村上春樹、再読

ここ数ヶ月、集中的に村上春樹の長編小説を読み返しました。
『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』

個人的にはねじまき鳥以降はすべてねじまき鳥の焼き直しでしかなく、それ以前の作品というのはある程度バラエティに富んでいたと思っていたのですが・・・実はそうでもないですね。スタイルはそれぞれ違うのですがやはりねじまき鳥にそれまでの作品のエッセンスがすべて集約されている。それを確認したといいますか、もう少しいろんなことを書いていると思っていたんですが意外とワンパターンだよなあ、と。

ノルウェイの森も、これだけはかなりリアリズムの文体で書かれているので異色な感じはしますが、人物関係やパラレルで語られる2つの世界の小説内構造は、そのまんま、あまりに似通ってねじまき鳥にも注ぎ込まれています。直子の姉も自殺しているんですよね、よく読むとちゃんと書いてある。セックスの位置づけも、現実にこんな簡単なわけないという話もよくありますが、ハルキ小説においてはもっと象徴的ななにかなんですよね。一方で、国境の南~は、あまりに通俗的なお膳立てで何度読んでも好きになれない。

一貫しているのは、神話的な世界を現実の人物を借りて、現実の人間関係を借りて具体化しているだけのこと。根底にあるのはもっと小説的ではないなにか。保坂和志的に言えば、なぜ小説というのが人間を登場させなければならないのか? という問いをアポリアにする地平と言うか。たぶん村上春樹は生身の人間を小説に描こうとか、人間のどす黒いなにかに社会的な信念を迫真のリアリズムで迫ろろうとか、そんなことはこれっぽっちも小説に期待していない。もっと根源的なにかなんでしょう。それが何かと言われるとあまりの「豊穣な不毛さ」にたじろいでしまうのですが。しかしそれが世界文学だろうか? その普遍性はたぶんノーベル文学賞的な「世界文学」とは真逆のとこにあると思う。良くも悪くも。いや、悪い意味で、かな。

ハルキ小説を嫌う人たちはおそらくその思わせぶりな粗筋のあまりの不毛さ=「結局何が言いたいの?」という問いに対峙できない、あるいは「何も言ってないじゃん、この小説」という忙しい人達なのだろうと思うのですが、それはそれで立派な人生の態度だと思います。だって本当に何も言っていないと感じるならその人にとってはそうなのだし、人生にはそんなに自由にできる時間はない。

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