鷲田清一『〈弱さ〉のちから』

を、読みました。

すぐに思い出すのは太宰治を評して曰く「弱さを持続する強さ」。それに近いものはあるかも知れません。

あるいは、自らの弱さを認める強さ、というか。結局、五体満足を「強さ」というか、「強さ」とまでは行かなくとも少なくとも「弱く」はないもの=一つのスタンダードとして捉えてしまうと、弱いままの自分をまずは改善し、ある一定のレベルにまで到達することに死に物狂いになってしまいます。五体満足にならなければ例えば「本当の人生」というものは始まらない、とでもいうような思い込み先入観に捉えられて自縄自縛になっている人は多いかも知れません。

そうではなくて、弱いままの自分を生きるための前提条件として受け止めれば良いのだ、病気を治すことに一生を費やしていたら寿命が来てしまいました、では本当に笑えない話なのです。病気を受け入れて、それを自分のスタンダードとして生きて行く、それが自分にとっての生きていくということなんだ、という風に受け入れられなければ、きっと人生はただただ辛いものだけになってしまう。何かの準備期間ではないので、今のこの瞬間は。イマココで、息している、生きている、ということを全身全霊で受け入れるのだ、そういうことを鷲田さんは幾人かの「弱い人々」「弱くていいんだよ、と言っている人」との交歓によって、この本の中で主張しているように思いました。

なにはともあれ、応用倫理の授業が懐かしい、というのがごくごく個人的な感想でもあります。

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