村上春樹『国境の南、太陽の西』

を、読みました。再読です。

この本を最初に読んだ時のことはよく覚えていて、その時も夏で、代々木駅前の喫茶店で(それがなんの時だったのかは覚えていないのですが)この本を読むためだけにそこで時間を過ごしたのでした。ただし、その時の感想はあまり好ましいものではなく、「例えばこんな小説を新人賞に送ったら絶対にアウトだな」といささかの憤慨をともにして店を出たこともまた一つの思い出です。

確かに道具立ては古臭いし、バーを経営していた作者の経歴が見え透いているところなど、あまりこの著者らしくない脇の甘さが気になって、なんでこんな失楽園(もちろん日本の作家某氏の)の出来損ないみたいな小説を村上春樹は書かなければならなかったのだろうと、その後も随分と気になっていました。いっそ、どこかのインタビューで「あれはちょっと失敗作だった。むしろ『ノルウェイの森』にテーマとしては引き継がれた」ぐらいのことを言ってくれていてほしい、と勝手な妄想を繰り広げたりしたものでした。が、そんな記述はついに見つからず。

けれど、この小説を改めて読み返して思うのは、最後の夫婦の会話がずいぶんと前向きな形で終わっていることに、これは一つの違和感もありつつも、一つの救いがあるのではないかということです。もちろん一人称で描かれたこの小説のナレーションは徹頭徹尾、主人公の振る舞いの身勝手さ、あくまでも貫く個人主義のどうしようみない醜悪さを隠蔽しようとするものではあるのですが、それでもラストシーンがモノローグではなくダイアローグで終結するところに、ようやく安堵する読者もいるのではないでしょうか。有紀子の、何度も主人公の心を、いや、言葉をこじ開けようとする姿勢には涙ぐましいものがあります。

もちろん夫婦であっても、例えば相手の人間性を今更変えてやろうとか補完してやろうなんてことを考える人は少数派だと思いますし、そんなことは無理だとわかっているから夫婦というものを何年もやっていけるのだろうけれど、ある瞬間に生きるの死ぬのといったギリギリの先まで行っても繋がっていられることもまた夫婦であることの背理法的証明なのかもしれません。もちろんそんなこと、無いに越したことはないのでしょうけど。

男だったら誰でも島本さんみたいな存在はあるのでしょう。でも、現実に生きるぼくたちは再会はしないし、フェイスブックでたまに覗き見ては若い頃の気持ちを無理やり呼び覚まして、たとえば『国境の南、太陽の西』みたいな小説を開いてしまうのかもしれません。それでいいのでしょう。

ところで、今日、34歳になりました。


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