月別アーカイブ: 2010年8月

『僕等がいた』14巻

『僕等がいた』は案の定、不発。このまま終わればいいのに、というところで何度も混ぜっ返しを繰り返す。

作者はラストシーンが想像できているのだろうか?

無意味なハッピーエンドは期待していないのです。だんだんどうしてそんなに矢野にこだわり続けるのかわかんなくなってくる。

もっと別の全然素性の知れない誰かと出会ってしまえばいいのに。

そしてそこで終わってしまえばいいのに。

この主人公は、ここまで来てしまったら別に読者に愛される必要はないのだと思う。

主人公が主人公でいられるために、そのためだけに竹内や山本妹が存在するのなら、ぼくはむしろそっちに荷担する。

そして大事なことをセリフで説明しないで!

それを、それをこそ描くのがマンガじゃないの?

回想シーンでごまかすのはいただけません。

読者の時間進行は「読む」という行為の中にしか存在しないのです。

声を大にして言いたいが、誰も幸せにならない完結を、望みます。

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ああ・・・なんとか今日を乗り切りました。これで明日の山を迎えられるというものです。次の山に登るにはひとつめの山を登り切らなければならないのです。
やっぱりちゃんと話をして、自分の置かれている立場も相手にわかってもらって、そうでないと、先に進めないよな。そういう意味では、やっぱり普段から点と
点でしか関わっていないと大きな仕事をするのは不可能だ。しつこいくらいに足を運ぶことだ。お菓子の一つでももらえるようにならないと。

明日から9月。仕事しない8月はあっという間でした。9月はきっちりしっかり味わい尽くします。

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レールガンは二期に入ったら急につまんなくなったのでもう見ません。

本日より一ヶ月間は業務ウラ日記

『マクロスF』も観了したし、今日から真面目に仕事人間に戻りますよ。ブログもきっちり更新していきますよ、どんなにしんどくても。

──というわけで、本日からタイトル通りです。

今月は目指せ100時間残業です。

しかしながらのっけから段取り間違えたっぽい。今日そろうと思っていたものは明日に。けれど〆切は変わらないのさ! いいのだ、ぼく一人が徹夜すればよいのだからな・・・。

明日を乗り越えられれば少し気が楽になるのだが、乗り越えられなかったら破滅します。とか、書いても全然気が休まりません。

気が休まらなくても、しかし待ち時間を持て余してはいけない。一個終わった次、じゃなくて、一個終わったつもりで次を見据えていかなければ。なんて、当たり前のことなのだけれど、ホント席に座っているとそのことを忘れてしまうわ。

あーあーあー、しかし心配だあ。心配だあ。

〔Youtubeリンク元削除〕

そんなわけでヘビロテ中。
菅野よう子は天才だ。。。

「けいおん!!」補遺 第二期14話の自家中毒

どうでもいいことを大まじめに書くので興味のない人はスルー推奨で。

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改めて思うに「けいおん!!」第二期14話というのはある界隈でも「神回」として名高いものの、キャラクター先行という先日書いた内容に即してもまた、神がかった内容だったと思う。

そもそもバンドが五人なので仮に王道の「ぼけ+つっこみ」でまとめ上げようとすると構成として2+2+1になる。
2=律+澪
2=唯+梓
で、残るのが紬になる。

梓の入部する前でも
2=律+澪(これはもうしかたあるまい)
2=唯+和
で、残るのが紬で、設定としてどうも紬は単独になる傾向が強い。

それをキャラ自身が自覚し、上記の構図に揺さぶりをかけようというのが14話の梗概である。紬がぼけ役を所望し、澪にあの手この手を使ってつっこみを入れさせようとするが全くうまくいかない、という話で最終的には構図は温存される。

この手の「揺らぎ」というのは思い返すと、実は随所にあって、第一期の11話「ピンチ!」で既に律の澪に対する嫉妬心が描かれ、第二期16話「先輩!」では「梓+x」のパターンが持ち回りで展開される。

この前書いたエントリーでは「けいおん」と「サザエさん」とを思わず同列に考えていたのだけれど、もう少し詳細に見ていくとキャラ先行であるからこそキャラの「揺らぎ」が描かれることで安全圏の意外性を獲得することができる。このことがどこまで制作者側に自覚的なのかはわからないが、少なくとも「古典的」とは言えない要素がここにはあるように思う。

最終的なオチ、というか視聴者の安心を得るためにには自家中毒に陥るしかない。これは命題だ。けれど、ドラマから遠く離れた地場ではほんの少しの輪郭のぶれが大きな波を引き起こすことも可能になる。たとえば物語だと思ってこのアニメーションを見ると、つまらないものなのだけれど、間テクスト性ならぬ間キャラ性という視点で見ると、評価はまるで違ってくる。

物語の構造分析が今ではすっかり廃れてしまったのは、時間軸による変化をとらえきれないというこの分析手法の欠陥に因るものなのだろうが、ことキャラ先行の作品について言えば分析は有効であり、奇しくも大塚英志の指南するラノベ創作の方法論というのは完全に構造分析をベースにしているという事実を鑑みれば、まだまだ捨てたものではないと思うし、キャラ先行作品が物語作品よりも劣っているなどということは全然言えないのである。

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物語の構造分析といえば、むかーし、たしか高校三年の冬休みに予備校で川端の短編の構造分析をならって「こんな読み方があったのか!」と興奮したのを憶えています。四年後、卒論でぼくは谷崎を構造分析しようと思ったのですが、というか分析可能であることによって物語性を補完するという論理立てだったのですが今考えるとやっぱり変な感じがします。指導教官にも「ここは不要」とか言われた覚えもある。まあしかし、個人的にバルトが大好きです。

二項対立は確かにあざやかなまでに閉塞的ですが、その限界を知ったうえで使いこなせれば良いし、逆にそのあざやかさだけを愛でるのも悪いことじゃないんじゃないかな、と、「けいおん」を見ていてふと思うのです。

朝から電車に座れると思ったら世間はまだ盆休み気分なのだな?

そう言えば昨日久しぶりに村上春樹の『アフターダーク』を読んだけど、こんなにわかりやすい小説だったっけ? 小説ってこんなにわかりやすいものだったっけ? 小説ってこんなにバレバレで良いんだったっけ? って気がした。

村上春樹は村上春樹だからっていう態度で読んではダメだと思う。作者の名前を隠して、例えば同級生が「こんなん書いたんだけど読んでくれる?」って手渡されたらどんな風に感想を述べるか? ということを念頭に置くべきだと思う。

・・・いや、同級生じゃ距離が近いな。

まあとにかくちゃんと自分の頭で考えようってことです。もちろんそうでない読書も認めるけどねって、どっちやねんって感じですが。

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今日からはプロ倫を読みます。案外読みやすかった。案外読めた。注釈をぶっ飛ばしていけば二日で読み終える気がする。

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ツイッターをぼちぼちやっている。誰もフォローしていないのにつぶやくのは闇に向かって独り言をつぶやいているようだ。でも、ぼくの好きなブロガー達はツイッター始めると途端に記事の投稿が少なくなる。タメが無くなるのかな。今日のつぶやきとかいって全部ブログの再掲するのは大反則だと思う。誰もそんなに気にしてないっつーの。あっ、俺か!

お盆休み4/4 ~アフターダーク

初日と大して変わらない一日を過ごす。

建築家コールハースは近代建築の要として「空調設備」を挙げていましたが、まさにクーラーの効いた寮の一室でごろごろと読書をするという体験は何事にも代え難い・・・。

そしてせっかくの四連休にも小説はほとんど書きませんでした。全く創作意欲が湧かない。というか、今書いているテーマに自分が全く飽きてしまっている。けれど200枚まで書いて放り出すのももったいないというか、最後まで登場人物とつきあえよ! という気もしなくもないのでちょいちょい書き継いでいっている感じ。

昔のようになにかにせっつかれて、頭の回転に手が追いついていかないほどに書きまくる・・・ということもなくなりました。生活を貫く問題意識というのが、無くなってきたよな。

大学の卒業式の時に大江健三郎が、師の渡辺一夫からのアドバイスとして一つのテーマを三年間研究し続けることを繰り返せと言われたエピソードを紹介していたことを思い出す。それは「知識人として」という大上段に構えたものだったかもしれないが。けれど同じく大学の後輩が「私は知識人になりたい」となんの衒いもなく言っていたそのストレートさもまた、すがすがしく憶えている。

しかし思い出したり、懐かしんでばかりいてはダメだろう。

時々思う。思考の言語として小説を選んだのだとすれば、あたかも論文を書くかのように小説を書けるはずだと。そしてそれは院生が「論文職人」と揶揄されるのと同じく、揶揄されるべく、職人たらんとすることもまた一つの文学的態度であるように思う。

まあ、書けない理由を書き連ねても仕方がないのでエディタとにらめっこします。

明日からは真人間。

お盆休み3/4 ~リア充から遠く離れて

今日は家のことをやろうと思い、思いながらも洗濯をしただけに終わった。

あとはもっぱら読書にいそしむ。

『忘れられた日本人』、素晴らしい作品でした。調子乗ってマルケスとか読む前に是非一読されたし。「土佐源氏」がとんでもなく面白い。文学史上の再発見だの再評価だのなんて結局出版社的なジャーナリズムであって、既に我が国固有の一級品というのはちゃーんと存在しているのです。知らないだけ。知らないというのは、はっきり言って罪だ。

本書は宮本常一が日本各地を回って採取した農村の実態や縁起やフォークロアを集めたものですが、現在の都市生活においてリアリティーを失った彼らの生活を読むことは、残念ながら「発見」という言葉を用いたくなる気持ちもあるのですが、そう言った途端に無知の知を忘れてしまう恐ろしさもある。それらはたとえばぼくの親の親の親の親くらいの出来事なのです。でも、そのリアリティーを忘れてしまっても、ここに書き写された彼らの声は生々しい。

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午後は、新宿に出てCD屋、本屋をめぐる。

カプースチンとフィビヒの交響曲集(そんなものがあったのです! 探してみるもんだ・・・)購入。あと、この前ツィマーマンのラフマピア協二番を買って聞いてみたのだけど、なかなか良かったです。ギレリスみたいな感じ。ロシアものはやっぱり打鍵がはっきりしていた方が良いのかも。でも、たぶん玄人好みではないんだろうな。

お盆休み2/4 ~五反田は平坦だ

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今日は品川の原美術館に行ってきました。

エグルストンという、写真史的には「ニューカラー」の先駆者としてカラー写真を芸術の域に高めた・・・という人の展覧会でした。↓とか有名なのかな?

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何号か前の「美術手帖」で特集もしていたのですが、そこに載っていた写真も見ることができました。

原美術館は初めて行ったのですが、まあ元々人の家ですか
らこじんまりとしていて(家としては豪邸だけど、美術館としては、という意味ね!)、三階まで(三階はそもそも作品と化しているのだけど)ぶらぶらと行ったり来たりしながら観て歩く感じ。中庭とそこに面したカフェもキレイでしたがなんか「美術館でお茶してる私って素敵☆」みたいな感じの人が占拠していたので辟易して出てきました。

住宅街の中にあるということもあり、駅からはけっこう行き方が難しいので初めて行く方は地図を印刷して持っていくことをおすすめします。道なりに行くと線路を越えてしまうのですが、越えないで横断歩道を渡れば看板が出ています。

お盆休み1/4 ~休みはDVD見ようぜ!

昨日は同期の結婚式の余興打ち合わせのため会社終わった後に軽く飲み会。大枠は決まったのでOK。その後なぜか9時台なのにバブリーにタクシーで帰宅し、届いていた坂本真綾のライブDVDを鑑賞。

いやー、しかし素晴らしいです。なにより声が安定しています。

冒頭の「Gift」がなんとも素晴らしい。二曲目の「Feel Myself」とも、ぼくが坂本真綾を知るきっかけになったラジオ番組のエンディングテーマでしたので、学生のころの日曜日深夜の感覚を思い出します。エンディングから始まるなんて、なかなか乙なものです。

それでも10年くらい前の話ですから、このライブがデビュー15周年と銘打っていることからもこの人のキャリアの長さを歌を通じて、あるいはその歌を聴いていたころの自分を思い出しながら、感じ入る一枚です。ファン歴長いほど楽しめるんでしょうね。

特に菅野よう子登場よるピアノメドレー、そこから後半への盛り上がりは、アンコールの「マジックナンバー」まで鳥肌ものです。

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日が変わって今日はベッドの中でうつらうつら本を読んだり昼寝を繰り返すという至福のひととき。最近は岩波文庫にどっぷりです。ハズレが一切ありません。東京に来てからは電車通勤なので単行本よりも文庫本を買うことが多くなりました。

夜はツタヤで「人間失格」を借りてきて見ましたがヒドイものでした。以下、憤懣やるかたないので思い切って書きます。

そもそもなんか意図的にミスキャストじゃないか? 中原中也が森田剛ってギャグ・・・なのかな・・・。葉蔵もジャニーズの人じゃなくてむしろ伊勢谷の方が合っている気がしたし。

そりゃ、小説の地の文はメランコリーなものですけど人物造形として外から見た場合にはおちゃらけていないといけないのに始終憂鬱そうにしているのを見ていると、脚本家か演出家の「人間失格」に対する解釈の浅さをむしろそら恐ろしく感じる。

ひたすら文学的な気分だけが繰り返されるだけで、これほど文学とほど遠いものは珍しいくらいです。原作に忠実というわけでもないし、ところどころ太宰ファンなこういうセリフ好きだろ? 的なノリが挿入されていて、それがむしろイライラさせます。あと、よくわからない時代考証。前畑のラジオ放送は本当に本当にシーンとして必要なの? 井伏、壇、中原は登場させるならそれなりに意識を払うべきなのに井伏との確執もなければ(なんでヒラメがいるの別人物として出しちゃうんだろう・・・)、中也のくだり「ほらほら、太宰って意外にも中原とつるんでいたんですよ」なんて言われているようで、なにを今さらという感じ。トンネルの中のお墓とかもうさっぱり理解できない。

寺島しのぶ、伊勢谷は好きな俳優なので良かったのですが。

太宰治の生涯を再現したいのか、「人間失格」の世界を見せたいのか、むしろ原作は壇の「小説太宰治」なのか、非常に中途半端。冒頭のシーンなんかむしろ三島的で「そこ、ちげーだろ!」と画面に向かって叫んでしまった。どう見て良いのかさっぱりわからない映画でした。

というわけで、ぼくの太宰ファン歴も10年を越えるのですが昨今の太宰映画ブームの中ではやっぱりこの前見た「パンドラの匣」のみが及第点、です。

総括「けいおん!」&「涼宮ハルヒの憂鬱」考

何を隠そう、ここ数ヶ月京都アニメーションにやられまくっていたのである・・・。表記二作に加え「AIR」、「CLANNAD」、別腹で「とある科学の超電磁砲」など鑑賞。断じて、鑑賞である。そろそろオタクに身をやつしたこの時間を総括せねばなるまい・・・と、筆を執る。

(ただし「AIR」「CLANNAD」についてはある界隈の人には名作の誉れ高いものの、どうしてもついて行けなかったので割愛)

ところで結論から先に言えば東浩紀だか大塚英志だか忘れたが、「物語は死に、キャラクターが残った」という現代のラノベ界隈で良く評される言説がまさに具現化されている現象だということ。

「けいおん!」について言えば、高校生がバンドを組んで・・・というモチーフであれば当然、苦しい練習によってだんだんギターが上達するだとか、音楽性の違いによって仲間割れが起きるとか、高校生なら男関係でもめるとか、そういうのがあるだろうと期待するのが物語読者である。

近年のバンドもので言えば「NANA」「ソラニン」「彼女は嘘を愛しすぎている」(「あなたとスキャンダル」とかもう古すぎて(ry)などは物語的傾向の強い作品であり、言ってみればビルドゥングスロマンに乗っ取った非常に古典的な作品なのである。

ところがこの作品には一切そういった筋書きのようなものは出てこない。

まずもって練習シーンがほぼ無い。あってもそこに「成長」の物語を読み込むことは困難である。

では「けいおん!」には何が描いてあるのか?

それは五人のメンバーとそれを取りまく学内関係者のキャラクターのキャラクター性を補完する、あるいは顕現するエピソードが延々と繰り返されるのである。AはAである、BはBである、CはCである、ということをただ繰り返し述べ立てるのである。

その証拠に例えばwikipediaなどでこの作品を調べるとあらすじよりも登場人物紹介に費やす字数がやはり半端無く多いのである。

いわば、それぞれの登場人物が一つの場所に集まっておしゃべりを始める、その中でキャラクター同士の差異を表すことによって両者の人物造形がより濃く上書きされていく、そのことを楽しむものなのである。

だからモチーフを変えても自動反射的にAはA的な反応が展開されるし以下同様なのである。彼らは自分のキャラクターを決して裏切ることはない。こうなると、ほぼ無限大にモチーフの数だけ「話」を作ることが可能だ。

しかしこれはなにもとりたてて言うほどのことでもないだろう。国民的と称される長寿アニメは、この国ではたいてい脊髄反射的なキャラだけで内容を構成されるものが多い。サザエさんしかり、ドラえもんしかりである。キャラ固定で行けば、いくらでも作「話」が可能だ。

ただこの作品に自閉したところがないのは、キャラ先行作品の風穴として世界外的存在とでも言うのか、闖入者とでも言うのか、もっと有り体に言えば「つっこみ役」がちゃんといるからで、他でもなくそれは和(のどか)だろう。

それはおそらく「新世紀エヴァンゲリオン」においてアスカがたびたび「あんたバカあ?」と言うのと一致するだろう。彼女もまた、いわば外部からネルフ組織にやってきた闖入者であり、その中にどっぷり染まりきっているシンジに対し「つっこみ」を容赦なく入れる。

蛇足ながらエヴァンゲリオンについて言えばこれが有効なのは作品の前半だけで、後半アスカが病むにつれてはやはり視聴者も息苦しさをおぼえながら作品世界に入り込まざるを得なくなってしまったのが、たとえそれが計算されたものであったとしてもこの作品の大きな特色なのだと思う。

繰り返しになるが彼女らは風穴として作品世界を現実とつなげているのである。それは冷静沈着な読者の代弁者でもあれば、作品が自閉的マンネリズムに陥るのを妨ぐ介助者でもある。

ひるがえって「涼宮ハルヒの憂鬱」に今の文脈で特記すべき点があるとすれば、まさにこの「つっこみ役」が語り手キョンであるということに尽きるだろう。

もちろんこの作品もそうそう要約の難しいものである。前半はSF的なノリであったものの後半に行くにしたがって謎は全く回収されず、日常系のキャラ先行エピソードパターンに陥る。

この構成の破綻ぶりの是非は置いておくにしても、例えばキョンのナレーション無しでSOS団もキョン無しで構成されていたとしたら、全くついて行けない作品となっていたに相違ない。視聴者はテレビの画面を見ながら語り手と同一化し、目の前のキャラクター性を批評していく。

だからこれは三人称小説でありながら語り手が作品内世界にちゃんと存在するという奇跡のような形式なのである。葛西善蔵もびっくりである。ちょうどチューブの内壁ようにキョンは内側に外側として存在し続ける。そして憎いことに自分の置かれている立場のアンビバレンシーを時々残念がってみせる。

そしてそれがキョンのキャラ性なんだよなって、言ってしまうともうなんだか頭の中がこんぐらがっているのでこれ以上深入りしない。とにかく、「涼宮ハルヒの憂鬱」においてはその語りの形式が非常に特徴的で、おそらくアニメーションという形式で最も効果的であるように思う。

ところで、と言うべきかだから、と言うべきか、涼宮ハルヒのキャラ造形の秀逸性はおそらくこの作品の人気を解析する中では副次的なものと言っても良いかもしれない。あるいは、そう言うべきか。

もちろんこの世界を自分の思い通りにしたい、そして行動がそれを可能にするという強烈な信念、強烈な個性は現代の多くの視聴者にとっては忘れていた感情であり、だからこそ引きつけているのかもしれない。ハルヒのOP/ED曲であれキャラクターソングであれ、いずれも強烈な前向きさが前面に押し出されたものになっている。

あれもこれも未体験 いつだってムリヤリ
まるでまるで未経験 これからしましょう
あれもこれも未体験 いつだってトツゼン
まるでまるで未経験 これかどうしたの?
──平野綾「Super Driver」

ハルヒのスキゾ性はおそらくキャラ先行作品の中では際だって異例のことで、かつそれが成功している数少ない実例なのかもしれない(これはこれで別に議論しても良いくらいだと思う)。いずれにせよ、おそらくキャラ性の消費の一つの形態ではあると思う。

「けいおん!」を含めてキャラクターソングというものがこれほど売れてているという事実はそれぞれのキャラに対する親和性(=萌えを感じる、ということか、そういうことか?)が作品を強く強く支持しているということを証明するものであって、旧来のOST購入とは全く別の消費活動がここにあるの
だと感じる。

・・・と、さて、いつになく長々と思いつくままに書いてしまいました。ほぼ下書状態で推敲せずアップロードしておきます。また機会があれば補足しますが、しかし改めて自分は中身よりも形式にこだわる人間なんだなということが読み返してみてよくわかった。色々と中身についても書きたいことはあるのだけど、とりあえずこんなところにしておきます。オタクじゃないからね! と言ってももう遅い。。。

↑上記で書いたことを逆手に取るとこういうMADが出来上がる。
 本当に、このアニメの受容のされ方は興味が尽きない。