ハチクロ──芸術と実生活

何年ぶりかわからないが、ハチクロのアニメーションのDVDを全部見た。昔、まだ独身だった頃にボーナスをはたいて買い集めたやつだ。二、三回見て、そのままあんまり時間もなくて、本棚の肥やしになっていた、というのが実際なのだけれど、でも漫画本の方はもう何回も読みなおしていて、その原作にも忠実なアニメーションだったし、声の感じもわりとイメージ通りだったということもあって、結果として頭のなかにいろいろなセリフが音声として残っている。それをなんとなく確認したかった。本を読むのはつかれる。読まないといけない。アニメーションは見て、聞いて、その揺籃の中に身を委ねればいい。何度も頭のなかで再生したセリフが、役者の声を通じてもう一度刻印される。

それにしてもぼく個人の中でも息の長いというか、読み返し、見返してもやはり飽きない、汲み尽くせないものを未だに持っている作品です。二十代の頃はやはり登場人物たちの恋愛面にばかり目が行って、「はぐみ-森田」の関係をなんと呼ぶべきかとか、なぜ真山だけが成就して「大人になっていくことを恐れない」人物として描かれているのかとか、そういうことにばかり頭を使っていましたが、そこを過ぎて改めて見返すと、随所にちりばめられているのが「金」というテーマであるようにも感じました。夏目漱石の小説バリに、経済問題についても深い問を投げかけてきます。

もちろんそれは森田馨のつぶやく「クリエイティブな人間の需要がそんなにあるようには思えない」というあまりの正論に対する手を変え品を変えの攻防なのかもしれません。前にも書いたかもしれませんが「芸術系」の中ではある意味で現実と直結している「建築系」(あるいはそこに結果として食い込んでいった陶芸科も)は、まずもって「仕事」として成立している世界へ乗り込んでいけばいい。ある意味で真山と森田は芸術系大学という同じ場所にいながら見えている世界は清々するほど違っていて、違っていていいのだ、という結論なのかもしれません。けれど奇しくも、真山の金に対する「ポリシー」は、はぐの手術費用を投げつける森田と共通するものはあったのかもしれません。そこがまた面白い。

問題はやはり「はぐ-森田」系列の「金」に対するアプローチで、はぐは賞のために絵を描くことを途中でやりかけますが、森田に見事に見破られたことでスランプに陥っていく。この世界は、まるで凡人のぼくには想像することしかできない世界ですが、あるいはピカソのように自分の最もやりたいことをやるために世俗的な成功をまずは手に入れるという方便も、もちろんそれができるのであればそういう道も否定されないと思います。花本は、それをギリギリのところで許容した。けれど、森田はある意味で受け入れることができなかった。なぜ? 金の亡者のようでいて、だからこそやりたくないことで金を儲けるということに対する「芸術家」としての耐えられなさを教えたかったのかもしれません。そしてはぐもまた、それをするには人生は短すぎると気がついていく。

いやしかしあらためて(引用しないけど)真山のセリフはすごいね。花本も同じラインに最後は立つんだからね。男にとって金ってそういうものなのかな。男にとってお金を使うっていうのはね。

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