拙著『シュウカツ』、関西大学のポータルサイト「関大ナビ」にて紹介していただきました。
ありがとうございます!
拙著『シュウカツ』、関西大学のポータルサイト「関大ナビ」にて紹介していただきました。
ありがとうございます!
朝風呂に入ってそのままウォームビズで暖房の入らない職場に出社したのが原因だ・・・。普段だったら人がたくさんいて室温は保たれているんだけど。大寒の日の休出はいいことないな~。
布団の中で魚喃キリコでも読んで明日に備えます。
ここ三日くらいがんばって室長を説得した結果、四億円を右から左に動かすことができましたわっっ。
まあ、経理にありがちな数字のお遊びなんですけどね・・・それでもちょっと一段落しました。本来の業務が片手間になってしまっても大目に見てくれることにとりあえず感謝です。まったく経理の仕事って何なんでしょ?
「なまじっか」
という言葉を使ったら(会話の中で)
「なんだそれ! フツー使わねーよ!」
とつっこまれた。
この前もテレビに出ている人を指して
「この人、おかちめんこだな~」
と言ったら、ゲラゲラ笑われた。
「おかちめんこってなに??」
しゃもぢの語彙はどこか偏っているようです。。。
ひどい映画だった・・・・レンタルで見たんですが。『花田少年史』の破綻ぶりにも通じるところがあります。
要は、見ている側が知らない物語の裏側、というか状況設定を説明するだけの映画で、あらかた説明し終わって(すでに90分くらい経ってたりもするんですが)いざ現在時間に戻ってくるともう過去に語られてきた葛藤とか問題を解決しきれなくなってしまっていて、結局神頼みというか、ほんとに神業だけでせっかく長々と描いてきた物語の未解決部分を解消しようとしてしまっている。
そんなのはクライマックスとは言いませんから!
原作も読んでみたのですが(ミカエルの方ね、花田少年史も漫画が原作のようですがあんな海の上でドラゴンボールごっこするような話なの??)、ぜんぜん違うじゃん・・・状況設定だけ借りてきて監督の使いたくてしょうがない大好きなテクノロジーでごまかしてみました、みたいなそんな映画。
のだめブームで上野樹里でも見てみるかって方のみどうぞ、という感じです。
話変わって、昨日テレビで武田鉄矢が授業やってました。
笠地蔵の話って町に笠を売りに行った帰り道にお地蔵さんに笠をかぶせてあげるでしょ。でも何でおじいさんは行く道でお地蔵さんに気がつかなかったの? ほんとにいい人なら町に売りに行くときにかぶせてあげるんじゃないの? っていう「授業」で。
「儲けよう、儲けよう」とか一つのことに頭が凝り固まってると周りが見えなくなっちゃうよね、失敗して初めて別の見方ができるようになるんだよね、という結論。なるほど、と思った。文学部の勉強ってそういう発見の繰り返しだったからよけいおもしろかった。
そういう物語ならねえ、いくらでも金払えますよ。そういう解釈の危うさみたいなものを常に内在させている物語って「新作」には期待してはいけないのかなあ・・・。
小説『シュウカツ』ですが、関西学院大学の学生サイトで紹介していただきました。
どうもありがとうございました!
ふたたびめぐりめぐってきた季節。
予算期名物2:00-8:00生活の始まりです。まだそこまでではないですが。霞ヶ関とかはもっとひどいんだろうなあ。
今日は帰りに車の窓ガラスが凍っていて、以前に買った氷を溶かすスプレーがやっと役に立ちました。
さーて、風呂はいって寝ようっと。
成長を放棄し「おたく」的に閉じこもることを一方の聖域として、もう一方では会社や社会という一つの枠の中での一過性的な「社会人」としてのロールプレイングを生きることの必要悪、あるいはそれこそ世俗的なるものとしてとらえるという、これまたひどく二項対立的な世界観を築き上げていこうという試みを持って会社に入った訳なのですが、そろそろそれも限界に近づきつつあるようです。
室長との面談がありました。まあ、最近の仕事の様子とか将来のキャリア形成みたいな話を年一回所属長とするなんていう制度に則ってということなのですが、まあなんとも自分で自分のことをしゃべりながらあまりのさめっぷりというか、わがことに対する興味の無さというか、何でおまえそんなにやる気がないんだよ、やる気っていうかそもそも生きる気力みたいなところの問題だよ、と頭の裏の方で自分につっこみを入れざるを得ませんでした。
何が問題なのか?
ビジネスではよく聞く問題提起です。一つのひな形です。
本当に、何が問題なのでしょう?
「成長」という言葉がやっぱり気にかかります。
自分がこのままこのままで死んでしまうんじゃないか? 否、それを潔しとしたはずになのです。そう決意したはずなのです。上を目指すということがどういうことなのか? 一つの物語、一つの構造の中で踊らされているだけなんじゃないのか? それを十分に知りつつもなおも踊り続けるということの美学を『ダンス・ダンス・ダンス』で村上春樹は描こうとしていたのか? それでもぼく自身は納得できないというのが実情で。
お勉強というのはある意味でわかりやすいのです。単元があって、教科書があって、テストがあって数値評価される。点が上がればそれが成長だし、点が下がれば退歩。良い大学に受かれば成長の到達点として最大限の評価を受ける。
ああでもそれは、道具に踊らされていることには違いないのです。受験システムという狭い狭い枠の中で。あるいはそれさえ従順な企業戦士を涵養するための一通過点にすぎないのかもしれない。その悲壮さに気がつかずになおも上を目指し続けようとする姿の滑稽さといったら!
しかしこの考え方は正しかっただろうか?
確かにあるべき学生の姿、あるべき社会人の姿というのはある。だからこそ成人式で暴れる人々が非難される。もう大人なんだから大人らしい立ち居振る舞いをしなさい、という社会の要請はやっぱり社会という枠の中での話にすぎない。けれど社会という枠が、あるいは会社という枠がどこまでも巨大で、それ以外の「聖域」を見いだせない人が多すぎる。
あるいはそういうものに対して目をつぶることで上を目指す、そしてその成長を日々のささやかな喜びとして生きる糧とする。今日は商談がうまくいった、上司報告がうまくなせた、画期的なプレゼンテーションを成功させた・・・・・・云々。そういうことの価値がどれほどのものなのか、シニカルに構えてしまっている。
ここまで書いてきて、確かにこういう考え方になってしまったのは冒頭に書いたようなスタンスを最初にとってしまったことがさせているには違いない。よかろう、それでは今から改変することにしよう。簿記の「お勉強」をしてビジネスマナーも頭にたたき込み情に流されることなく合理的かつ論理的に仕事を進める(それはそのまま対人関係にも現れるのです)ことにいたそう。社長を頂点とする(いやいや役員だろ、株主だろ、とかいう話はここでは省くね)ヒエラルキーに乗っかり、あっ忘れていたけど国立大出だから有利なんだよななんてアナクロニスムもいいところ、明日からこっそり休日出勤して仕事は前に前に前倒し、将来有望サラリーマンとして生まれ変わる! なーんて、そんなことができるか? はたしてできるか?
そういう選択はどう考えてもぼくの価値観からすれば逃避でしかないのです。でもそれがどうも週の五日を過ごしている場所の価値観とは相容れないのです。
それが苦しい。なんとも苦しい。具体的に、やっぱり、上に書いたほど露骨じゃないけどやっぱり仕事は一生懸命やるべき、金もらっている以上は上を目指す態度を取るのが当然でしょ(いや、ほんと正論だ、当然だ、あたりまえのことなんだよ。ほんとにそれが正しいんだよ)、というスタンスで仕事している人が目の前にいるんだからな。そういう人もやっぱりたまには「ほんとはこういうのめんどくさいんだけどね、エヘヘ」なんて親近感を醸し出してくることもあるんだけどやっぱりそれは偽造された本音。怠けているやつがいたらやっぱり会社から排除されるべきでしょ? それはだって、どう考えても正しいじゃない。
ぼくだって一生懸命やりたいです。冷めている自分に対してキュウキュウになっている自分がいやです。つらいのです。このままであることがたまらないのです。
成長というものを味わってみたい。
なにをすればいいんだろう・・・