と
いや、それだけです。
読んでもいません。
昨日の深夜、NHKでCoccoの復活ライブの様子が流れていました。
うう…、やっぱりいいなあ。彼女の歌だけはやっぱりまだ現在の問題として聞いてしまいます。ぶっ飛ぶくらい先の方へCoccoは行ってしまったけれど(その事実が一つの救いなのですよ)、ぼくなんてまだまだ「もう歩けない」とか叫んでいるような段階ですから。
自分もがんばらねば…。
『シュウカツ』、10/27の読売新聞朝刊に広告が出るそうです。こういう費用も入っていたのね。図書館なんかで見られる人はのぞいてやってください。
いろいろと新しい仕事を任されてきて、いろいろな意味で余裕が無く、なかなか更新することができませんでした。
ここまでのぼくの会社員生活を総括すると下のようになると思います。
・仕事のイロハをおぼえる
・電話取るの怖い
・先輩に嫌われないかな
・上司に嫌われないかな
↓
・実務をおぼえる
・経理なんて興味ないよ
・ぜんぜん面白くないよ
・残業多すぎだよ
↓
・工場の人としゃべれるようになる
・ぺーぺーなのに工場長に何を語ればいいんだ
・人に見せられる資料じゃないな
↓
・慣れるまでしばらくルーティンに徹する
↓
・予算
・人様が苦労して作った数字をいじってるだけじゃんか
・来年のことなんて全部わかんないよ
・言ったことが全部実現するわけ無いじゃないか
・っていうか残業おおすぎ
↓
・同期辞める
・自分はこのまま経理でいいのか
・なんで働いてるんだ
・お金ってなんだ
・人生ってなんのためにあるんだ
↓
・特命調査(一年目論文とか)
・だれに何を聞けばいいの
・知らない人に電話とかしたくないなー
・なんで土日出てこないといけねーんだ
・優しい人もいるんだなあ
↓
・後輩が入ってくる
・後輩だけど年上なんだよな
・あいつらには自分の味わった苦労させたくないなあ
・知らないこと人前で聞かれるとつらいなあ
・自分もまだまだだ
↓
・仕事内容の拡充(今ここ)
・上司に数字丸めて報告することが仕事なのか(懐疑)
・理解してないのに報告なんてできないよ
・ぜんぜんおもしろくない…
まさに絵に描いたような二年目。悩むべくして悩みまくっている二年目。最初は本の出版資金を貯めたくて仕事して、でもそれが叶ってしまったいま、ちょっとまた揺らいでいます。もちろん本を売っていくことを第一優先に考えていかなくちゃならないんですけどね。
社会人になって一番大変なのは目標設定を自分でしなくちゃいけないっていうこと。もう、これに尽きます。仕事においても遊びにおいても。
日々をただなんとなくやり過ごすっていうことがあり得ない。今日の怠慢は明日の忙殺につながる。スケジュール感を持ちながら自分の目的地までの距離を測っていく。息を抜くこと、遊ぶこと、それすらも計画的になされなければどこかにひずみをきたす。だって極端な例だけど日曜日の夜にもう飲んだりしないでしょ。金曜日だって、翌日の土曜日を二日酔いでつぶすのがもったいないからセーブするようになりましたよ。お酒についていえば、本当に我を忘れてべろんべろんに酔っぱらったのは、配属前の懇親会が本当に最後です(いや、やっぱりこれは嘘だ)。
最近お馬鹿なことに『オレンジデイズ』のDVDボックスを買ってしまい、延々と見ていた。やっぱりここに描かれている青春群像というのは本当に典型的ではあるのだけど、それだけに自分のスタンダードの部分を見るたびに思い出させてくれるというか、太宰治『正義と微笑』もそうですけどああいう青春バリバリの物語って、自分が青春のただ中にいるときは直視できないくらいの力を持っていたのだけれど、それを過ぎてしまうと自分の心の若さを保つための道具にしかならなくなってきてしまっている。それは決して悪いことではないとぼくは思うのだけれどね。
大江健三郎の『叫び声』もある意味ではオレンジデイズ的で好きな小説です。今読んでいるけれど、ぜんぜん暗くない。
気が変わって第四稿はwwwから消し去りました。
とりあえず監督とのミーティングメモを残しておきます。
・ベースが抜けたらライヴできません
→ギターなら抜けても大丈夫
・セリフが小説調だ
→かたわらいたい指摘だぜ
→声に出して読んでみよう
・キャラが互いに似ている
→違う方向を向いている人が必要
→ポリフォニックって言ったのに
・バンドの残りのメンバーはどうしたいの?
→デビュー指向ならそれを明確に
・やさぐれツカダ
→人物としての奥行き
→「なんだよあいつシュウカツなんかしやがって」とくだを巻く
・ヨウコがたくましすぎる
→人物としての奥行き
(私のことなんてほっといてよ)
(私のことなんてわからないのよ)
(君には君のやることがあるでしょ)
・傷のなめあいよりは、現実もっと見ろ的な
・ヤスシのしっかりものキャラをもっと早めに出す
→隠しておく必要はない
・題名ちゃんと決めよう
以上をふまえて第五稿を制作いたしまっせ!!
彼は、司法試験の勉強に身を入れないまま、一五年の歳月をディベートとアルバイトに費やした。〈中略〉彼は、なによりもまず司法試験の勉強に専念すべきだった。〈中略〉怠け心の言い訳にドデカイ夢を語り、ピントのずれた現実を生きてきたのはなぜか? 自分がまだ「何者」でもないことを認めたくなかったからである。
もう何度も読み返した荻野文子『ヘタな人生論より徒然草』からの一節です。そしてこの一節も何度も読み返した。自分が、同じ穴に落っこちていないかを確認するために。
いったい、会社という組織にいる間は(=一日の時間の中で経理室員の名札をつけている間は)自分で自己規定をする必要がありません。必要がない、というよりはできないと言った方が正確でしょうか。
だから、たまに三連休が訪れてくると、どうしようもなく「何者」でもない、あるいは自分で自分をどういう存在にあるのか(過去現在未来の三点の中でどこへ向かおうとしているのか)を規定できていないことに、いらだつ。
かつてぼくは大学生であった。この言い方はこのエントリーの中に限っていえば正確ではない。「大学生」「会社員」「経理室」なんてものはただのカテゴリーにすぎなくて、やっぱり当時は自分のことを「とりあえず時間があるから小説を読んだり書いたりしている人間」としか思っていなかった。ときどき、試験の時だけ「世の中には勉強したくてもできない子供たちがたくさんいるんだ」なんてことを持ち出して「日本の大学生」というカテゴリーを無理矢理アイデンティティーにすり替える操作をしていた。それは今でもそうだ。好きでもない仕事をあたかも自分が必然的に選んだかのように錯覚させる。それは生きるための技術であり、あるいは、技術でしかない。
会社に入り立ての頃、悲壮ぶって「本当は小説家になりたいけれど今は会社員に身をやつし、組織の闇を暴こうとする侵入社員」とか、そんな風に自己規定をしていた。お金が入ってきて、欲しかった本をただただ買い漁った。土地と時間とがノスタルジーを喚起して、ここにいることに耐えられないこともあった。
きっと、アイデンティティーとカテゴリーというのはどちらが優れているとかそういう問題ではないのでしょう。きっと世の中の多くの人は周りのに人間がこうだと決めている自己像よりも自分がこうだと決めている自己像を尊重することでしょう。事実、ぼくもそう思う、思っていた。けれどアンバランスなんだ。人がこうだって言っているものに耳をふさいでしまうと、ピントがずれてしまう。だって、この世の中の現実はやっぱり人がこうだって言っていることの積み重ねで大半は成り立っているから。いくらぼくが「たばこなんて吸わないですよ」と人に言ったって、「オマエ今日吸い過ぎだよ」と飲み会の席で言われればそれはそうなのだ。この喩えはけっこうばかばかしく聞こえるかもしれないけれど、特に依存性のあるものに関しては自覚というものが本当に当てにならないものなのだ。依存性のあるもの——たとえば、夢を語ることとか大言壮語しちゃうこととか。
どうすればいいのかがわからない。
どうしたいのかもわからない。
ただ、日々をやり過ごしているだけだ。
特に耐えられないのは、たとえば深夜の2時、ゴミダメのようになった頭を抱えながらひとり風呂につかる。ああ、こんな生活があと何十年も続くのか、と嘆息してみる。出発はついに訪れないのか、いや、「出発」というのは結局誰かの号令だ。この怠けきった体質を、ぎりぎりのところで自覚している。
都度、ベストの選択をしてきたことだけは自負している。しかしそれは帰属先をいかに探すかというレベルでしかない(幸か不幸か浪人も留年もしていない)。残った問題を、いかにこの先ポジティブな言説で探求していくかが、とりあえずの結論です。
もう少し、自分について正直に語っていきたい。
月立ちて ただ三日月の眉ねかき け長く恋ひし君にあへるかも
振りさけて若月見れば一目見し 人の眉ひきおもほゆるかも
とりあえず万葉集から。
好きな女の子の眉毛を思っているんですなあ。
一種目はダジャレですが。
これこれ、なんど見ても笑う。