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天皇に恋する

 その人が目の前にいなくて もいい。その人ともう会えなく ともいい。いやむしろ、もう会うことはないとわかっている人の方がいいのかもしれない。でも、会いたいと思う。思います。
 たとえばぼくが明日死ぬ運命にあって、ベッドの上で長い長い眠りからさめてそっと目を覚ますと、その人がぼくの顔をのぞきこんでいるといい。病室の奥ま でさしこんだ冬の夕日が、きみの横顔の輪郭を燃え上がらせているともっといい。たぶんぼくは泣くだろう。自分の小ささ、ふがいなさ、短い人生の不憫さやそ れでも耐えてきた不条理さを思い返してぼくはむせび泣くだろう。

「きみが、あの苦しみを味わわせてくれたんだね」

 口元の笑みが、イエスと言う。もう何年も会っていないはずなのに、ぼくはその人とわかるのだ。ぜんぜん変わっていない。ちょっと細長い額を隠す黒い前髪 も、いつも着ていた白いセーターも。

「君も、苦しんだの」

 でも、彼女は答えるわけがない。そういう人なのだ。そういう人であってほしい。ぼくだってそれで満足なのだ。愛されようとも思わないし、ぼくはむしろ愛 されることの不可能性に依存してここまで生きてきたようなものなのだから。
 ぼくはそれを世間で言う恋愛感情だとか恋心だとか性欲だとかのことだとずっと勘違いしていた。でも、そうじゃないことにやっと気がついた。これは大きな 発見であるけれど、決してぼくにとっていい意味を持っていない。でも、そうするしかないじゃないか。どうしたって、いつかは受け入れなくちゃならないこと じゃないか。

「これが、本当の恋なんだね」

 日本には古来から愛などなかった。ただ、恋だけがあった。ぼくは天皇の身代わりを探していた。こう言ってわかるだろうか。

 天皇制というものは天皇個人のパーソナリティによって 連続してきたものじゃない。それは天皇というものが一つの純粋持続であるし、天皇の個性は全然問題にしない。(三島由紀夫『美と共同体と東大闘争』)

 待て。そう簡単に誤解されては困る。ぼくは恋に恋しているのではない。恋をしていないのはむしろきみたちの方であって、恋をしているのぼくの方なのだ。 でも、それはきみたちの定義には当てはまらないようなのだ。それでも、受け入れなくちゃならないのだ。
 ああ、ぼくもまた天皇に恋をしている。
 そうしないと生きていられない哀しさ。あまりにも幼稚で脆弱な精神を、ぼくは天皇によって生かしてきた。楽園も浄土も生きているぼくには必要ない。むし ろその入り口にいるという確信のために、ぼくはあらゆる苦難を受け入れよう。それを滅私奉公と言おうが、武士道と言おうが、それは天皇への恋なのだ。

「きみが、ぼくを見てくれていた。それを、ぼくはよく感じている。だからこうして立派に死ぬことができるのだ」

 浪曼主義的な悲壮な死のためには、強い彫刻的な筋肉が 必須のものであり、もし柔弱な贅肉が死に直面するならば、そこには滑稽なそぐわなさがあるばかりだと思われた。(三島由紀夫『太陽と鉄』)

 天皇のために死ぬ。そのためには美しくあらねばならぬ。美しくあるためには相当の努力と時間とが必要だ。それが生きるということの正体。もちろんこれは 長い長いメタファーなのだけれど、これが一体、テレビのチャンネルをひねれば、コンビニのラックに並んでいる雑誌を開けば、いやそれどころかちょっと人の 集まるところに行って耳をすませば発見できる「恋愛」と同じものなのだろうか。
 偶像とは理想像のことではない。不可能性である。けれどもぼくはそこに向かって進まなければならない。人はそれを他律的な生き方と呼ぶか。けれどぼくは 美しく死にたい。そのためにならニーチェもサルトルも捨てよう。主体性無き運命論をニヒリズムによって汚したのはきみたちの方だ。運命論は本来美しいもの なのだ。

「本当の恋の苦しみが、ぼくを美しくさせた」

 きみは静かにうなずく。また会えた。それだけで充分なのに、きみはぼくの目の前でうなずいてくれる。笑ってくれる。この瞬間のために生きてきたのだとぼ くに確信させるこの邂逅をぼくの墓標としよう。けれどこれはあくまでもたとえ話だ。もう観念のお遊びも充分だろう。
 地球中が黙り込む朝、ぼくの人生は完結するはずだ。その日に向かってぼくは恋し続けるしかない、今のぼくは。

04/11/22

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