月別アーカイブ: 2007年8月

最近読んだ本、の感想

ミニスカ右翼と聞けば「ああ」と思い出す人も少なくなってきた雨宮処凛さんはずっと好きで、『新しい神様』のDVDまで持っているぼくなのですが、この本は彼女の綿密な取材によるニート救済論です。

大卒で正社員のぼくではありますが、この本には年俸制によって搾取される若い正社員も登場してきて、決して他人事ではない。

「今の社会は」なんて言い出すと鼻白む人も少なくないかもしれない。けれど、自己責任論によって追いつめられたフリーターたちに残されている道は「社会が悪い」「制度が悪い」「政治が悪い」と声を大にして言うこと。そして目の前の雇用者がどんなに強権的で高圧的であったとしても、法律というのは案外フリーターにも保護的で、けれども声を上げなくては(あるいは役所に行って申請書を出さなければ)法律も守ってくれはしないということを啓発してくれるいい本です。

あとがきにも書いてあったけれど、偽装請負や搾取によって成り立っている企業の製品に対する一人不買運動もなかかなか限界がある。本当に問題のない会社を探す方が難しいからだ。でもまあ、とりあえずはせめてあの電器屋には行かないことにしてあのメーカーの商品は敬遠することにしよう。あとは足元ね。

よしもとばななはほとんど読んでいるのだけれどこれが抜けていた。昨日東京に行った帰りの電車の中で一息に読んだのだけれど、久しぶりになんだか忘れていた感情を呼び起こされた。

これは本当に、初恋の話です。そして作者お得意の、自分が子供であることを知り尽くしている大人びた少女と、大人であることをわざと知らんぷりしている子供っぽい男性とのやりとりがみずみずしく描かれています。よしもとばななとしてはもっともスタンダードで十八番の小説だと思う。挿絵の子供っぽさにだまされてはダメです。

まったくついて行けなかった。

篠沢センセーということで買ってみたのだけれど、そうだこの人、他でもない学習院大の教授だったんだ・・・てことを忘れていた。古いものは何でも悪いっていう戦後民主主義的なお利口さんたちを批判しているんだけど、万世一系の伝統は日本が世界最古だから誇るべきだって・・・古いものは何でも良いってことですか? ぼくはむしろ安吾の「日本文化私観」(だっけ? 文化財なんてぶっこわせっていきまいているやつ)に説得させられる口なので。

皇室云々よりも前に、篠沢先生の語り口にだいぶ辟易しました。

明日から大阪へ出張です。行き帰り本読むぞー!

自画像(ETV特集)

昨日のETV特集では東京芸大で今開かれている自画像展の特集をやっていました。

時節柄、戦争中の画学生の自画像に割かれた時間が多いのはまあよしとして、ぼくにとって印象的だったのは山本磨理さんの作品(リンク先の左側にある絵です)。

展示の中ではもっとも新しいものですが、大学入学前に交通事故で亡くした恋人へ向けて描かれたものとのことで、インタビューでも終始涙声でとつとつと自らの創作における使命のようなものを語っていました。

その人が、その人でなければ描けなかった作品。まさにそれは有名無名を超えて、胸を打つ作品です。

検索してみると個展もやっていらっしゃるようだったので、もし次回があれば是非見に行ってみたい。この自画像展も九月までやっているので見に行ってみよう。

芸術ということを人生の第一義に据えたとき、人は迷いを捨てられるものなのだろうか? よくわからないけれど、テレビに登場していた決して有名ではない画家たちの姿を見ていると、そういう種類の幸福があるのではないかと思ってしまった。

願わくば・・・

ロキソニンじゃなくてレキソタンをくれよ!

ついに夏ばて。熱っぽい。会社を休んで診療所に行った。

今週はクーラーも過稼働なのか水滴がぽたぽた漏れてきて、下に置いてあったモデムをお釈迦にしてしまい(交換してもらえた)、そういえば先週酔っぱらって部屋に戻ってきて机の上のジュースをこぼしてキーボードが壊れたり(近くで唯一Macを置いてあるケーズデンキで新しいのを買えた。ちょうどMacのキーボードが世代変わるらしく、使っていた有線の旧型が安かった。助かった)さんざんだったなあ。

会田誠の作品集を買ったのでぱらぱら眺めて過ごす木曜日。

歯?

やっと手に入れた。
ホントにどこにも売っていない。

で、芥川賞の選評も読んだ上で読んでみたのですが(結末が甘い、という評が大部分。石原先生は最近の小説は題名がふざけているとのたまっておりました)まあなんとも難解。

語り口についてはいろいろと評価あるとは思うのですが既に町田康がいますからねー。

この小説は、まあ、自意識・自己一人称についてのぐるぐるしたお話です、といえばそれでいいのか。何とか奥歯というモチーフによってその無限ループから逃れようとしているのか、結局それは失敗しているのか、ただの作者の思いこみが先行しているのか。なかなか一回読んでみただけではわからない。けれどもう一回読もうという気にさせてくれないやっかいな小説。所々面白いんだけど。

〈…〉一人称なあ、あんたらなにげに使うてるけどなこれはどえらいもんなんや、おっとろしいほど終りがのうて孤独すぎるもんなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!! これ死ぬまで言い続けても終りがないんや〈後略〉

みたいなところとか。

次回作はやっぱり群像なんですかねえ? 講談社さん。

これこれ!

大変楽しい読書時間だった。まさにこの本に書かれていることを考えていたのです。〈ジャスコ-TSUTAYA〉的なものと我々がどう対峙していくのか、つきあっていくのか、許容するのか、排除するのか、判断するのか、評価するのか。そのことを非常に強く考えさせられる記述に満ち満ちています。

ぼく自身、西多摩に実家がありながら中高が神奈川だったこともありその頃遊ぶ場所といえばもっぱら横浜、川崎、溝の口(神奈川というのは横浜駅周辺からちょっと私鉄に乗るとすぐ田舎なのです。それなのに確かに神奈川県人というのは東京に対するコンプレックスからは開放されているのです。その感覚は確かにあります)。

地元だとやっぱり立川で、本書では多摩ニュータウン周辺にまでは論考が及んでいないのが残念ですが、ニュータウン以外の東京郊外という場所の意味合いについてはもっと考えられるべきじゃないか? ていうか自分で考えなくちゃ。立川というのはやっぱり立川飛行場と横田基地が重要性を帯びてくるんじゃないか。まあこの辺はまたそのうち考えてみよう。

大学が駒場の時は渋谷、下北沢、本郷に行ってからはまあいわゆる東側を探索したりしました。都内のついての記述は『アースダイバー』にも詳しいのでいろいろと自分がいったことのある場所については思い出しながら楽しむことができた(新大久保に初めて行ったときはやっぱり驚いた。マクドナルドの店員が韓国人だったからね)。

で、まさに〈ジャスコ-TSUTAYA〉的な、というかまさに歩いていける距離にその二つが並んでいる茨城の片田舎に今はいるわけで。この場所に住むという体験はたぶん、東京神奈川でしか暮らしたことのないぼくにとってはやっぱり地方と東京というこれまたわかりやすい二元論だけど、とにかくそのことについて考えるには絶好のチャンスだったわけだ。で、あんな小説を書いた。

ただ、もはや都市を物語によって消費するというスタイル自体が崩壊しているんだと。都市というのは個人によってそれぞれがそれぞれの方法で消費していく場所になってしまい、渋谷に対する訴求力(なにかってーとコギャル文化でしたからね、90年代は)が一時期よりもなくなってきているにはその一つの現れ。

まあ確かにそれはその通りなんだけど、それはパンクチュエイトな意味においてであってやっぱり評論家ではなく小説というある種の物語を指向するぼく自身としてはこのただならぬ都市を源から支えている何か──小説では人間の様々な思いであるとか欲望であるとかそういうものとして、それを肯定したかった──に惹かれてしまう。『アースダイバー』はもしかしたらトンデモ本なのかもしれないけれど、仮にそうであったとしても一つの物語の提示としては非常に面白いものだと思ってしまうのです。

お台場にもヒルズにも汐留にもなんの興味もわかない。やっぱりそれは作られた清潔なテーマパークなのであって、そんなものはジャスコ○○店にわらわら集まってくるヤンキー根性と何ら変わりはないのです。個人的にそういうものは美しくないと思う。どうしても谷中とか墨東の地に足ついた感じ、新宿東、西口の猥雑な感じ(あれは南口とホント対照的)に真実を見たくなってしまう。立川にビックカメラができたときはショックだったし、アキバにヨドバシができたのも当然のようでありながらちょっと違うぞそれはという感じがした。その感覚は正当であると信じている。

んー、なんかいいたいことがまとまらないのですが、とりあえず東の発言──とはいえ、都心に住むのは、思想的に敗北という感じもしますね。ショッピングセンターとファミレスしかない荒れ果てた郊外で日本社会が崩壊していくさまを肌で感じないと、批評なんて書けない気がする──に、ちょっとだけ勇気づけられる。

※上記の視点で『下妻物語』なんて読み直してみるとけっこう面白いかもしれませんね。

痕跡

『高炉とカーテンウォール』を書いてから土地の記憶というものに非常に興味を持っている。

上二冊はまだ飛ばし読みした程度なのだけれどなかなかおもしろそう。

これは歴史を学ぶというのとはちょっと違う。自分が育った街や住んでいる街の来歴について知るということはその上を歩いていた自分自身を別の視点で眺めることになる。「そんなことも知らずにあの時のぼくは平然としていた」とでも書き出したくなるような発見。それはとりもなおさずアイデンティティの塗り替え作業なのです。

そんなこんなで江戸東京図会も欲しくなってきた。ちくま文庫で昔出てなかったっけ。。。ちゃんと買うと高いんだろうなー。本郷の図書館が恋しいです。

なななん新刊

さっそく買ってきて読みました。短編集というか、掌編集ですね。

ブルー、ストロベリー、マヨネーズの三つの長編も好きだけど、やっぱりこの作家は日常を切り取ったスナップショット的な作品が冴えています。長編作品も割と短編を積み重ねたような感じなので、まあ言ってみれば志賀直哉みたいなものでしょう。

「キャンディーの色は赤。」は初期の「痛々しいラヴ」と比べてより「痛々し」さが勝ってきているように感じました。「13年間。」「こうふく。」などすばらしい。強がる弱き者たちがそれでも必死に生活を続けていくことのせつなさというか、まさに「有機交流電燈のひとつの青い照明」のような。

日曜日の夕方の読書にはもってこいです。

新風舎の一連の報道

まあ、いろいろ書きたいことはあるのですが「だからあえて文庫という出版形式にした」ということしかここでは言えません。

出版社から著者向けの説明文が今日送られてきたのですが、まあ、これも何とも言えない内容。

別の自費系出版社の広告にありましたけど「過剰な期待はお控えください」っていうことなんでしょうね。

検索するといろいろ出てきますが、訴えている側の意見もこれまた何とも言えない内容。

もちっとクールにいきたいところです。