テレビを消して生活の音に耳を澄ませ

ここ数ヶ月、全く更新ができずにいた。はっきり言って仕事が急に忙しくなった……という言い方は、本当は不正確で、その密度が劇的に増した、というのが本来のような気がする。自分について語るということがとことん怖くなった。文字にした途端、とんでもなく醜いものが噴出してきそうで、何度か紙にペンで書き出したりもしたのだけど、その頃に書いたものは今の自分の気持ちとはだいぶ違うものになってしまったのでもう反故としよう。つまりは、ぼくの中でなにかが大きく変化した、ということなのだ。

それはあまり人に伝えても仕方のないことなので(その変化は義務感とか必要性とか、そういうレベルの低いことによるものでは決して無く)あらためてブログ等という公の場所に書き記すことはしない。

「しない」、と書いてしまうところがまたぼくの甘いところであることは重々承知しているけれど、少なくともこの第三パラグラーフまで読み進めてしまったあなたはぼくの性格もよくご存じのことだと思う。ご賢察を期待する。

さて、そういうわけで少しは自分について書く、ということに勇気を持てるまでに「回復」したのだがすでに日曜日の深夜、というか月曜日の朝を迎えるまで数時間を残した時間帯である。そんな中でも松浦弥太郎の新著『あたらしいあたりまえ。』、よしもとばなな『ごはんのことばかり100話とちょっと』を読み終えて気持ちは少しだけ落ち着いている。きれいな言葉たちは時に「文学」という俎上に乗せられると「表面的」という批判を受け取る。けれど「生活」という俎上に乗せれば確実にぼくたちを救ってくれるのだ。少なくとも、よしもとばななの著書はそうやって読まれるべきものだと思う。『N・P』も久しぶりに再読。夏という季節の持つどうしようもない事件性、きらめき、命の躍動みたいなものがびしびし伝わってくる。『新潮』二月号に掲載された王国シリーズの完結編「アナザー・ワールド」も、とても楽しい時間を提供してくれた。「王国」シリーズあたりから著者はどんどん説教くさくなっているけれど、それが好きなのです。

閑話休題、こうやって好きなものについて書けるという時間はやっぱり必要だ。生きていれば悩んだり、苦しみもがいたりすることは多い。そんな中で静かな部屋でキーボードを打ち続けるというのは、もしかしたらぼくの原風景なのかもしれない。パソコン一台あればいつだってそこに戻ってこられる。裏切るものはない。ぼく一人を置いて変化していくものはない。危険なことを言っているかもしれない。けれど衒わずに、真摯に、そういう時間と場所と状況を大事にすることは本当に生きていくことが重たくなったときに救ってくれる。たった一人で充足することができる技術は、大人になってからこそ大切なのかもしれない。だって、人は人を本当に救うことなんてできないと思うから。人は、自分を守ることで精一杯のはずだから。

だからテレビを消して、耳を澄ます。自分の一挙手一投足が世界に対して何を働きかけているのかに耳を澄ませる。自分がここにいて何をしているのかを自分で精一杯受け止める。映画の中にいるかのような自分を認める。

そうやって明日からもがんばっていきたい。

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