月別アーカイブ: 2006年2月

橋渡し

三連休から仕事への移行がうまくいきません、精神的にね。

休み中のことなど書きたいのだけどしばしお待ちを。

ネットからのスクラップ

ネットをうろうろしていると思わぬ情報・作品に出会うことがあります。ぼくはそれをこまめに印刷してためておいてあるんですが、その方法論をまとめておきます。最近パソコン内のファイルの掃除をしたらけっこうその時その時で保存の仕方がバラバラだったので今後のガイドラインとして。

 1. PDF保存する……普通のページ保存だと画像が別に保存されたり開くたびにオンラインで引っ張ってきたりすることがあるので非推奨です。とくにアクセス解析が仕掛けられているページなんかは一度自分のパソコンに落としてから読みたいという心理がはたらくのでちょっとでも気になったらまずはPDF保存。ただしこの段階では今後残すか読み捨てるかわからない代物なので第一段階の保存先フォルダを一つに決めて作っておきます。

 2. 印刷する……PDFをそのまま印刷はしません。バナー広告なんかにカラーインクを使わされるのはもってのほか。コピペを駆使してdocファイル版を作ります。印刷用として保存します。ぼくの場合、iBook上でWORDを動かすのが非常に重いのでiTextというフリーのソフトで編集したあと全体をコピペしてdocファイル化します。印刷するときの細かい体裁、たとえばマージンとかページ数の打ち方とかはやっぱりWORDが一番使い勝手がいいので最終的に紙に印刷されたときにどういう形にするのかという部分にだけWORDを使っています。

 3. ファイルする……印刷した紙媒体はもしそれがわりと大事にしたいものならポケット式ファイルへ。小説など長かったりエッセイでも線を引きながら読みたいものはリングファイル。リングファイルの場合、印刷するときに余白を充分にとっておかないと文字の上から穴を開けるという悲惨なことになりかねないので注意が必要です。ぼくの場合は基本は印刷したものをそのままの形で残せるポケット式ファイル推奨ですが、50枚くらいで一つのまとまりを持ったものであれば独立させてファイリングしたいのでリングファイルを一冊使うことになります。ポケット式だと複数のバインダー間にまたがないように気を遣ったり前から順番に埋めていくのでファイルされる内容がバラバラになったりという問題があります。

やっぱりブログなんかでいい文章書く人はたーくさんいるし、名言集を独自にまとめてあるサイトや創作系サイトでも探せばいいものがあります。あとはパソコン関係のエッセイは圧倒的に書籍媒体よりネット上の方が進んでいるし、なにより他の媒体ともっとも異なるのは自己批判的な議論が原則として成り立つというところ。つまりテレビを通じて「テレビなんて見るな! 時間の無駄、目が悪くなる、くだらない番組に脳を侵されるがままにしておく必要はない!」というメッセージが発されることはないし、たいていそういう主張は書籍媒体によってなされます。同様に新聞社は「新聞を読めば頭がよくなる、新聞を読めば大学に受かる」というメッセージを送り続けます。ネットだけがおそらくは、ネットととはこのままでいいのか、人間にとってそれはどのような意味を持つのかといった議論を他意なく(ここ、大事)引き受けることができるのだと思います。そういう論点で書かれた文章を見つけると本当にうれしいものです。

寮内のだめブーム

さらに二人はまりました。ぼくの部屋はマンガ喫茶と化しました。粉から挽いたコーヒーとかふるまっちゃうし。本当は私立図書館にしたかったのですが・・・。O杉君、『NANA』の14巻はやく返してよー!

残業対策のため明日からフレックスのコアタイムのみの就業となります。いい職場だ。めっきりやる気のなくなっている今日この頃です。

日曜の夜の戦い方

七時くらいから1時間ほど熱中して本を読んでいた。一心不乱に。音楽もかけず、ベッドに横たわって。それがすごくすごく幸せだった。

その本はIT社会のゆくえを宗教と織り交ぜながら考えていく内容のものなんだけど、ぼくがここで言いたいのは、たとえば仕事関係の本とか感情論の本とかではなくてもっと広い視点、長い視点、あるいはいま現実として目の前にある問題とは直接関係のない視点を持った本をこそ、休みの時は読んだ方がいいんじゃないか、ということ。

仕事がうまくいかない→自己啓発本→「こりゃあぼくにはムリだ」→うつうつ→メンヘルの本→「っがああ、手首切りてー!!」……って、すごい悪循環じゃありませんこと?

考えてもしょーがないことばっかり考えて、心配して、うちに抱え込んじゃうんだよなあ。よくないとは言われるし、そんなのはわかっているんだけど、かかえこんじゃう。それがたとえば具体的に病理として出てくればまだ救いがあるんだろうけど(休む口実にしちゃうとか)、そこまで根が深い訳じゃない。

風呂につかりながら思った。

今の自分はなんに関しても中途半端だなあ、と。

中途半端です。

仕事も必要悪としてしかとらえられないし(興味がわかないってのが一番大きい)、小説も気勢ばっかりで実際のところちまちま昔のを書き直しているだけだし(もはや惰性でしかない)。もともとエネルギーのある方ではないのだけれど、そのやり場がないというか。なーんかくすぶっているのを毎度、同じようにここにぐでぐで書き残している、みたいな。

「新入社員」「辞めたい」「ぐち」とかで検索していろいろ読むと、自分はけっこう恵まれていると感じます。でもそれでも解消されない。あたりまえだけどさ。

こういうとき正論はあまりに無力で、答えのない問題に行動なしで答えを出そうとすることの無謀さに、心底嫌気がさします。カフカ少年のようなタフさが欲しい。

そんなこと考えている

ひさびさに東京に行った。もう少し正確に言うと、ひさびさに鹿島を出た。

目当ては本屋めぐりでしたが、ほんとうに買いたい本がなかった。本屋に入ればたいてい何冊か(衝動買いであっても)手に取るのですが今日ばっかりはそれがなかった、不思議なくらい。Book1stにも行った。八重洲にも行った。オアゾにも行った。でもだめだった。

学生らしさが日々失われていっているのは自らの読書生活にも反映されていて、実は最近ほとんど日本近代文学というものを読んでいない。文庫というのを買わなくなった。たいてい現代女性作家の単行本(このジャンルは確実に一つの市場です。かつて斎藤美奈子が『L文学』とくくっていましたがまさにそれです)、薄味のビジネス書、濃い味の自己啓発書。

ミスチルも聴かなくなった。インストとかピアノ曲とか、あんまり自分から乗っかっていかなくてもいいような曲ばかり聴いています。

それが変化と呼ばれるもの。

成長と呼ぶべきかどうかはわからないけど。

それでも自分が選んだ道なのだ。
いつまでも「学生」はやってられないのだ。

思い出を追体験するような場所にわざわざ足を運ぶのは愚かだ。それは今以上一歩も成長しないことを宣言しているようなものだ。一体誰があのキャンパスにいる? おまえもいないのだ、そこにはもう。卒業。重い言葉。

過渡期なのだと思う。

しかし過渡期である以上、ぼくは今までとは違うものになりつつあるということ。それをどう受け止めるか、だ。あるいは押しとどめるか、だ。それくらいの選択権はある、と信ずる。

やれやれ

出口は見えてきていると言われるのですが、自分の感覚としてはよくわかりません。まだまだ先があると思っておきます。トイレにこもって寝たりしてます。デスクでこっくりしたりします。残業代が14万も逝っています。ちーん。