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〈カタチ〉の行方 =第六章〜おわりに=

  第六章 保坂和志の〈カタチ〉

第一節 「筋」がないということ

 「小説散文が本来持つべき形象性(映像〈イマージュ〉性)を純粋に取り戻した」とか「文章の背後には、どんな伝達内容も存在せず」といった辻邦生の吉本 ばなな評は必ずしもあたっていなかったが、しかしこの評をそのままあてはめることのできる作家がいる。それが保坂和志である。この作家についてはまとまっ た研究書がまだないため最初にプロフィールを紹介しておく(引用は新潮社『カンバセイション・ピース』平成一五年の奥付より)。

一九五六年、山梨県生まれ。鎌倉で育つ。早稲田大学政経学部卒業。九 ○年、『プレーンソング』(中公文庫)でデビュー。九三年、『草の上の朝食』(同)で野間文芸新人賞。九五年、『この人の閾(いき)』(新潮文庫)で芥川 賞受賞。九七年、『季節の記憶』(中公文庫)で平林たい子文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。他の小説作品に『猫に時間の流れる』『残響』『もうひとつの季節』 (以上、中公文庫)『〈私〉という演算』(新書館)『生きる歓び』(新潮社)『明け方の猫』(講談社)、エッセイ集に『アウトブリード』(河出文庫)『羽 生 二一世紀の将棋』(朝日出版社)『世界を肯定する哲学』(ちくま新書)『小説修行』(共著、朝日新聞社)『言葉の外へ』(河出書房新社)がある。

 さて、『群像』平成八年六月号の「創作合評」で保坂の「季節の記憶」(『群像』平成八年五月)が取上げられているので議論の足場として紹介したい。出席 者は高井有一、岩橋邦枝、辻原登である。
 作品の性格について三人は口をそろえて同じことを言う。それはストーリーの無さ、「筋」の無さである。高井は「こういうのは、筋を追っても意味がない」 「いわゆる昔の小説技法を信じている小説家なら、これは恐らく三十枚で書く題材だと思う。ある一日に限定して、散歩に出て、そこの中でいろいろな思いを交 錯させる」と述べて保坂の小説技法を、「隠れた部分を感じさせ」たりすることによって作者が作品世界を操作していくという従来の小説技法と対比させる。岩 橋も「筋」の無さを次のように指摘する。

浅くて弛い人間関係で、とりとめのない日常を、この調子で書けば枚数 も切りなく何ぼでも書けるわけですね。

ドラマを否定している。この作者は、この範囲内でも何か異物をポンと 放り込んで、波紋を起こすとかいうことができることは十分承知の上で、意図的に避けたんでしょうね。

 「枚数も切りなく何ぼでも書ける」ということは「季節の記憶」がある出来事なり事件なりの一部始終を描いた作品ではないということだ。しかもそのことを 意図的に行っているというのが岩橋の指摘である。
 高井が「創作合評」の冒頭で「季節の記憶」の梗概をうまくまとめているので、かなり長くなるが引用する。右で言われていることが確認できると思う。

 語り手の「僕」は三十八歳の男です。最近離婚して、五歳の息子と二 人で稲村ガ崎の谷戸の中にある借家に住んでいます。職業は、コンビニで売る『気の弱い人には絶対できない自殺例集』なんていう本の企画編集をやっている。 息子は、近所では大変ないたずらっ子で有名だけれども、妙に几帳面で、ルールを決めたら破らないようなところがある子供です。
 彼らの家から三軒ぱかり離れたところに、松井さんという人が住んで います。まだ独身で四十四歳のこの人は、十年前ぐらいから近所の家の小さな土木工事みたいなものから、犬の散歩や老人の碁の相手まで引き受けるいわゆる便 利屋をやって、二十歳年下の妹の美紗さんと暮らしています。
 美紗さんは、語り手の「僕」の息子の相手を一日中でもしてくれて、 ボーイフレンドとの約束にも、息子を連れていくような女性です。「僕」と息子が一緒に夕食をごちそうになって、松井さんの家で眠ってしまうこともある、そ ういう間柄です。
 松井さんは毎日仕事に行くのですけれども、あとの「僕」と美紗ちゃ んは基本的に暇な人間で、息子を連れて毎日散歩をします。稲村ガ崎ですから、海あり山ありで、山の中の廃屋の探検をやってみるし、海へ行けば、トンビに餌 をやっているホームレスとも親しく口をききます。そういう生活の中で、「僕」と松井さん兄妹、それから時に五歳の息子まで含めて、いろいろなことが話し合 われるわけです。
 そこに出てくる話題は、宇宙のことだったり、脳死体験や超能力だっ たり、時には文字を読むことに意味があるかというようなことであったり、また霊の存在であったりします。
 そんなふうにして秋から冬への時間を過ごしていく彼らの周りに出没 する人間が何人かいます。
 その中で一番存在感の大きいのがナッちゃん、福島夏子という三十一 歳の女性で、これは美紗ちゃんの知り合いらしいです。結婚していたのが、離婚して稲村ガ崎にある実家へ戻ってくる。つぼみちゃんという、「僕」の息子と同 じ五歳の女の子がいます。
 ナッちゃんは、血液型がどうだとか、近頃流行の性格の決めつけ方を するし、ネットワークがどうとかいう言葉を使ってみたり、受験なんかに興味を持って、「僕」には気に入らない性格の女性です。だけども、「僕」は、女性と してはやはりナッちゃんに何か魅かれるところがある。どうも彼らが近くに来たことで、身辺がざわざわしてきたというような感想を持たざるをえない。これは いい意味でも悪い意味でもそうなんでしょう。
 それから、蛯乃木という人物がいます。白浜温泉の旅館のメンテナン ス会社をやっているんですけれども、世界のみんなを幸福にすることのできる宗教をつくりたいなんていうことを考えている。「僕」のところに企業紹介のパン フレットをつくることを依頼してきて、それの材料にと、やたら長いビデオを送ってきます。彼は「僕」の息子が気に入っているらしくて、「一体どうしてい る? 元気かい」と常に尋ねます。
 もう一人は二階堂というゲイの男で、三十五歳。四年前まで「僕」が 勤めていた会社の同僚ですが、同性愛の相手に失恋して訪ねてきて、いろいろ泣くがごとく、訴えるがごとくしゃべり立てる。尤も彼は全てを趣味の問題と考え ているような男で、妙に人と仲良くなる才能があり、ナッちゃんの娘のつぼみちゃんと仲よくなって、あのつぼみちゃんという子は別れた父親から性的虐待を受 けていたに違いないなんていって、「僕」を驚かしたりする。
 こういう周りの人々とのつき合いというか、触れ合いというか、そう いうものがあるにしてもこの四人の時空間は基本的にはそれに影響を受けません。「僕」は、こんな関係が一体いつまで続くかと考えたりもしますけれども、ま だ当分は壊れそうにもないと感じさせる。そんなような話ですね、この作品は。

 作品のほとんどは人物同士の会話に占められている。その会話も場当たり的で、決して「筋」の前後関係から計算された話題が持ち上がるわけではない。ま た、その会話を起点にして事件が起こるわけでもなければ会話そのものが事件であるわけでもない。右の梗概を読めば「季節の記憶」が「筋」のない、要約不可 能な作品であることはすぐにわかる。
 「創作合評」では全体的に保坂の作品に対して否定的である。「ドラマ」が起きないということは作中人物間に葛藤が起きないということである。このことを 岩橋は「人物全部が感じがいい」「内輪小説」「人畜無害小説」と表現し、辻原はその「内輪」性に「このコミューンなり秘密結社の価値を共有しない人に対す るある侮蔑の視線」を指摘する。「創作合評」での批判はほとんどこの部分に集中している。しかし保坂は決して「内輪」性を描くために「筋」を拒否した描き 方をしているのではない。むしろそうした目的論的な見方を対象化するためにあえてドラマを仕立てないのである。「内輪」性はその副産物に過ぎない。
 保坂が一貫して描いているのは人間が存在するというその有り様である。それはデビュー以来今まで変わらぬこの作家の姿勢であり、たとえばデビュー作であ る「プレーンソング」(『群像』平成二年五月)では次のようなせりふが書かれている。発話者「ゴンタ」は作品中では映画を撮っている青年である(引用は中 公文庫『プレーンソング』より)。

「映画見たり、小説読んだりしてても、違うことばっかり考えてるんで す。
 それでも、高校の頃からずっと小説書きたいって思ってて、今は映画 撮りたいって、思ってて。
 でも、筋って、興味ないし。日本の映画とかつまんない芝居みたい に、実際に殺人とかあるでしょ、それでそういうのから取材して何か作ってって。そういう風にしようなんて、全然思わないし。バカだとか思うだけだから。
 〔中略〕
 そんなんじゃなくて、本当に自分がいるところをそのまま撮ってね。
 そうして、全然ね映画とか小説とかでわかりやすくっていうか、だか らドラマチックにしちゃっているような話と、全然違う話の中で生きてるっていうか、生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っていうのがわかってくれ ればいいって」

 これはほとんど保坂の小説論としてとらえてもいいと思われる。人間がそこにいるということを伝えるのに「筋」は必要ない。ただ、そこに人間がいる様を描 けばそれで充分である。そういう主張が「ゴンタ」の口を借りて語られている。
 松原新一「保坂和志論 ――『退屈』の意味の転倒」(『文學界』平成九年一○月)によると同様の主張が「季節の記憶」にも見られる。次に引用する場面 は、語り手である「僕」の友人「蛯乃木」が送ってきたビデオを見た「僕」の感想である。「会社概要パンフレット作成資料 その一120分」と題されたその ビデオは、「蛯乃木」が自分の「会社の従業員をパートタイマーの女性を含めて全員、何の芸もなく、ただ紹介してゆくだけ」(松原)のもので「劇的素材もな ければ、劇的作法も劇的構成も全くない」(同)(引用は中公文庫『季節の記憶』より)。

 こういう大人数の中にあってもここで働いている人たちが、役割の分 担やグループとしてでなく、一人一人として価値や意味を持って存在していることを証明しているようで、たとえばあと百年してここに映っているみんながいな くなったあとに、ここに映っている人間の誰一人とも関係のない誰かがこのビデオを見ることがあったとしたら、初期の写真に写っている人たちがそれを見る僕 たちにある独特の感慨を喚び起こすように、ここに映っている一人一人が独特の存在感を持ってこれを見る人の記憶にとどまることになるのではないかというよ うなことをぼくは思った。

 「一人一人として価値や意味を持って存在していること」や「一人一人」の「独特の存在感」を感じさせるためには「ぼく」が見ているビデオのように「だら だらだらだら山もなく谷もなく際限もなくつづいている」だけでいいのである。「筋」は必要ではない。「プレーンソング」と同じ主張が繰り返されていること がわかる。
 しかしこのことを方法論として考えた場合、読者に「だらだらだらだら山もなく谷もなく際限もなくつづいてい」ればそれで「独特の存在感」が実現されるか といえばそうではない。そこで問題となるのが、小説の面白さの大半である「筋」を捨てて保坂がなにをどういう方法で描いているのかということである。それ を考えるためには小説作品からの恣意的な引用よりも創作理論として保坂が打ち出しているものについて検討しなければならない。そこで次節では二○○三年に 草思社より刊行された『書きあぐねている人のための小説入門』から保坂の創作理論にあたる部分を抽出して概観してみたいと思う。この本はその題名に反して 保坂の小説観やそれに基づいた自身の創作方法を紹介したもので「『小説とは何か?』『小説を書くとはどういうことか?』をかなりしつこく書いてい」(保 坂)った本である。

第二節 保坂の〈カタチ〉、その反「日本的リアリズム」性

 前掲書で保坂は「小説を書くとき、私は登場人物とそれらの人間関係、そして場を決めたら、あとはテーマなど考えずに書き出す」という自らの創作方法を ジャズの「モード奏法」にたとえる。モード奏法に対立する概念としてはコード奏法がある。こちらを先に説明してしまうと、コード奏法とは「コードがCから Gに行くのはいいけれど、Aにはいけないというような決まりがあり、その制約の中で即興演奏を行う」奏法である。ところがこのコード進行の制約が「ジャズ から自由を奪っている」と考えた人々がいて、彼らが考え出したのがモード奏法である。モード奏法とは「ある音階だけを決めたら、音は自由に出していいとい う」奏法で、つまり保坂はコード進行の制限を小説のテーマにたとえ、音階を小説の状況設定にたとえているのだ。先の創作合評に出てきた「昔の小説技法」と いう言葉はちょうどコード奏法に該当すると考えられる。テーマという、作品世界を一点に収斂する基準があれば四八○枚の長編小説「季節の記憶」も三○枚に まとまってしまう。しかし保坂はあえて「テーマ」を拒否し「だらだらだらだら山もなく谷もなく際限もなく」四八○枚も書く。その理由を保坂は二つあげてい る。
 一つは「『テーマ』という枠の設定は、作品としての仕上げには便利ではあっても、書き手の思考や感受性や記憶の発露に制限を加えてしまうという点で、大 きなマイナスになる」ためである。そのように考える保坂にとって「テーマ」よりも大切なのは「モード」である。「モード」とはなにか。それは次のように述 べられている。

進行している作品は、作者の意図によって簡単に流れを変えたりするこ とはできず、作者はその作品固有の運動に身を任せることしかできない。

 「テーマ」は「書き手でなく読者が考えることだ」と言う保坂の視線は徹底して製作者側にある。作品を書くプロセスでは、テーマはもちろんのことどんな制 限も束縛もあってはならない。それでは全く自由に自動筆記的に何を書いても作品になるかといえばそうではない。唯一従うべき基準として残るのが「その作品 固有の運動」である。これは読者の視点から見た言い方にも次のように言い換えられている。

小説ではつねにそこに流れている時間(一種の音楽性=jが問われて いて、読者はそこに書かれている内容ではなく、まずその音楽性によって小説=文字の連なりを読んでいく。

小説はただ内容ではなく、人物・場・時間(季節や一日の時刻)が発散 するいろいろなものをたえず引き連れていかなければならなくて、それは文字として書かれたものを読んでみなければ判断がつかないのだ。

 右のような表現を見てくると保坂の主張しているのは、論理的には分析できないその作品固有の流れのようなものと言える。なにが流れているのかと言えば 「人物・場・時間」である。このことを「筋」との対比で説明してみたい。
 もし「筋」を描くとすれば「人物」は事件や出来事を構成する要素として動かなければならない。「人物」には事件や出来事における役割という意味が付与さ れ、それにしたがった行動しかできない。だからこそ「日本に於けるクリツプン事件」は行為項分析ができたのだし、「和解」も要約ができたのである。「場」 や「時間」についても同じことが言える。「昔の小説技法」にしたがえば、描かれるのは事件や出来事が起こる「場」「時間」のみで、事件に関係している部分 だけを貼り合わせて作品は作られる。したがってそこには出来事の流れ(=「筋」)があるのみで、「人物・場・時間」の自然な流れは存在しない。あるいは流 れを中断することで小説的効果を図る場合さえある。「人物」も「場」も「時間」も、「筋」の構成要素としてそれに従属するのである。ところが保坂は「人 物・場・時間」をなにかに従属させることを拒否する。このことを保坂は次のようにも言っている。

構造分析される小説なんかダメだ〔中略〕。構造分析によって説明でき ないのが小説の面白さに違いない――この考えはしだいに過激になり、『プレーンソング』という、何もないような話が出来上がってしまったのだ。

 構造分析は作中の「部分=要素」に意味を付与していく作業である。「登場人物に役割≠与えない」と言う保坂はそうした分析の不可能性を指向する。部 分を全体に従属するものとして扱うことを拒否する。同じことはまた次のようにも述べられている。

外から見る・俯瞰する能力の自然な延長がモデル化であり、モデル化の 能力がいくら高くてもそこに質的な差異は一切ない。人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない、つまりその外に自 分が立って論じることができない。それを知ることが哲学の出発点であり、これは小説もまた完全に同じなのだ。

 モデル化という分析を可能にするのは俯瞰する視点である。その視点を小説に当てはめれば、部分を全体の都合に合わせて動かすことのできる視点になる。し かし(哲学と同様に)小説とはそういうものではない。部分は部分として独立すべきで、全体に対する概念として分析の対象になることはあってはならない。そ して「人物・場・時間」を「人物・場・時間」として描く、そうした時に作品内にあらわれるのが「その作品固有の運動」「音楽性」であると言えよう。「筋」 に従属する事はないから「人物」はその「人物」固有のリズムで日々を暮らしていく。なににかまうことなく「人物」たちは自らのルールにしたがって生きてい く。そうした自足した存在感を持ったものとして描くことによって「一人一人として価値や意味を持って存在していること」や「一人一人」の「独特の存在感」 を読む者に感じさせるのである。
 しかしここで問題になるのは。「人物・場・時間」を「人物・場・時間」として描くというのはまさに私小説が指向した「あるがまま」ではないのか、保坂の 方法論はそのまま「日本的リアリズム」ではないのか、という疑問である。もちろん保坂に反「日本的リアリズム」の姿勢を読み込もうとするのは筆者の勝手で はあるのだが、保坂の〈カタチ〉と先行の〈カタチ〉との関係性を考える上でどうしても答えておかなければならない問題である。具体的に保坂がどのような方 法論を使っているのかを見ながら考えていきたい。
 とは言え保坂の方法論はただ一つで「『猫』を比喩として使わない」ことがそれである。保坂の小説には猫が頻出するのだがそれらは決して「登場人物の心理 の説明として使わ」れていない。たとえば「プレーンソング」で猫は次のように描かれている。

 その時茶トラの子猫がこの前と同じように細い道を横切ってマンショ ンの陰に跳び込もうとするのを見つけたから、ぼくは二月から進歩のない「ツュッツュッ」という舌鳴らしで子猫の注意をひこうとした。そんな能のない呼びか けにもかかわらず子猫の方はそれなりに成長してくれていて、ゴミ捨て場のポリ容器のあいだに首を突っ込みかけた姿勢から一歩か半歩引きさがってぼくの方を 振り返った。
 振り向いた子猫はとびきり可愛い。うっかり動作を中断してしまった その瞬間の子猫の頭のカラッポがそのまま顔と何よりも真ん中の瞳にあらわれてしまい、世界もつられてうっかり時間の流れるのを忘れてしまったようになる。
 子猫とぼくはそうやって一秒か二秒のあいだ見つめ合い、それからぼ くも子猫と一緒にカラッポになった頭からさあ次にどうしようという考えを引き出そうとしていると、子猫は振り向いた姿勢からまた一、二歩動いてぼくと正面 に向かいあう姿勢になった。

 この調子でまだ延々と猫の描写が続く。ここにはただ「ぼく」と「猫」としか描かれていない。「猫」を継起に事件が起こるわけでも「僕」が「猫」を使って 事件を起こすわけでもなく、なにより「猫」が「猫」以外のなにかをあらわすということもない。これと対照的なのが吉本の「キッチン」で、この作品では先に 分析したとおり「台所」が純粋に「台所」として描かれることはなかった。必ずなんらかの意味を持つ「観念的具体物」としての機能を果たしていた。保坂の 「猫」は「猫」でしかない。言わば具体的具体物として存在しているだけである。そして保坂はその存在している様を描いているのだ。
 このことは、自分以外の客観的存在物という意味では「猫」と同じ「風景」にも言えて、保坂の風景描写というのはそれを見ている人物の内面描写には決して なっていない。「カンバセイション・ピース」には次のような描写がある(引用は単行本『カンバセイション・ピース』より)。

 百日紅の花がショッキングピンクの鮮やかな色で木の全体を覆い、ノ ウゼンカズラがアカマツの幹に太いツルを巻きつかせて高く這いあがって、オレンジ色の南国みたいな花を咲かせていた。塀に何本も張った糸に風船カズラが細 い茎を絡ませて丸い小さな実をつけていて、その塀の向こうでは高く伸びた夾竹桃が細長くて濃い緑の葉を茂らせている中に桃色の花をいっぱい咲かせていた。 鉢植えでは何度名前を聞いても忘れてしまう小さな朝顔のような花が咲いていて、その隣りの鉢ではヒマワリが一本伸びていた。駐車場の隅でオシロイバナが咲 いていて、車の下で寝ている猫は私がすぐそばを通ってもシッポひとつ動かさなかった。生け垣の隙き間からこっちを覗いていたレトリーバーも私のことをただ 目で追うだけで、その奥ではツーッと真っ直ぐに茎を伸ばした白い木槿の花が弱い風にゆっくり揺れていた。小学三年生くらいの女の子が一人で退屈そうに空き 缶を蹴りながら歩いていて、追い越してもしばらくカランカランと空き缶が転がる音が聞こえていた。

 保坂は決して風景描写を比喩として使わない。右に書かれているのは風景以外のなにものでもない。正真正銘の風景描写である。これと比較しなければならな いのが志賀直哉「暗夜行路」にある有名な一場面だ(引用は岩波書店『志賀直哉全集』平成一○〜一四年より)。

 中の海の彼方から海へ突出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い 燈台も陽を受け、はつきりと浮び出した。間もなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤鱏を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、その 代りに白い烟が所々に見え始めた。然し麓の村は未だ山の陰で、遠い所より却つて暗く、沈んでゐた。謙作は不図、今見てゐる景色に、自分のゐるこの大山がは つきりと影を映してゐる事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上つて来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止するこ となく、恰度地引網のやうに手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の陰にも似てゐた。中国一の高山で、輪郭に張り切つた強い線を持つこの山の影を、その儘、 平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。

 ここに描かれているのは確かに「風景」である。しかしそれ以上の意味がこめられている。「自分の精神も肉体も、今、この大きな自然の中に溶け込んで行 く」感じ、あるいは「なるがままに溶け込んで行く快感」という作中の表現を加味すれば、ここに描かれているのは大自然と人間の融合であり、夜明けのダイナ ミックな自然を活写することによって同時に謙作の心内に起きている変化を描写している。ここにこそ「日本的リアリズム」の最大の特徴である主観と客観との 癒着が見られるのである。対象物は客観的存在物として独立していない。この場合は「人物」を説明する機能を付与されており、「自然」が「自然」として描か れていないのだ。
 さらに同じことは「会話」についても言える。通常、小説における会話というのは作家にとって読み手に何らかの情報を伝達する場である。「和解」の冒頭の シークェンス分析をした際にも、電話での会話から読み手は様々な小説内の状況設定を情報として受け取る。つまり「昔の小説技法」にしたがうならば会話の描 写もまた「筋」に従属する要素として「機能=意味」を持たされる。その結果一見無意味なおしゃべりが描かれると読み手は何か裏の意味があるのではないかと 憶測してしまう。そして実際裏の意味をこめて会話が描かれる場合が多い。しかし保坂は決してそのようなことはしない。「会話」は「会話」として描く。その ことを次のように言っている。

会話というのは、二人(ないしそれ以上)の人間が現にいる空間でしか 起こらないのだから、「会話を書く」ことは会話がなされる空間を書くことなのだ。

 小説の登場人物をストーリーの中に配置しないということを言ったけ れど、会話もそれと同じことで、ストーリーの進行を手伝うようなものだったら、人物がしゃべっている意味もリアリティもない。

 このように言う保坂の描く会話の一例を「プレーンソング」から引用しておく。

 〔前略〕そうしていると窓のところからよう子が振り向いて、
「畑は見えないんですか」
 と訊いてきた。
「中村橋とか練馬とかいっても、畑ばかりとは限らないんだよ」
「でも途中にも、畑、ちゃんとありましたよ」
「二階だったら前の家の向こうの畑が見えちゃうけどね」
「じゃあ、コヤシのニオイなんかしてくるのかなあ」
 と、よう子が言うとアキラが喜んで、
「ねえ、コヤシのニオイなんかするの? うちの田舎でもしないのに。 すごいじゃん。
 そうだよね。ここ田舎だもんね。渋谷や新宿から電車一本で来れない んだからね。
 田舎じゃなきゃこんな家に住めないよね」
 と言うと、
「渋谷だって新宿だって、畑のあるところまで電車一本で行っちゃうの よ。
 東京って田舎なのよ」
 とよう子が言った。よう子が畑を見たがっていたのかそうでないの か、東京が田舎なのがつまらないと思っているのかどうなのかがそれではわからなかったから、
「東京が田舎なのがどうなの?」
 と、こういう質問独特の返答しにくい訊き方をしてしまったのだけれ ど、よう子は、
「それだけ」
 と言っただけで、
「もう風が気持ちいいのね。夜でも」
 と言ってまた外を見ていた。

 決して登場している三人の人間関係を会話が代弁しているわけではない。「それだけ」の会話である。
 このように見てくると対象を対象そのものとしてあるがままに描くという保坂の目的が、対象をなにかの比喩として使わないという方法によって実現されてい ることがよくわかる。保坂がこのような書き方をする理由は簡単で、「現実の世界では、猫が人間の気持ちのメタファーになるなんてことは絶対にない。つま り、猫を猫として書かないと、小説が現実とつながらない」ため、あるいは「現実の人間関係というのは、それほど簡単に色分けすることはできない」ためであ る。保坂は決して「内輪」でのみ完結する人間関係を描いているのではない。それは大きな誤読なのであって、保坂は一貫して作品内世界と現実とのギャップを 埋めようとしている。これはそのまま保坂が「だらだら」書く二つ目の理由にもなっている。現実として人間が存在していることに「テーマ」などない。現実の 人間の人生が一つの「テーマ」にしたがって送られることはないのである。「テーマ」や「メッセージ」といった意味に収斂されることなく、混沌とした現実に 向かって開放された作品世界を実現するためには「だらだら」書くしかないのである。保坂は「主体」と「客体」とを峻別するという、「日本的リアリズム」と は正反対の方法によって「あるがまま」を実現したと言えよう。
 〈カタチ〉という枠でこのことを言い直すならば、「筋」の否定という点で保坂は芥川の〈カタチ〉を引き継いでいるように見えるのだが、芥川が最後まで 「意味」に縛られていたのに対して保坂は「意味」を積極的に否定する。「猫」は「猫」以外の意味を付与されることなく「猫」として描かれる。それが最優先 された結果「筋」がなくなるのであって、その逆ではない。純粋に方法論として見た場合、保坂の〈カタチ〉に対しては芥川よりもむしろ谷崎の〈カタチ〉との 類似を指摘することができる。谷崎は「語る」ということによって「主体」と「客体」とを峻別した。保坂の小説にも語り手「ぼく」は存在するのだが、谷崎の ようにその存在を主張することによって読者も巻き込む形で「主体/客体」の区別をするのではなく、なにかを別のなにかの比喩に使うことのないように語らせ ることによって「主体/客体」の区別をするのが保坂の〈カタチ〉である。そして「小説では、形式と内容は別々に考えても意味がないのだから(評論家はそう いう論じ方をしたがるが)、『風景の何をどう書くか』という中身のための書き方だけが文体になる」と言う保坂の〈カタチ〉(=「形式」)が「一人一人とし て価値や意味を持って存在していること」(=「内容」)を描くことと密接に関係していることは言うまでもない。


  おわりに

 本稿は当初卒業論文としては史上初であろう保坂和志論として計画されていた。しかし保坂の問題意識を辿っていくと、どうしても対私小説という問題設定を クリアしなければ説得力のあるものは書けないと思った。その結果保坂の章にたどりつくまでに五章も費やし、しかも肝腎の第六章が最もお粗末な出来になって しまったのはひとえに筆者の力量不足である。
 本稿には様々な〈カタチ〉が登場した。しかしそれらは結局「意味」をめぐる攻防であったように思う。横光は映像性によって既存の「意味」に新しい「意 味」を与えようとした。谷崎は「意味」を組み合わせ積み上げていくことに長けていた。芥川は「意味」そのものに疑いを抱きながらもその呪縛から完全に逃れ ることはできなかった。吉本は様々な表象を駆使することで、一つに収斂されがちな「意味」にぶれを起こした。そして保坂は完全に「意味」から逃れようとし ている。「意味」は時に「メッセージ」であり、時に「テーマ」であり、時に「筋」であり、時に「物語」であり、時に「コード」であったが、いずれも日本的 リアリズムの得意とする分野である。作家は各々の〈カタチ〉によって、「主体」が「客体」に身勝手に意味を付与していく癒着状態を打破しようとしたはずで ある。もちろんその全てが成功したとは言えないのだが――しかしいずれにせよ興味深いのはこうした攻防がいつの時代にも恐らく存在したという事実である。 本稿では昭和初期と現代文学としか扱うことができなかったが、内容価値論争も心境小説論争も純粋小説論も中間小説論もおそらくは同じ問題の一端を担ってい る。色々な意味で話題になった第一三○回芥川賞にも同じことが言えて、金原ひとみ「蛇にピアス」が彫られたタトゥーの「意味」を探す物語であるのに対し て、綿矢りさ「蹴りたい背中」はストーリーよりも各場面毎の描写力がものを言う作品で、並べて読むとどこか「話の筋論争」を想起させる。言葉によってしか 書かれることのない文学にとって「意味」をめぐる問題は永遠の課題であるのかもしれない。
 さらに面白いのはその評価の決裂ぶりで、「話の筋論争」について中村光夫は「この、昭和初頭、芥川の自殺の直前に行はれた論争は、今日から見て象徴的意 味を持つてゐます。/以後三十年の歴史は、芥川の理想と彼のやうな芸術家気質の敗北の道程であり、事態は潤一郎の指し示した方向に、彼の予想を遠くこえて 進んだからです」(「中間小説論」『文学』、昭和三二年一二月)と述べているのに対して佐伯彰一は「芥川流の『詩的』な純粋小説論、断片化の主張は、すぐ 次の世代の作家たち、『掌の小説』や『禽獣』の川端康成、『山椒魚』や『逃げて行く記録』の井伏鱒二、さらには梶井基次郎、堀辰雄、また太宰治、中島敦に よって、それぞれ微妙な変容が加わりながら、そのまま引きつがれて行った〔中略〕。わが国の二十世紀のその後の推移について考えるなら、谷崎・芥川論争に おける現実的な勝利者はむしろ芥川の方であった、と認めざるを得ない」(『物語芸術論』)と述べている。こうした評価の相違はその時代々々の文学状況にも よるだろうが批評者の文学観がかなり色濃く影響するように思う。「意味」をめぐる〈カタチ〉の様々のなにを支持しなにを支持しないかは、批評者にとっても 一種のリトマス試験紙たりうるだろうということを述べて、擱筆する。


  引用・参考文献一覧

◇全集
・平野謙『平野謙全集』、新潮社、昭和四九〜五○年
・横光利一『定本横光利一全集』、河出書房、昭和五六〜六二年
・谷崎潤一郎『谷崎潤一郎全集』、中央公論社、昭和四一〜四三年
・芥川龍之介『芥川龍之介全集』、岩波書店、昭和五二〜五三年
・田山花袋『定本花袋全集』、臨川書店、平成五〜七年
・志賀直哉『志賀直哉全集』、岩波書店、平成一○〜一四年
・清少納言『枕草子』(「新日本古典文学大系」)、岩波書店、平成三年
◇辞書・事典類
・『広辞苑』第二版、岩波書店、昭和四四年
・三好行雄他編『日本現代文学大事典作品篇』、明治書院、平成六年
・志村有弘編著『芥川龍之介事典』、勉誠出版、平成一四年
・川口喬一、岡本靖正編『最新文学批評用語辞典』、研究社、平成一○年
◇単行本
・臼井吉見『近代文学論争』、筑摩書房、昭和三一年
・ロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析序説』、みすず書房、一九七九年
・河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』、文藝春秋、平成一四年
・A・J・グレマス(田島宏、鳥居正文訳)『構造意味論』、紀伊国屋書店、一九八八年
・吉本ばなな『キッチン』、福武書店、昭和六三年
・保坂和志『カンバセイション・ピース』、新潮社、平成一五年
・保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』、草思社、平成一五年
◇文庫
・スタンダール(大岡昇平訳)『パルムの僧院』、新潮文庫
・志賀直哉『和解』、新潮文庫
・保坂和志『プレーンソング』、中公文庫(単行本は平成二年、講談社刊)
・保坂和志『季節の記憶』、中公文庫(単行本は平成八年、講談社刊)
・佐伯彰一『物語芸術論』、中公文庫、平成五年(単行本は昭和五四年、講談社刊)
◇雑誌・論文
・『戦旗』復刻版、戦旗復刻版刊行会
・鈴木晴夫「形式主義文学論争」『国文学解釈と鑑賞』、昭和四五年六月
・由良君美「横光利一の『花園の思想』分析」『国文学解釈と鑑賞』、昭和四○年六月
・ 篠崎美生子「『蜃気楼』――〈詩的精神〉の達成について――」『国文学研究』、平成三年六月
・ 坂部恵「対照的なあまりに大正的な ――潤一郎・龍之介論争一面――」『実存主義』、昭和五三年九月
・辻邦生「映像〈イマージュ〉に達すること」『群像』、平成六年三月
・辻邦生「横光利一からの光」『横光利一』(「新潮日本文学アルバム」)、平成六年
・「創作合評」『群像』、昭和六三年三月
・「創作合評」『群像』、平成八年六月
・松原新一「保坂和志論 ――『退屈』の意味の転倒」『文學界』、平成九年一○月
・中村光夫「中間小説論」『中村光夫全集』、筑摩書房、昭和四七年
◇参考書・参考論文
・橋爪大三郎『はじめての構造主義』、講談社現代新書、昭和六三年
・小野功生『構造主義』、ナツメ社、平成一六年
・霜栄「ブラームスはお好き?」『駿台式! 本当の勉強力』、講談社現代新書、平成一三年
・石原千秋『大学受験のための小説講義』、ちくま新書、平成一四年
・大塚英志『物語の体操』、朝日文庫(単行本は平成一二年、朝日新聞社刊)
・柄谷行人『日本近代文学の起源』、講談社文芸文庫(単行本は昭和五五年、講談社刊)
・千葉俊二、坪内祐三編『日本近代文学評論選』【明治・大正編】、岩波文庫、平成一五年
・千葉俊二、坪内祐三編『日本近代文学評論選』【昭和編】、岩波文庫、平成一六年
・三島由紀夫『小説家の休暇』、新潮文庫
・谷崎潤一郎『乱菊物語』、中公文庫
・『文藝春秋』、平成一六年三月
・森山重雄「形式主義文学論争」『東京都立大学人文学報』、昭和四八年三月
・山崎義光「形式主義論争の争点」『日本文芸論考』、平成九年二月
・山本洋「『春は馬車に乗つて』と『花園の思想』の背景」『龍谷大学論集』平成元年一一月
・川上美那子「『文芸的な、余りに文芸的な』について」『東京都立大学人文学報』昭和六二年三月
・安田孝「『饒舌録』一面」『東京都立大学人文学報』昭和六二年三月


※本稿四○○字詰原稿用紙換算枚数…二四二枚(目次、引用・参考文献一覧不含)

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一応これで提出しましたが、「強引すぎる」との評価でした…

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