保坂和志『カンバセーション・ピース』

を、読みました。こちらも大学時代以来なので10年以上ぶりの再読。
今となっては保坂和志を語る上で外すことの出来ない代表作ですね。前に読んだ時は、野球場の話が唐突過ぎてよくわからなかっただけれど、今読み返すと、結局は「その場をその場たらしめているのは何なのか?」という共通のテーマに貫かれているんですね。

なぜ野球場に選手がいて、試合をして、それを見ている観客が集まると、その場所は野球場になる。でも、同じ構成要素が集まったとしてもローズかいる、いないで、まるで魂の所在が変わってくる。

家も一緒で、家族でない誰かも含めてそこに集まると、それが「家」になるのはなぜなのか? そうならない場合だってたくさんある。けれど、この小説の主人公はやはり「家」なのだ。たくさんのおしゃべりがページをまたいで縦横無尽に展開される。その合間を縫うようにして庭とはなんなのか、見るというのはどういうことなのか、幽霊とは何なのか、といった様々な思索が繰り出される。特に後半の熱を出して寝込みながらも階下の会話が聞こえてくる間の思索は、この小説の本当に一番美しい部分だと思う。

もうぼくたちは抽象概念でいいのではないか? だれか神様のような存在が、何かを表現しようとしている。それが家にやどり、野球場にやどり、人々が集う。そこで一体何が起きているのか? なにが生まれているのか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA