佐々木正美『子どもへのまなざし』

を、読みました。

たまに覗いているスゴ本ブログで何かおすすめしている育児書がないかと見てみたら、何回か紹介されていたので読んでみました。なにはともあれ福音館書店。造本の良さは、これもまた一つのメッセージなのでしょう。韋編三絶、読み込むべし、という。

で、まずこの本は育児書ではなくて、むしろ育児書に走ってしまう孤独な親たちに向かって暖かくエールを贈る公演の記録であることを最初に明確にしておく必要があるのだろうと思います。

育児書というのもたぶん自己啓発本の一画を燦然と占める、たぶんある種の出版社にとっては言い値で本を売れる分野なのだろうと思いますが、これは決してそうではありません。

確かに読む人が読めば、フルクサイお説教にも聞こえるかもしれません。そういう面も否めません。ただし、ここに書いてあることに猛然と異議を唱え、逆を張った子育てをした成功例があるかといえば、多分無いのでしょう。わかっている、わかっている、わかっている……でも、できない、というのが子育てなのだとしても、それでもなお「100%出来なくてもいいから心に留めておいて欲しい」というのが著者の、いや、話者である佐々木正美の悲痛な訴えなのです。

結果が伴わないのはいまの自分を見ればわかることだし、厳密な因果関係で説明できるのはほんの一部分なのだろうし、統計的な「大多数」の例を当てはめてみたところで本人にとっては0%か100%かでしかないし。確率論で子育てをするんであれば、将棋ロボットにでもやらせればよいのでしょう(まあでもロボットに子育てができるのか? というのはそれはそれで興味深いイシューではあるのだけれど)。

本書で繰り返されるのは「誰かと一緒にリラックスできること」。それがいかに今のぼくを含めた親たちに不足しているか、できていないか、あるいは難しいかは百も承知です。けれど、明日からいきなりマンションの隣の部屋に済んでいる親子と一緒に動物園に行くことはできなくても、何かできることがあるはず。そういう思いを持ちながら、何かできることはないかと考えながら、子どもと一緒に過ごすこと。少なくとも最善を尽くしていくこと。まずはそこからなんだろうと思います。

何度も言いますが、結果は伴わなくても、結果なんて誰にも証明はできない。だから子育てに理論なんてものはない。だけど、それでも最低限これだけは、というラインがかならずあるはず。そしてそれは、眼に見えない心の持ちようも含めてなのであって、そしてそういうことがきっと言葉の分からない目の前で手足をじたばた動かしている彼・彼女にも通じるはずだと念ずるところからはじめなければならないんだろうと思います。

もちろんどうやって抱っこしたら夜泣きしなくなるかとか、離乳食こうしたらいいとか、そういう技術論的なことは、ネットでなんでも調べられるようになった今だからこそ助かる面はあるし、いろいろトライ&エラーでやっていけばいいと思います。でもそういうのを推し進めるのが親の心持ちようなのでしょう。まあ実際は、目の前でギャンギャン泣かれれば、手を差し伸べなければならないというほとんど反射行動にも近いのが実情ですが……。

この本にはたくさんの具体的な親子の姿が出てきます。抽象的な理念を語っている箇所は一切ありません。ここに出てくる実際に話者が見聞きした親子の姿を通じて、何が大事なのか、何を大事にしなければならないのか、何を犠牲にしてはいけないのか、それを読者それぞれが考えていく必要があると思います。

子育てというのは正解がない(と、言い切っていいのかもまだよくわからないのですが)。だから自分が自分の親から受けた様々な出来事とその結果生じた今の自分、あるいはそこには因果関係はないのだと判断する今の自分を参照することしかできないのかもしれません──などとこうやって勢いで書いてしまうことに問題があって、それが親たちの孤独の根源なのでしょう。

いまいま書いたばかりですが、スマホで手軽に調べられてしまうというのも、功罪あるのでしょう。誰かに電話して聞くというのなら大いにけっこうというのも、なんか時代錯誤的ですが、まあどっちがいいのかというのも結局よく分からないし、こういうテクノロジーに囲まれた中で子どもを育てるというのも、あるいは子ども自身が育つというのも、前代未聞のことなのでしょう。

それはいつの時代でも、環境はそれぞれ変わっているのだろうから明治のお母さんも大正のお母さんも戦前のお母さんも戦後高度成長経済の只中のお母さんも、それぞれが前の世代では思いもよらなかった環境変化の中で子育てをしてきた。で、今は? 新しいことをしないといけないの? いや、新しいことはせざるを得ない。抱っこ紐でおんぶしながら職場に通うわけにはいかないけれど、その精神に変わる何らかのビヘイビアがあるはず。

その想像力を貫くものは何だ? というのを考えるのが、この本を読むということなんでしょうか、ものすごく大げさになってきましたが。

まあしかし最後の最後は父親が読むべき本なんですよね。母親はわかっている。よーくわかっていると思います。結局両親学級だって、「両親」と冠しておきながら父親啓蒙学級であることは間違いないし、字を読んで頭で理解してからでないと自分の行動に自身を持てないというのは男親の悲しいサガなんでしょうか。

なんかまとまりないですがとりあえず読後の興奮のままに。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA