そうだ、ぼくには道具があるのだ。

かつてぼくにとって文章を書くことは、苦楽を伴うものではなく、単に排泄的な意味合いもあり、世間ではそういうのを自慰的な遊戯などとも称すのでしょうが、とにかく、ぼくにとって文章を書くことは、定期的に胸の中に散り積もるいとしいとしという心を世界に対して実態を伴った言葉の連なりとして、あるいはディスプレイ上に光る文字として、ポンと海の中へ投げ入れる──というよりはむしろ、だれもいない倉庫の真ん中に置かれた広い机の上にメッセージの入ったボトルをそっと残す、などという多少は詩的な余韻を伴うものでありました。

ぼくは何よりもウェットであることを心がけ、例えば入学試験や定期試験、日々のレポート、そしてその延長線上には当然会社に入り社会人として働く中で当然求められる論理性や一貫性が含まれてくるのではありますが、そういったロジカルな世界に対して一線を画す事を自らの勤めとしていました。ぼくはロジカルであることに何の意味があるのか全くわからず、そのわからなさをひたすら自分にしかわからない言葉で綴っていたのだろうと思います。もちろんこうした物言いは現在それを超克しているという立場を匂わせますが、全くそんなことはなく、ぼくは未だにこうして文章を書きながら気にしているのは、ここまで書いてきたこととこれから書くであろうことの首尾一貫性よりも、これを書くことてぼく自身が明日から新しい言葉を手に入れることができるかどうか、ということにしか関心がない、ということなのだろうと思います。
文体=スタイルがふらつくことに読者は恐怖を覚えるかもしれません。しかし最も恐れているのはこのぼく自身であり、そしてどっちにむかって走らなければならないのかわからず(こうした思考パーンがまずもって幼稚なのだろうと考えますが)、ふらつく足の向くままに壁に頭をぶつけ、瞬間痛みで頭の中がパッと明るくなるのをやみつきになっているまるで何かの中毒患者のように。いや、これはなんの比喩でもない。まさにぼくは一歩先にあるぼく自身の姿を思い描けずに他人の残像を自分と思い込む、込ませようとするパラノイアなのです。


無題3

わかっているから言えることがある。わかっているから言えないことがある。わかっていないんだから知ったかぶりをするのだし、つじつまの合わないことを言い立てる。出来るふりをする。けれどそれは単純にいえば自分を守るためであり、自分の過去を守るためである。

我々は自らの過去を容赦なく切り離し、これまた容赦なく糾弾すればよい。もっと自分のことなど棚に上げ、もっと責任とかそういう事抜きで騒ぎ立てたらよい。
あなたは全然偉くないし、捨てるものなど何も無いし、守るものだった何も無いのだから──というつもりで、いたらいいのだ。
なんの考えもなしに高笑いすること。
わかったふうなことを言いながら、そんな自分を茶化すこと。
相手を受け入れながら時々はしごを外してやること。
そういう演技だよ、演技。
「役者になりたい」
しかし、決定的に観客不足であり、役者は最後に観客と主客べったりズムに陥るのだけは潔しとしない。私は私小説を書きたいのではない。太宰治になりたいのではない。ただ、言いたいことを言いたいだけなのに。

無題2

私の存在価値はなにか。私の所属する集団の存在価値は何か。この二つの問の関係はなにか? 私と集団とはどのように定義されるのか、されるべきか。「私」はどこまで拡大解釈されるのか。この問いを問うべきは集団の内部に対してか、外部に対してか。

ホメラレタイダケ・・・
価値とは相対的なもの、と言い切ってしまえるのか?
幸福と幸福感は区別されるべきか。幸福も不幸も相対的なものだ、と言った時、それは「正確には幸福感でしょ?」と言い直されるべきか。私はあなたと比べる。あなたは私と比べる。けれど比較の対処になったとき、両者の間にはなんの交通もないだろう。私はあなたに幸福を、あるいは幸福感を与えることはないであろう。けれど不幸にすることもないだけましなのかもしれない。それを「まし」と判断するあなたの人間性の歴史に、背中が凍る思いもあるのだけれど。
夜中に──あまりに気分が悪くて目が覚める。私は拒絶されたくないのだ、誰からも。私は私をかくも甘やかしてきたのだ。けれど体が反応する。正直に。
冷たい雨。靴音を立てて前を往く女の人を追い抜かす。私の後ろで、靴音がさらに高鳴る。暖かい地下鉄の中で少しだけ眠る。明日で世界が終わればいいのにと思いながらうたた寝するとき、少しだけ私は私に対する矛を収める。

無題

人間の基準はどこにあるか。「ベースキャンプ」としての孤独。

少しばかりお酒を飲み過ぎ、いや、飲まなければ眠れない時刻だったので彼は久しぶりに「酔い」というものを自覚する。思考停止。それが導きだされた「解なし」という結末。眠りに逃げても、出口はある。朝。
少しばかりの寝坊。「日曜日は何時くらいに来るの?」という問に対して彼は「朝から行きます」と口先ばかりの返答をしていた、ことを思い出す。鳴らない電話。相変わらず胃を下しながら一杯のコーヒーを飲み、出かける。
昨日の迷いは色濃く、さらに色濃く頭の中に漂っている。ああ、いっそ、と、出口のない結末に逃れたいといういつもの癖が出始めるとまもなく地下鉄の駅であり、いつもと変わらない電車のあまりに空席の目立つ中へ何らの非日常性も感ずることなくドアの閉まる音、背中で聞く。 
12時に会社に着くとお昼を食べ、またお昼のコーヒーを飲む。何もしていないのにお金を使う。休日のオフィス街は近隣富裕階級のベビーカーでごった返す。アスファルトの上のアスファルトの上のアスファルトの上。高層マンションは次々と下劣で品性知性の欠片もなくただ佇立するばかり。横目に彼はそそくさと家庭の幸福を軽蔑している自分を幾分か安堵の思いで発見する。ああ、これは懐かしい感情だ、とでも言いたげに、最後のコーヒーを飲み干す。
四時間の労働。
夕方は寒い、中を、御茶ノ水の丸善。レジが減って代わりにどんな本が積まれているのかと思ったら、円周率をただものすごい桁数まで印字しただけの本が314円で売られている。何も買わず、暗い中を歩きまわる。同じ場所をぐるぐると歩きまわっている。これは比喩でもあり、比喩でなくもある。
これはなんだ?
しかし考えることに敗北せず、書くことよってのみ救われるということを、思い出しながら思い切り論理も倫理も無視してキーボードを撃ちまくる。
もう一度、初めからやり直したかったのだ……という稚拙な願望を堪えながら何百回目かわからない、その、引かれた白線にもう一度足をかける。on your mark.

高橋優「福笑い」

中野坂上の駅で丸の内線を待っているといやでも耳に入ってくるのでうんざりしていたのだが、よくよく聴いてみるとなかなか良い曲である。年齢が近いというところも良い。オッサンが青臭いこと歌い続けるのはけっこう大変なことだと思う。


あけまして。

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今年も当ブログ、よろしくお願いします。

昨年末あたりからまったく更新頻度が落ちてしまいましたが、今年はなんとか持ち直したいと思います。

でも春までは予算で死んでいるのでやっぱり無理かもー! とか言いながら去年一昨年のを読み返してみると(いま、「きょねん」で変換したら「2010年」が候補にあった。恐るべしグーグル日本語入力!)、けっこう生存証明日誌と化している。。。

今はツイッターでもろもろ更新もしているので、ブログでは書評中心になると思います。そちらもぜひフォローどうぞ。

去年は色々と変化の激しい一年でした。東京異動というのも大きかったですが、親族が減りまた増え、また同人誌その他人間関係にも変化が大きく、自分のスタイルなり、立場の自己認識の仕方とかいろいろと変えなければならなかったり、逆に変えてはいけないと判断しなければならなかったり、考えさせられることが多かったです。

多くはここで語るべきではないし、これからの一年でここに書かれる文章の行間から滲み出てきてくれるとありがたいのだけれど、まあとにかく、今年も「一生懸命というのは当たり前に、日々の暮らしを丁寧に」を心がけて変わらず生きていきたいと思います。

皆様に置かれましても素敵な年になりますように!