保坂和志『朝露通信』

信じられないことに、「あとがき」にたどりつくまで「朝霧(あさぎり)通信」だと完全に勘違し、なぜ鎌倉が舞台のこの小説にこんな題名が付けられたのかと不思議で仕方がありませんでした。ごめんなさい。「朝露(あさつゆ)通信」が正しいです。

さて本作は読売新聞に連載されていた著者としては初めての新聞小説ですが、単行本では見開き二ページで一日分の連載が掲載されているので、連載時の呼吸というか、この日はここで終わって次の日はここから始まったのだなというのがよくわかります。そして当然ながら一日分の中途半端さも保坂ならでは。

けれどもこれほど、ある意味では、というかあらゆる意味での「自分語り」に徹した形式の小説はこの作者にしてはかなり珍しいように思いました。鎌倉と山梨を行き来しながら、その時その時に思いついた子供の頃の出来事の断片を思いついた順番に忠実に文字に落としていきます。読む方は「ふんふん」という感じで流れに乗ればついていけてしまうのですが、実際には頭のなかを流れている独語というのはものすごい速さなので、それを意識の流れのままに文字に落とし込んで(こういう言い方は非常にナイーブすぎてよくないのは十分わかっています。そういう風に読めるように書かれてあるというのがまずは小説家の技量の見せ所であって、それに完全に騙された読者として、まずは読後感を記しておきたいというのが、ぼくの趣旨であったりします。テクスト分析はどこかの大学生がまたぼくの卒論のようにやってくれるはずです)いっているこの濃密さというか、自分の頭のなかへの執拗なまでの粘着さにはただただ脱帽。

子供の頃のエピソードってみんなけっこうは涙腺を刺激されるポイントがあって、というか、けっこう傷ついたり嬉しかったりした記憶のパターンというのがある程度共通フォーマットとしてあって、まさに「あとがき」にも書いてあるように、保坂少年と思しき主人公が、お金が足りなくて欲しくない方の絵本を買ってきて、家についたら泣き出してしまって(うんうん)、母親に足りないお金をもらってまた買いに行ったエピソードとか、親戚のお兄さんたちと遊んだ思い出とか、あるいは休みが終わって一人になってしまう寂しさとか、クラスの女の子が「女の子」に見え出したりした瞬間だとか、そういうのって必ず誰の心のなかにも同じような気持ちを感じたことが必ずあって、保坂少年の意識の動き、あるいは今その文章を書きながら思い出しているその現場にその文字を読むことで立ち合いながら同時に立ち現れてくる自分の頭のなかの裏側の深い深い奥のほうをくすぐられる感じを楽しむのが、「朝露通信」の真髄なのではないでしょうか。

すごく、だから、フィジカルな小説なのだと思いました。

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