茨城県人として嶽本野ばらを読む~ロリータというスタイル

『下妻物語』が茨城県下妻市を舞台としているということを観光ガイドで知ってから作者嶽本野ばらの本を読んでみようと思い立ち、とりあえず文庫で出ている以下の三冊をたいらげた。

文章は読みやすい。というのは、太宰治の一人称の語りをそのまま使っているから。物語は文字通りひとりの作中人物の口からすべて語られています。出たよ、語りのマジック。ぐいぐい引き込まれます。

『カフェー小品集』はカフェー(喫茶店でもなくカフェでもなく)をテーマにした連作集。ぼくのようなネクラのロマンチストが読むと相当の自己肯定感を得られます。

僕は自分が何時迄経っても恋愛に慣れないことをネガティブに捉え過ぎていたのです。ぎこちなくていい、不器用でいい。人を好きになった時、どうしてそれを伝えれば良いのか解らないお馬鹿さんでいいのです。何時でも恋愛に対して素人であればいい。恋愛のプロになんてならなくたって構いはしないのです。

どうですか、これ。あえてなにも言うまい。

嶽本野ばらの作品の根底に流れているのは、これだけ発達した文明の中で最新のサービスを追いかけることを拒んで不便でも美しいものを追求する、あるいはバカの一つ覚えのように「コミュニケーション能力が、人間と人間とのつながり大事」と言われる風潮の中でもかたくなに他人の侵入を許さない部分を自分の中に持つ、その力なのだと思う。

全部を相手には与えない、成長はあえて拒む、立ち止まりたいところで立ち止まる。

『カフェー小品集』に出て来る人物はことごとく現代文明の便利さを拒絶し、人との関わりも最小限にとどめている。その姿が苦しいくらいにいとおしい。きっと同じ感性をたまたま持ち合わせてしまった人間にはわかるはず。もちろん主体性を放り出して突っ走るのも爽快なのだけれど、今にも壊れそうなものを大事に抱える姿もまた美しい。

『下妻物語』はロリータファッションの女の子とヤンキーの女の子との交流を描いたもの。それぞれがロリータという哲学、ヤンキーという哲学を持っていて、譲れないところはお互いに絶対に譲らないところがすごく笑いを誘う。それまでの作品がロリータを単体で描いていたのに対して『下妻物語』ではヤンキーとの対比の中で描いていて、解説の「野ばらちゃんに、こういう物語を書いて欲しかったのだ」という言葉にもうなずける。

「私、友達だとか、仲間だとか、そういうのに興味がないから、イチゴが私にとって何なのかが答えられない」
「ダチだってお前がいってくれたら、あたいは嬉しかったんだけどな」
「別に私にイチゴを悦ばせる義務はないから」
「つくづく、嫌な女だな、お前」

二人の会話は時としてお互いが絶対に解り合えないという確信で終わる。けれど、たぶんそうしたすれ違いを経なければ二人の本当の友情は芽生えないのだろう、それぞれのスタイルを確固として持っているもの同士の間には。ロリータとヤンキーとは持っている内容としてはそれぞれが全く相反する哲学なのだけど、それが確固とした一つのスタイルであるという点では共通している。

成長を徹底して拒みresignationに徹する(有島風)というロリータ哲学そのものも非常に魅力的。そういえば、と師匠の言葉を思い出した。

近代という時代は僕らの生活や心を追い抜いて変化と新しさを要求しつづけるのかもしれないが、周囲や状況に合わせ陽気に流されていくだけでは何にもならないだろう。自分は、あるいは自分たちは何にこだわるのか。どこで立ち止まり、何を守るのか。それを見出さなければ、手の中の砂のようにすべては僕らから失われてしまう。
   ――霜栄『現代文読解力の開発講座』

上で言っている内容をぎゅっと圧縮してエッセンスにしたのがロリータなんだと思う。文明の与えてくれる便利さを追いかけ続けることにどれほどの価値があるのか、「どこで立ち止まり、何を守るのか」を考えるのに嶽本が説明してくれるロリータの哲学はすごくわかりやすく、参考になる。

さっそく映画『下妻物語』の方も借りてきて見ました。あらためて茨城ってジャスコ至上主義なんだよな。牛久大仏も出てきたし、劇中の喫茶店も実在するようです。とりあえずロケ地ツアーを計画中。鹿島から下妻って案外近いみたいです。

明日は水戸まで行ってきます。鹿島臨海鉄道大洗線だっけな、たしか。電車に乗るなんてほんとに久しぶりなのでちょっと楽しみです。

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