よしもとばなな『王国』その1〜3

いったんこれでインプットは終わり。

もちろんこの『王国』シリーズはその3で終わってはいない。そこが、今ままでの作品と違うところだ。次を感じさせる、というか。その3では、主人公が別れを経験する。ここまで長く、出会ってくっついて別れるというところまで描いた小説はばななには珍しい。そして、その別れは、もう最初から相手と自分はぜんぜん住む世界が違っていて、たまたま似たような境遇で似たような気持ちを抱えていた時にたまたま出会ってしまってつかの間それを恋愛と勘違いしていた、というような。ばなな自身も、インタビューで下のように言っている。

ほら、よくあるじゃないですか、社員旅行だの歓送迎会だので急にいちゃつきだす男女とか。広い大きな意味で言えば、同じようなものかもしれないですよ、雫石と真一郎は。お互いに自分たちの設定を変えたいときにたまたま出会って、でもお互いの役割を終えたから別れることになる。でもその別れはきれいごとでは済まなかった――そういう話かもしれないです。(「波」2005.12)

うまい例えだな…。

要は主人公雫石にはまだまだこれから先に大きな物語が待っているというようなことを、それを言うためだけの小説だったような感じもする。それは、親という立場になったからならではか? それは言い過ぎかな? 雫石の子供っぽさへのついていけなさみたいなものは、今までの主人公とは少し違うと思う。その子供っぽさというのがつまり王国=箱庭の中で純粋培養されたような感じを言っているのかな。

三十代という問題に戻るなら、この作品を書くことで、よしもとは別にぼくたちが期待しているように三十代を総括しようとはしていない。むしろ自分が親になる四十代への大きな準備として、ひとつのオープンクエスチョンとして置かれたおおきな布石のように思います。しかしてその4は雫石の娘が主人公になるわけですが…その間がだいぶすっ飛ばされているような気もするけど、それはいつか書かれるのだろうか?

『海のふた』とテーマを同じくしているという発言からすると、結局「自分次第」というところに行き着くのかも。自然と調和した生活を送ろうと、送るまいと(その最右派が都会生活なんだろうけど)自分の王国を築くことでしか人はやっていけない、ということか。そして高橋くんの庭というのは、この小説で唯一、「王国」という言葉が出てくる箇所なんだけど、そういうことを小説的な仕立てで見せてくれる箇所として生きているのかもしれない。人びとの「王国」同士が刺激しあう。そういうのが人が生きていくことだろうし、また人が自然と対峙するときの一つの正しい態度なのかもしれません。雫石の職業なんてまさにそういうことだよな。

そして、まさに雫石という作者にとってもよくわからない、幼い存在がそういうことに気がついていく過程を描いているということが、三十代の総決算としての意味合いを持つということに……無理矢理ですが、つながるのかも。それはもう親目線なのだ! 雫石だけは「知らない人にインタビューする」感じで人物造形がされるいっぽうで周りの男達が作者の男性的な分身であるとするならば、『王国』に導入されたテクニックとして、新しいものがある。作者のキャリアとしては自分のよく知っている人を登場させる作品を書いてきたところから、『身体は〜』で知らない人を登場させてインタビューしていくように小説を書き、『王国』でその2つがミックスされている。しかも、それは「人が生きていくことは、王国=庭・箱庭を作っていくことだ」という一つのテーマを持って、人と人が交流していく様(しかもどうしようもない別れまで含めて!)が描かれている。

しかし「王国」って結局は「キッチン」なんだよな…。

というところで、そろそろアウトプットにとりかかる頃合いのようです。

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