですがこの二つの小説のカバー写真はいずれもとても好きな写真家のものです。
中野正貴
田中舞


【小説】御茶ノ水橋…9

九 中庭の光

 民法の授業が終わるとちょうど三時で、四時限目の憲法は休講の掲示が出ていたのでもう帰ってもよかったのだけれど、今日は六時から写真部の飲み会がある。梅雨が明けたばかりの蒸し暑い一日で、夕日のオレンジが十一号館と十二号館の間にある中庭の芝生を染め始めている。それを見ていたら急にビールが飲みたくなって、私は大学の生協まで行って缶ビールを買うとまた中庭まで戻ってきた。
 中庭にはよく山登りの休憩場所にあるようなウッドテーブルと椅子があって、学生たちはよくそこで天気の良い日はひなたぼっこをしたりお昼休みにはお弁当を広げたりしている。地元のおじいさんやおばあさんが犬の散歩をしにやってきて、ちょっと腰掛けている光景もよく目にする。いま、きんきんに冷えたアルミ缶の冷たさとその重量を指先に感じながらもどってくると、どれくらいの確率かわからないけれどそこには誰もいなかった。さっき芝生に寝ころんでいた男の子たちも四時限目の授業に向かったのかもしれない。
 私はだから遠慮無く椅子に腰掛けると肩からかけていた教科書のつまった重い鞄をテーブルの上に投げ出し、プルタブを引き上げはじける苦みを喉に流し込んだ。
「なにやってんだこんなところで」
 と、一番良いときに後ろから耳慣れない声がする。振り返れば最近写真部に顔を出さなくなった矢野君があきれた顔で立っている。
「あっ、や……なんとなく気持ちよくって」
「天下の法学部がこんな自堕落じゃ日本の未来が泣くぞ」
「矢野君こそ珍しいじゃん、こんなとこ通るなんて」
 彼は理学部に在籍していて、中庭周辺の校舎では法学系の科目しか行われないから同じ大学に通っていても構内で顔を合わせることはまず無いのだ。
「いやちょっと教職で、憲法取らないといけなくてさ」
「今日お休みだよ?」
 と言うと矢野君はえっと驚いた顔をする。そして走ってどこかへ行ってしまった。しばらくすると缶ビールを片手にニヤニヤしながら戻ってくる。
「一足早く飲み会始めちゃおうぜ」
「飲み会あることは知ってるんだ」
「だってメーリングリストに入りっぱなしなんだもん」
「その言い方は、もう写真部には来ないって感じね」
「うん。寂しい?」
「いや……矢野君はけっこう技術的なところ詳しいから、だってあの最初の学園祭でさ、世界で最初の写真を再現するってすごいおもしろかったよ。だから、けっこう周りも頼りにしていたし」
「現像くらいだったら請け負うよ。ほら、うち実家が写真屋だからさ」
「そうだったの?」
「そうだよ。ま、俺は現像より現象の方に興味があるんだけど。だから」
 と、言いながら矢野君は鞄の中から論文の分厚いコピーを取り出す。たくさんの書き込みが細いペンでされている。もちろん英文だ。
「フォト……キャタリシス?」
「光触媒。いま工学系の人と太陽電池の共同研究やってるんだけど、そこに参加させてもらってる」
「ああ。そっか、ちゃんと自分の中ではつながってるんだ」
 私は、彼の学生生活の中で写真部の占める割合がもう既に無くなってしまっていることに少なからぬショックを受けたのだけれど、彼が勉強したいと思っていることがちゃんと地続きになっているというか、むしろ写真そのものがワンオブゼムで、みんなで集まって芸術性がどうのとかくだらない議論をしている間に彼はどんどん光を追いかけていったんだ、自分のやり方で、と思って安心した。そして次に、私は私自身のことを考え始めなければならなくなっていた。
「なんだ、急に顔が曇ってきたぞ。飲んで飲んで」
 そういいながら矢野君は乾杯の真似をして私の手のひらの中にある缶に自分のをぶつけてくる。
 オレンジ色の光はあっという間に青みがかった薄紫に変わっていく。太陽の最後の頭が遠く工学部の重厚な建物の屋上に沈んでいくのを見ながら、私は矢野君の目にはどんな風にこの光が見えているのか彼の横顔を見ながらぼんやりと考える。涼しい風が出てきて、中庭の周りをめぐるようにして植えられている木立が音も無くざわめく。ああ、今だ、と思った。
「矢野君、私の写真撮ってみて」
 私は鞄の中からいつも持ち歩いているデジタルカメラを取り出すと、彼に差し出す。矢野君はなにかを悟ったようにそれを黙って受け取ると、マニュアルで露出の調整をしてからレンズを私に向ける。取って付けたような「ピピッ」という音がしてシャッターが押される。彼は画面をしばらく眺めてから私にカメラを戻す。見れば、電源は切られている。
「帰ってから見て」
「なんか中学生のラブレターみたい」
「中学生だったらその場で読んでほしいよ。せめて背伸びしたい盛りの高校一年生だな」
 私たちは笑い合って、それからまたいろいろな話をした。日が落ちてもあたりは明るく、四時限目が終わった学生たちが校舎から一気に吐き出されてくるまで私たちは中庭のテーブルで向かい合った。
 そろそろ行かなくちゃと立ち上がって私たちはそばにあった缶専用のゴミ箱に空き缶を放り込んだ。からからと乾いた音がして、それじゃあまた、と挨拶を交わして私は池袋での飲み会に行くために駅の近い北門へ、彼は調べ物をすると言って図書館へと別れていく。門を出て地下鉄の駅に向かって歩きながらこっそりとさっきのデジタルカメラを覗いてみると、びっくりするくらい暗い表情の自画像が収められていた。


【小説】御茶ノ水橋…1〈改稿〉

一 写真の一枚目

 強い西日が医科歯科大の茶色い校舎の壁面を照らしている。ぼくは駅の改札を出たばかりだ。右手には、川面に映る自身の半身と一体になって丸い水道管を輪切りにしたような聖橋、その奥に頭を覗かせる秋葉原電気店街のネオン広告。川面の深い緑色は静かに堀端の木々が落としていく茶色い枯れ葉を流していく。視線を逆流させよう。左手にはやはり茶色い順天堂の病棟郡がそびえ、さらにノーマン・フォスターの鳥居を積み上げた「センチュリータワー」なる高層ビルが神田川の蛇行の突端に異様なヴォリュームを突き出す。
 こんな景色を描き出してみたところで、この世の中の何人の人がぴんと来るかわからない。よしそれが御茶ノ水駅からのパノラマであることがわかったとしても、それ以上の感興を催すことはないだろう。別段ぼくはクイズをやっているわけではない。けれど文学的効果をねらった風景描写を練習しているわけでもない。だから著者は読者に、そして読者は著者に必要以上の期待をしてはならない。
 あなたはもしかしたらこう言うかもしれない。小説がこんな風に始まっては困る、と。また例の八〇年代式ですか、もううんざりです。あなたはブランドの代わりに地名をモチーフにするわけですね、と知った顔。なるほど湯島界隈は昔から多くの文学作品や歌謡曲に取り入れられてきているけれど、もはや歌枕としてはしゃぶり尽くされた感が無きにしもあらずではないですか? と、したり顔。云々。
 しかしぼくはあえて固有名詞の揺籃にこの身をあずけたいと思っている。なぜなら、この文章は少なくとも特定の誰かに何かを伝えることを目的としたものではないし、これを書くぼく自身を全く知らない人に一つのフィクションとしてあまねく消費されることを目的としたものでもないからだ。コノテーションは全てぼく自身に帰する。意味はぼくの姿形にぴったりと一致する。言葉たちはその輪郭に集まりうごめいている。
 例えばこんな風に。
 駅を降りて御茶ノ水橋を渡っていると、特に夏は川面を吹き抜ける冷たい風が橋の上まで舞い上がってきて、ぼくはよくその視覚のダイナミズムと肌を通過する空気と木陰、前を行く女性たちの日傘──特にあの何年かの間は日傘というアイテムが若い人達にまでもよく流行っていたものだ──の陰の端に、五感を総動員される思いがした。その空気の静謐さはぼくの頭の中で鳴り響く独語をしばし沈めるのに役立った。今にして思えばその何年かがその後の孤独の季節を知らせる突端だった。あらゆる人間があらゆる形式をとってぼくの周りから去っていった。しかしそれは半分ウソだ。ぼくの方からだって多くの人の前から去っていったのだ。だから強がらずに言うならば、日ざしの強いお茶の水橋を渡る季節がめぐってくるたびに死んだ言葉を頭に詰め込んでぼくはぼくの過去に対して喪に服する。この国の夏が毎年戦争に彩られるように。
「最後に御茶ノ水橋を渡ったのはいつだっただろう?」
 インターネットを通じて拾い集めた御茶ノ水界隈の写真たちを無造作にクリックしてはそんな自問を繰り返す。転じてこれは現在の物語である。
 外国人観光客などはしつこいほど御茶ノ水橋から見た聖橋の四季昼夜をカメラに収めている。しかしいざその「美しい」聖橋の上に立ってみると単なる石造りの歩道でしかないことに気がつくだろう。けれど彼らは飽くなきエンターテナーである。どこで覚えてきたのかさだまさしの曲を真似して半分かじった檸檬を川面へ投げようとしている者まである。キャプションによれば腕を振り上げている彼はベトナムからの留学生であるらしい。あるいは……ニコライ堂や山の上ホテルといったモニュメンタルな建築物。医科歯科大の聖人像。中央線と総武線と地下鉄丸ノ内線が立体交差するその決定的瞬間を何時間も待つ。
 写真家はアマチュアのようだった。名前を田中麻衣と言った。生まれた年が同じところも気に入った。繰り返されるおびただしいキッチュの中でもその一枚は、変な言い方だが心優しい異化作用をぼくにもたらしてくれた。
 みたびお茶の水橋の上に立つ。
 「ビッグ・イシュー」を売る男の腹部が画面の左いっぱいを占める。前方にかすかに写り込んでいる交差点の信号は赤。右側をすれ違うスーツ姿の若い女性は何かの書類を片手に持ちながら携帯電話で必死に何かをしゃべっている。言葉を用いて描き出すとしたらそれくらいだろう。残る画面の真ん中に広がるのは、ただのコンクリートの地面。橋の上の舗装。けれどその灰色は明るい。陽が当たっているからだ。浅い午後の真上から照らす陽光。青空はその一画すら写ってはいないけれど、確かに雲一つ無い天空が感じられる。
 それは「視線」を映した写真だ。このアングルそのものにぼくは既視感を覚える。ロランバルトは《それは=かつて=あった》という表現を用いて写真を評してけれど、これは被写体にのみ用いられるのではなくそれを写した瞬間の撮影者自身もまた《それは=かつて=あった》のであり、いまやぼくは撮影者のアングルそのものを見ることによって過去の自分を異化しようとしている。
 そして誤解を恐れずに言えば、これこそが小説ではなかったか。撮影者はレンズの前には決して現れない。フレームこそが全てだ。しかし写真には写していることそのものが写されているのであり、だから、写されたものこそが写したものなのだ。そこには寸部の隙間もない。だからあんな風にこの小説が始まっても良いのではなかったか。
 田中麻衣という写真家はその御茶ノ水橋の上の一枚以外にも様々な写真を撮っている。彼女はおおよそ一週間に二、三枚のペースで新しい写真を自身のブログへアップデートしていっている。そこにはきわめて親しい者たちのいろいろな表情が映っている。仲間の飲み会での集合写真、お盆の墓参りをしている写真、友人夫婦宅の庭先で大笑いしている写真。けれど彼女はひと月に一枚ほどのペースでふと魔が差したかのように「自分しか写っていない写真」を入れ込んでくる。寂しげにこちらを振り返る猫がいたり、遠くで煙草を吸いながら座っている友人の後ろ姿だったり、朝の京王線のホームだったり……。それらは一つ一つがいちいち同じ意味で小説なのだ。
 この視線の前に広がる世界よ、君の目はぼくの目であり、そしてこれを今読んでいるあなたの目もまたぼくの目であり同時に彼女の目でもある。そういう小説がこれから始まる。だからそう、あなたはいま御茶ノ水橋の上にいる。ここから歩いていこう。この下を流れる神田川のその流れ着く先を見てみよう。きっと憑依したぼくの物語は断片としてまだその静かな流れの中に散らばっているかもしれない。もしかしたらあのベトナム人の留学生が放り投げた檸檬の欠片すら見つかるかもしれない。そしてあなたにおいてもまた、きらきらと輝いていた時間の記憶がそこにあれば、幸いだ。


太宰治生誕100年

映画が立て続けだな・・・

パンドラの匣

ヴィヨンの妻

斜陽

かつて太宰っ子だったぼくとしては楽しみな限り。ぜんぶ見たいなー。とくに「パンドラの匣」の川上未映子はアツイ…竹さん役なのかな?? ヴィヨンの妻も短編だけどたぶん太宰の私生活を描いていく感じなのでしょう。似たようなヤツだとむかーし河上隆一で太宰の映画があったような。テレビだと役所広司で一度見たおぼえがある。猪瀬のピカレスクが原作だったような。いずれにせよ太宰の作品やその生涯は劇的で、映像化もしやすいのでしょう。

斜陽だけ予告編が見られるけど、だいぶちょっとイメージが違うな…。もっと線が太いんだけどな、ぼくの中では。

新潮文庫ではデビュー前の習作まで文庫化してさらに表紙を全面リニューアル。気合いの入れようが違います。