言葉という外部を味方にするのだ。

ほんとうに偶然でした。酒井穣『自己啓発をやめて哲学をはじめよう』、ドリアン助川『プチ革命 言葉の森を育てよう』を続けて読んだところ、全く同じ課題意識と全く同じ出口論が展開されていて本当にびっくりしました。要は、高度情報化社会になりお金を稼ぐということが今まで以上に専門性や頭脳労働に傾き始めている中で、言葉で考えるということ、まずは知識≒言葉を収集して自分の外周を拡大していくということ、それがこれからを生きるための生存戦略なのだと。なんだか大学に入りたての新入生が考えそうなことですが、しかし本当に世の中はそうなっているのかもしれません。成功を望むよりも、今目の前にあるクエスチョンを大事にすること。むしろもう、ただそれだけでいいのではないか、人生なんて。そして言葉を敵視しないこと、悪人視しないこと。これは当たり前のようでいて、ものを書くようなロマンチストにとっては実は結構難しい。言葉で表現することほど言葉の不自由さを感じることはないから。そして、そういう人は何か、こう、言葉を介さないものに非常に憧憬を抱いていしまう。それは多分、危険なことなんだと思う。あるいはこう言ってもいいかもしれない。映画監督にとっては映像こそが言語なのだと。確か茂木健一郎が言っていたような気がするけど、何かを自分のものにするというのは、それを言語のように使用できる状態になるということだと。まさにそういうことじゃないか。言葉でたどり着けるフロンティアを目指すことも大事だけれど、過剰に、空白部分になにか本質があるような期待を抱かないということ。「所詮すべて言葉じゃないか」という態度を、斜に構えるのではなくて、前向きに捉えるということ。

ドリアン助川は、最近youtubeに往年の金髪先生の動画がたくさん上がっていて毎日結構ちびちび見ては楽しんでいます。あの教室にいる人達も含めて、90年代ってこんな感じだったよな・・・と感慨深いものがあります。ジャンベルジャンど真ん中世代でしたし。この時代を氏は言及されることをあまり快く思っていない節もあるけど、ぼくは好きでしたよ。


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