ポスト齋藤孝としての茂木健一郎

予算が終わってあまりにやる気がなくなっているので何とかしたい。六時に帰ってこられるのはいいんだけど、そのあとの過ごし方がなかなか……とか思っているうちにまた忙しくなっちゃうんだよな! 昨日とか洗濯してしまったし。今日は「サッド・ヴァケイション」(映画ね)を見て、プロフェッショナル~仕事の流儀~の脳特集を見て、風呂に入って、今に至る。

茂木健一郎は最近ようやく、ほぼすべての著書を読み終わりました。周期的にこういうタイプのインテリが歓迎される社会地盤があるのでしょうが、個人的にもマイブームだったりするので。養老さんから一世代まわったんだなあ…(『バカの壁』っていまだに読んでいない)。

ポスト齋藤孝という見方をあえてすれば氏が体育会系のノリに国語教育をパラダイムシフトさせたあとで、もう一度「頭の良さ」みたいなところに揺り戻しているというか。脳は、まあ、ぼくが言うようなことでもないのですが、身体性も司っているわけで、その点で体を使うというのは頭のいいことなんだ、みたいな点を説得的に展開している点がけっこう受けているんじゃないか。

ポスト齋藤孝としての茂木健一郎」への2件のフィードバック

  1. anymous

    もしも人間の人間らしさを決定する要因がすべて脳にあると仮定したなら
    茂木健一郎の言葉のうち「脳」を「人」に変換しても
    意味がきちんと通ることに気づくんじゃないだろうか。

    つまり、茂木健一郎は「脳」をどうこうしたい学者ではなく
    哲学をそれらしく語る(騙る?)ための手段としての「脳」だ。
    そう思って彼の著作を読むと目新しさは全く無いどころか
    よくある中途半端な新書の類に過ぎないと感じられるかもしれない。

    少なくとも私はそうだけど。。。。

  2. しゃもぢ@管理人

    彼の著作やパフォーマンスに何を求めるかでそれは変わってくると思いますよ。

    ぼく自身は彼の唱える「クオリア」とか「脳から心がなぜ生まれるのか」という問題意識にはそれほど傾注していなくて、むしろそういうことを考える一人の人間(「脳科学者」という肩書きもいったんかっこに入れてね)が文学や経済や社会をどう見ているのか、という点に興味があります。

    白州信哉や松岡正剛との対談なんか抜群に面白いし。あるいは「コンピューターによって人間の心性はどう変わるのか」ということに最近興味があって、テクノロジー側からもユーザー側からもあまり目立った議論がないなか一人ポジティブなメッセージを発信し続けているところも引っかかったりするのです。

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