自作解説をあえて

「ノブレス・オブリージュ」、第三章をアップしました。今回はまだ登場人物がこの段階でも全員そろっていません。90枚まで書いて、まだ序盤という感覚はとても久しぶり。この物語は少なくとも今のペースでいけば500枚くらいにはなるはず。

見かけ上「ノーブル」に位置する圭史の物語と、ワーキングプア的な世界をそもそもの出発点に据えた磨理の物語とを交線させていく算段です。あくまでも経済的な観点からは「持つもの-持たざるもの」という二元論に堕してしまいますが、本当はそうじゃないんだ、というところにいかに切り込めるか。こう書いてしまうと元も子もないのですが、物語としてそれをどうやってそのダイナミズムに還元できるか──まあ、ぼく程度の筆力では成功するかどうかも怪しいもんですが、とにかく書いていくしかない。

最近はめっきり読書量が落ち、書く方に時間を費やしています。

保坂和志がデビュー前、30歳が近づくにつれて焦りが出てきたとなにかで書いていたように思います。なんなとく、それがわかるようになってきた。

時間がない。

それは、一日の中で仕事に割かれる時間の多さとかではなくて「何年やってきた」という視点から「あと何年出来るのか」という視点にコペルニクス的転回が、30代に起こる、その予感。

あと何年、このブログを続けられるのだろう。
あと何年、小説を書き続けられるのだろう。
あと何年、本を読むことが出来るのだろうか。

そう思うと、自分の時間の使い方の選択というのがとてもじゃないけど大切になってくるように思えて恐ろしくなってくる。

その限られた時間で、何を残せるだろうか。
たとえばぼくが死んで、このブログや小説だけがネット上に残り続ける。
それを想像すると、なにか言葉に言い表せない恐ろしさを感じる。このログだけを読んだ人間が、この男の人生をどう感覚するのか。それは挑戦の人生だったか、自意識にまみれた醜い人生だったか、結局何も成し遂げることの無かった消耗の人生だったか。

たとえば世の中にあるいろいろなブログを読んでいると、その全ての過去ログを読み終えたときに会ったこともないその作者と長い間話しこんだような感覚にとらわれる。言葉から、人間が立ち現れてくる。そういうことは、実際にあるのだ。

(余談だけど、一部のアフィリエイト満載の提灯記事連発ブログを除けば女子大生のブログというのは本当に面白い。ああやっぱりこの国は、この日本語というヤツは、千年以上も女性の独白による文芸ジャンルとしての日記、というたぐいまれなる文化をはぐくんできたのだと脱帽する。あるいはアマチュアカメラマンのこの世界に属し吸い込まれそうになりながらも目の前にある被写体を異化していくその営み・言葉、あるいはIT企業に勤める若い人達の論理性へのフェティッシュなまでのこだわりとか、本当におもしろい。ブログ登場以前それまでの日記サイトによくありがちな自意識の漂泊も大好きではあったのですが、「さきっちょ&はあちゅう」以降、ブログの面白さの可能性はどんどん広がっているようにも感じます)

社会人になってからいくらでも本が買える状況になって個人的な歴史の中ではだいぶバブリーな乱読期ではあったのですが、そろそろ選択と集中。そして、アウトプット。そっちに重心を置いていく時期にしていかなければな、と思う。この間、何度か名物全ログ抹消の欲望にも駆られたことはあるのですが、アウトプットの場所を残しておいてやっぱり正解だったか。このブログも小説も、あるいはpodcastも今進めている映像表現の試みも、あと何年続くかわかりませんが、相変わらずやっていこうと改めて思っています。

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